▼「森問題」を何度かブログに書いたが、なんだかすっきりしない。テレビは「女性蔑視の不適切発言」とし、森を感情的に批判する。
▼私がすっきりしないのは、日本社会が感情に流されて、物事の本質を見失っているのではないかという、懸念があるからだ。
▼久しぶりで隣町の国宝、縄文時代の「中空土偶」との会話を試みたが、土偶は現在の我が国の環境破壊(社会環境の悪化も含め)に呆れたのか、会話には応じてくれなかった。
▼昨夜、土偶が夢に現れた。【木を見て森を見ず】と言葉を発し、夢から消えた。メディアの氾濫で、国民は「感情」に流され、未来を見る目が曇っていると、指摘されたような気がして目が覚めた。
▼日本思想史が専門の、東工大の中島岳志教授の【敵対超える“情”の可能性】と題する、新聞の切り抜きを読み返した。
▼この記事は「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」中止に関する論評だ
。一部の反対者の声でイベントが中止されたのは、表現の自由に関する、憲法を揺るがす重要な問題だ。
▼その中で、中島は社会学者の宮台真司の言葉を引用している。【真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢】で、これは「最終的な目的」の達成ではなく、カタルシス(浄化)を得ること自体が目的化している。それは『知性の劣化ではなく感情の劣化』だという。
▼「感情の劣化」を乗り越えるには『内から湧き上がる力』、内発性を呼び覚ますことが重要だとみや大は訴える。
▼中島は、アートは、内発性を喚起できるのか。敵対を超えた「情」を生み出すことができるのかと問う。閉会までまだ時間がある【情】の可能性を諦めてはならないと主張した。
▼「森問題」も「感情」が先行し、それを煽っているのがメディアだ。この問題は単に森喜朗の問題ではない。
▼森喜朗は総理経験者であり、その後五輪の委員長となった。五輪は自民党の下で、自民党の考えで、自民党の「感情」で行なわれる「平和の祭典」の冠を戴く、世紀の祭典だ。
▼【自民党による自民党のための、自民党的五輪】なのだ。そこに森問題が浮上した。つまり我が国の「感情の劣化」つまり【日本国の劣化】そのものを表面化させたのが「森問題」なのだ。
▼「森問題」は『平和日本の折り返し点』だと思う。コロナ戦争下で、五輪開催に向けて突き進むこと自体、旧帝国陸軍が戦争拡大に向かうかう状況と酷似しているように思うからだ。
▼その先には、五輪開催に『治安維持』という命題が突き付けられる。そこに待機しているのは自民党結党以来の目標である【憲法改正】だ。帝国憲法が改正されたのは、国民の意志に関わらず“敗戦”によってだ。
▼日本国憲法は、敗戦による国民の「戦争はいやだ」という感情が、憲法を受け入れたのだ。次の改正は『治安維持』が必要だという感情が高まれば、可能性は高くなるに違いない。
▼委員長交代で、国民一丸となり五輪開催へと突き進むのは、潔しとしない。ここは【五輪中止】をもって【日本人の感情の劣化】をみつめ直す機会にしなければならない。
▼そう「中空土偶」が夢に現れて、私に忠告したような気がする。中空というのは、中まで火が入るように、中を空洞にしたものだ。
▼“空”は“無”だ。無の中には真実がある。中空土偶に逢いに、世界から大勢の人が集まり【持続可能な地球】に対する会話が始まる時、それが世界遺産に登録される、適時ではないかと、私は考える。
▼五輪開催は間違いなく【憲法改正】へと大きな流れを作る。だから私は【五輪中止】に期待する。
土偶は生まれる時に焼を入れられる
人は死んで焼を入れられる
三等下