人間(にんげん)の考え方を思い切って手放せば
「自分の真相(因縁によって、ただ一々が活動する
ように出来ている)」 が分かるのです。
もう少し説明を加えますと、仏教では
「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 で 「意(心)」 を、それに対して、
「六境(色・声・香・味・触・法〈しきしょうこうみそくほう〉」 で
「法」 を対称として示しています。
「意(心)」 というのは、どういうことかというと、どうもしないのに、
どうも思わないのに縁に触れれば(向かえば)自然(じねん)に
知らず識らずに動くように出来ているのです。
それが 「法」 なのです。
それが現在の私たち衆生の姿なのです。
他へ尋ねて行くとか行かないとかいってみたところで
どうしようもないように出来ているのです。
「自分の真相」 とはそういう絶対性なのです。
このことはあまりにも明瞭(簡単)過ぎるものなので
多くの人は信じられないものなのです。
それでとかく他を追いかけて(求めて)いくようになるのです。
「此の物(六感)自体」 は始めから 「此の存在自体」 が
「法」 としての存在なのです。
そういう成立なのです。