「仏性自体の動き」、「六根自体の働き」 がいつであっても、
それに対して問題を起こしていてはみなきず物に
なってしまいます。
「有」 に対しても、「無」 に対してもみんな役に立たない
ようになってしまいます。
「人の考え」 を用いると、そういう大きな誤りが起きるのです。
捨てようとすれば、捨てる手続きを用いるだけ捨てるものが
あることになります。
そうかといって、「空」 に成ろうと思えばそれだけ 「空」 に
背くのです。
「本当の空」 ではないのです。
それは概念的取り扱いとしての 「空」 です。
ですから、おおよそ 「此の物(自分自身)」 とは
縁遠いのです。
そういうことが人間(にんげん)には、なかなか分からない
のです。
それは考え方と 「此の物(考え方でない今の自分自身)」
との区別がはっきりしないからです。
「坐禅」 をすると否応なしにそういうことが自らはっきりする
ものです。