「縁」 に対して、すべてのことがあるということを見、
向こうのもの(環境)を相手にして考えてみれば
「此の物」 が向こうのものに対して動くということは
向こうのものに対しての 「奉仕」 です。
その 「奉仕」 は自分で 「奉仕」 しようとしたのでは
ないのです。
「眼」 をもって向こうに 「奉仕」 して、向こうのものを
「眼」 にに受けるというようなことではなしに、
いつでも実現するのです。
そういうようなことを人間(にんげん)がただ両方を
認めて考え、取り扱っただけで 「眼自体」 は何も
知(識)らないのです。
向こうも知(識)らずに行われるのです。
「自分の眼」 で 「私」 が見ているのだということでは
なくて、「眼の単独な働き方」 なのです。
そこに 「此の物」 の純粋な 「奉仕」 ということがあるのです。
「六根を六根のまま」 にその 「六根の一つ」 でも、「自分」
から使っては駄目なのです。