私たち衆生は、「意という心意識」 の働きのために
「迷い」 というものが生じます。
しかし、たくさんの 「迷い」 があるようですけれども
迷っているところはひとつしかありません。
何故ならば、「心(しん)」 はひとつだからです。
「ひとつの心」 が 「縁」 によって様々な 「迷いを生じる」
のです。
ですから、「ひとつの迷い」 がなくなりさえすれば、
「迷い」 というものすべてがなくなるということは
可能だということです。
私たち衆生は、「意という心意識」 の働きのために
「迷い」 というものが生じます。
しかし、たくさんの 「迷い」 があるようですけれども
迷っているところはひとつしかありません。
何故ならば、「心(しん)」 はひとつだからです。
「ひとつの心」 が 「縁」 によって様々な 「迷いを生じる」
のです。
ですから、「ひとつの迷い」 がなくなりさえすれば、
「迷い」 というものすべてがなくなるということは
可能だということです。