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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

五輪は中止したほうがいい

2021年02月14日 19時58分06秒 | えいこう語る

▼「森問題」を何度かブログに書いたが、なんだかすっきりしない。テレビは「女性蔑視の不適切発言」とし、森を感情的に批判する。

▼私がすっきりしないのは、日本社会が感情に流されて、物事の本質を見失っているのではないかという、懸念があるからだ。

▼久しぶりで隣町の国宝、縄文時代の「中空土偶」との会話を試みたが、土偶は現在の我が国の環境破壊(社会環境の悪化も含め)に呆れたのか、会話には応じてくれなかった。

▼昨夜、土偶が夢に現れた。【木を見て森を見ず】と言葉を発し、夢から消えた。メディアの氾濫で、国民は「感情」に流され、未来を見る目が曇っていると、指摘されたような気がして目が覚めた。

▼日本思想史が専門の、東工大の中島岳志教授の【敵対超える“情”の可能性】と題する、新聞の切り抜きを読み返した。

▼この記事は「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」中止に関する論評だ
。一部の反対者の声でイベントが中止されたのは、表現の自由に関する、憲法を揺るがす重要な問題だ。

▼その中で、中島は社会学者の宮台真司の言葉を引用している。【真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢】で、これは「最終的な目的」の達成ではなく、カタルシス(浄化)を得ること自体が目的化している。それは『知性の劣化ではなく感情の劣化』だという。

▼「感情の劣化」を乗り越えるには『内から湧き上がる力』、内発性を呼び覚ますことが重要だとみや大は訴える。

▼中島は、アートは、内発性を喚起できるのか。敵対を超えた「情」を生み出すことができるのかと問う。閉会までまだ時間がある【情】の可能性を諦めてはならないと主張した。

▼「森問題」も「感情」が先行し、それを煽っているのがメディアだ。この問題は単に森喜朗の問題ではない。

▼森喜朗は総理経験者であり、その後五輪の委員長となった。五輪は自民党の下で、自民党の考えで、自民党の「感情」で行なわれる「平和の祭典」の冠を戴く、世紀の祭典だ。

▼【自民党による自民党のための、自民党的五輪】なのだ。そこに森問題が浮上した。つまり我が国の「感情の劣化」つまり【日本国の劣化】そのものを表面化させたのが「森問題」なのだ。

▼「森問題」は『平和日本の折り返し点』だと思う。コロナ戦争下で、五輪開催に向けて突き進むこと自体、旧帝国陸軍が戦争拡大に向かうかう状況と酷似しているように思うからだ。

▼その先には、五輪開催に『治安維持』という命題が突き付けられる。そこに待機しているのは自民党結党以来の目標である【憲法改正】だ。帝国憲法が改正されたのは、国民の意志に関わらず“敗戦”によってだ。

▼日本国憲法は、敗戦による国民の「戦争はいやだ」という感情が、憲法を受け入れたのだ。次の改正は『治安維持』が必要だという感情が高まれば、可能性は高くなるに違いない。

▼委員長交代で、国民一丸となり五輪開催へと突き進むのは、潔しとしない。ここは【五輪中止】をもって【日本人の感情の劣化】をみつめ直す機会にしなければならない。

▼そう「中空土偶」が夢に現れて、私に忠告したような気がする。中空というのは、中まで火が入るように、中を空洞にしたものだ。

▼“空”は“無”だ。無の中には真実がある。中空土偶に逢いに、世界から大勢の人が集まり【持続可能な地球】に対する会話が始まる時、それが世界遺産に登録される、適時ではないかと、私は考える。

▼五輪開催は間違いなく【憲法改正】へと大きな流れを作る。だから私は【五輪中止】に期待する。
   
   土偶は生まれる時に焼を入れられる
   人は死んで焼を入れられる
               三等下

遺跡発掘と道路建設

2021年02月14日 19時58分06秒 | えいこう語る
▼私が住む地域から20分程車で走ると、北海道初の国宝となった、縄文時代の土偶「中空土偶」が展示されている「縄文文化交流センター」がある。

▼この地域は6000年に渡り、縄文人が住んでいたという。海底が噴火し隆起した地形だ。入り江が多く、居住しやすい環境になっている。

▼今でも海岸づたいに住居が並び、背後の山にたくさんの木が生え、海が滋養にとみ、魚影も豊富で、そこに人々が定住したことがよくわかる。

▼鰯・烏賊(イカ)・鮭・昆布など、食糧が豊富に確保できたので、ここに住んだ縄文人は、移動しなくてよかったのだろう。

▼それが僅か70年程で、海の資源が枯渇したしたのを、私がこの目で実感している。地球温暖化で「持続可能な地球」が、人類のテーマになっている昨今、縄文時代の【自然との共生】は、最も優れた教材だ。

▼世界に向け、その教材としての縄文文化を発信する価値は大いにある。そこで「北海道・北東北縄文遺跡群」を、ユネスコ世界遺産に登録しようとする運動がある。

▼私も大賛成なのだが、周辺住民の興味が薄いのを感じる。縄文時代の住居跡や土器などの発見はあるが、どちらかと言えば想像力に頼りがちな、精神性が高い存在だ。

▼だがこの地域は漁民が多く、精神性より実質性を重んじる生活スタイルだ。近代化された漁法は、大量の魚を確保し、それが生活を支えている。

▼単純にいえば、環境問題についても、魚が捕れるか捕れないかという、実質経済論に傾いてしまう。昨今のように魚が捕れなくなれば、死活問題で、精神論どころではないからだ。

▼遺跡が発掘されるのは、新しい道路の建設現場に多く見られる。発掘の方に尋ねたら、道路建設は、住民の利便性のために行う。

▼そこに遺跡が出れば、工事がストップされ調査が始まる。よほど歴史的に特殊な発見でなければ、調査で資料をまとめたら、道路整備を優先するということだ。

▼ある町の道路建設工事に係る私の素朴な疑問だ。その道路計画は、当初港から水産物を早く市場に運ぶための道路整備だったという。

▼だが、計画から年月が経って、魚は捕れなくなり住民も減少したので、道路計画は税の無駄づかいではないかとの住民の声があった。

▼だが土地買収も終え、工事を開始した。道路はなるべく直線の方が工事費のむだにならない。
しかし、その道の計画は、大きくカーブしている。

▼なぜかといえば、そこにはたくさんの遺跡がある。遺跡を発掘するために、遺跡の場所に道路を計画した、そんな思惑を感じる。

▼道路は国土交通省が所管だ。だが遺跡は文科省だ。役所同士、お互いの仕事が噛み合えば、そのようなくねくねした道路建設になるのだろう。その方が効率的かもしれない。

▼遺跡に関心を示さない住民からしてみれば、必要性の少ない道路建設だ。単純に考えて、税の無駄づかいともとれる。

▼遺跡に関わる人たちは、世界遺産に匹敵すると考えるが、興味を抱かない住民にとっては、必要性の薄い道路より、他のインフラ整備と思うだろう。

▼ここで私が思うのは、もう少し時間をかけて、縄文文化の精神性を理解させてから、地域あげての登録となってほしいということだ。

▼講習会では、新たな発掘が紹介され、縄文好きには夢を膨らませる内容だった。新たな二つの発掘現場の情報だったが、どちらも道路建設中での発掘だった。

▼終了してから、講習場所の地階に展示している、国宝の「中空土偶」との会話を試みた。めずらしく土偶は無言のままだった。

▼それでも私は土偶に話しかけた。土偶は国宝になった時、豪華な住まいを用意された。国宝ゆえに世界に飛んで、世界遺産登録の特命大使にされたのだ。

▼3500年間地元の畑で眠っていた。目覚めたら周囲の環境が破壊されつくしていたのを感じ、愕然とした。そこで、地球保全のミッションに加わった。

▼だが、活動に統一性がないのを感じる。さらに世界遺産に登録されるほどの活躍は十分ではないと、土偶自ら感じているようだ。

▼みんなの心が一致した時が、その時期だと。そう言っているのではないかと、私は勝手に土偶の気持ちを解釈した。

▼私が土偶の部屋から離れる時、土偶のささやきが聞こえたような気がした。【私は中が空洞なので中空土偶と呼ばれる。私の“空”を皆が埋めた時、初めて私の思いは達成されるのだが】と。

▼久しぶりに縄文の講習会に出かけ、世俗を離れ中空土偶との会話を試みた私だ。

帰りの車の中でこんな句が浮かんだ。

      森の荒廃は日本沈没
              三等下

五輪は平和国家の折り返し

2021年02月12日 15時04分50秒 | えいこう語る

▼モリ辞任から川渕に“バトンタッチ”。まさしく五輪らしい続投劇だ。昨夜から、この問題については議論が百出している。私の考えもほぼ言い尽くされたようなので、別な角度から切り込みたい。

▼1940年の第1回東京五輪は、戦争で中止となった。5年後戦争に負け、それまでの日本は崩壊した。

▼その後1964年の第1回東京五輪は、敗戦気分を一掃し、高度経済へと国民に夢を与えた
。五輪の副題でもある【国威発揚】は、見事に成功した。

▼中止となった第1回東京五輪から80年後が2020年の第2回東京五輪だった。そのちょうど真ん中の1980年が、モスクワ五輪だ。

▼この五輪は、ソ連のアフガン侵攻に反対し、各国がボイコットした。米国に倣って我が国も追従した。五輪にみる我が国の「対米従属」だ。参加選手の涙が、今でも記憶にある。柔道の山下もだ。

▼政治的なものは排除し、世界平和を目指す五輪の、最も政治的な思惑が強かったモスクワ五輪だ。世界からバッシングを受けたソ連は、その約10年後に崩壊した。

▼というような「五輪伝説」を分析すれば、我が国は、中止しようが開催しようが、10年以内には、国柄が大きく変わる事態がやって来るに違いない。

▼それが、五輪委員長交代劇に凝縮されているように思えるからだ。【川・森167体制】(年齢)では、たぶん日本的体質は払拭されず、五輪のメダル獲得は「教育」にありという、モリ流に流れないか心配だ。

▼五輪では、国家意識の統一が望まれる。そこで、自民党内でも「国旗」を侮辱するものに、刑罰をという動きが出てきた。

▼【自民党憲法改正草案】は「国旗・国歌は尊重する」とある。尊重しなければ罰則も已む得ないとなるだろう。さらに個人の人権を無視していた戦前に近づこうとする、個人軽視の条文が目立つっている。

▼差別発言を繰り返すモリは、忘れていたが【文教族】議員なのだ。「天皇を戴く神の国」とは、まずは教育からと考えているのだ。【道徳の教科化】などは、その一環なのだ。

▼84歳の川淵は、83歳のモリを後見人としたいと発言した。もはやモリ五輪の続投だ。総経費が2兆億円にも膨らみ、その使い道もシンキロウ(森喜朗)?だ。

▼自民党の政治資金への還流なども、今までの政治体質では十分考えられることだ。第一、自民党きっての宴会部長と言われるモリが、無報酬のボランティアなどというのは、あの顔を見れば嘘っぽ過ぎると、みんなが思っている。

▼今気づいたのだが、ニカイが390人も辞退したボランティアに対し「再募集すればいい」といったのは「モリが辞めても補充すればいい」という意味だったのだろうか?。しかし、そこまで考えが及ばないのがニカイだ。

▼では中止や開催した場合の10年以内に、我が国はどうなるかといえば、【憲法改正】により、日本は再び全体主義国家になる可能性があるというのが、私の妄想だ。

▼まずはコロナ戦争で、緊急事態宣言の発令が常態化した。さらにコロナ軍の侵攻がすすめば、国家治安維持の気風が強まる。この気風が、国民をがんじがらめにし【憲法改正】への大きな流れになるからだ。

▼今回の問題をモスクワ五輪に置き換えて考えてみる。中国とロシアが、尖閣諸島や北方領土問題を自国有利にするため「コロナ感染」を理由に、参加をボイコットする。そうなれば、他国も続いて、五輪開催は無理に違いない。

▼中国とロシアにどうしても参加を要請すれば、領土は手放さざるをえなくなるだろう。五輪を捨てて領土を守るか、そうでないかという選択を突き付けられることになる。外交とはそんなものだからだ。

▼1年延長された2021年五輪とは、様々な形で【憲法改正】の折り返し地点になるのではないかと、考えている。

▼そろそろ我が妄想もエネルギーが尽きてきたようだ。コロナさえ終息させれば、五輪も日本経済もすべて解消する。

▼ここは天皇・皇后両陛下に疫病神の退治をお願いしたい。天皇の先祖は「天照大神」だ。天照は太陽神だからだ。

▼我が国も随分自然を崩壊させたと天照は怒っている。一木一草に神を宿らせたのは私だが、政治がそれらを大虐殺させた。

▼太陽神である天照は、コロナ軍を地球に侵攻させたのだ。まさしく「天照の反撃」なのだ。

▼やはり、コロナ軍を鎮圧するのは、天皇の祈り」にかかっている。臨時祭日にし、全国民が学校のグラウンドに集合し、夜通し護摩を焚き、コロナ退散の祈りを行なってはいかがだろうか。

▼燃え上がる炎の中で、ひたすらコロナの絶滅と平和を祈る。その中で【日本国憲法前文】や【9条】を、皆で朗読してみてはいかがだろうか。

▼天照大神に必ず届くに違いない。「困った時の神頼み」。これが日本人の原点だからだ。

     神に叱られる神の国
             三等下

坊ちゃんと森喜朗

2021年02月10日 13時05分13秒 | えいこう語る
▼周囲に明治生まれの人が、すべて旅立った。その人たちを思い出すと、家庭というヒエラルキーの中で、その人たちが確かなポジションがあったのを、子供の頃に感じていた。

▼当時の道徳観が、背筋に走っているような感じがする大人たちが、多かったような気がしている。明治は道徳教育の場が家庭だったからだ。

▼「ならぬものはならぬ」という、反発を許さない毅然とした態度だった。そのため「頑固者」という、レッテルも張られていたようだ。

▼私が結婚したての頃に、親戚のおじさんがやってきて、当時の村長の悪口を言っていた。あいつは「年寄りを馬鹿にしている。あんなものは人の上に立つ資格がない」と言ってたのが、今でも心に残っている。

▼その日は「私の家にお世話になったので、墓参りをしてきたのだ」と言っていた。元気そうにみえたが、数日後に亡くなった。「なんだか男らしいすごいおじさんだ」と感じたのを、今思い出している。

▼先日、作家半藤一利さんが亡くなった。半藤さんの奥様は、夏目漱石の孫娘だ。そこで「坊ちゃん」を読み返してみた。明治39年の作品だ。

▼新任で四国の中学の教師となったが、江戸っ子気質と正義感が旺盛で、学校の体質や田舎の習慣に馴染めず、理不尽ばかり押し付ける教頭を殴り、東京に戻ってくるという内容だ。

▼漱石の作品の中で、最も人気のあるのが「坊ちゃん」だという。学校という上下関係が厳しく、対面ばかり重んじる組織の中で、正しいものも言えない体質に対する、ある種の正義感溢れる抵抗意識に、どの時代の人間も共感を覚えるからだろう。

▼複雑化して、組織も大きくなった現在、組織の下に人間が埋没し、人間としてこうありたいという願望を、坊ちゃんに照らし合わせて、留飲を下げるからだろう。

▼読書中に、五輪委員長のモリキロウ問題を思い出す。「明治時代でもあるまいし、女性蔑視とは許せない。第一取り巻きがだらしない。自分の考えをはっきり主張もできない。本心はやめてもらいたいと思っているにもかかわらず」。

▼「令和の世の中に、帝国日本の悪しき風習が残っているとは、日本国の恥ではないか」と、坊ちゃんに成り代わって、モリキロウにゲンコツを張ってやりたいと思う。

▼「やれるものならやってみろ」というモリキロウを、そのままのさばらせるなら、世界中から【精神劣等国】と言われてもしょうがない。

▼そんな国での五輪開催は、国民がボイコットしなければならない。「坊ちゃん」も「漱石」も「半藤さん」も、怒っているに違いない。

▼昨夜は「坊ちゃん」になり切って、赤シャツのモリキロウを、懲らしめた夢だった。

  降る雪や明治は一人もいなくなり
               三等下

戦後日本は独創性を失った

2021年02月10日 13時05分13秒 | えいこう語る
▼ノンフィクション作家の吉岡忍が、北海道新聞(9日)に【取り残される日本社会】というテーマで、コロナ禍の1年を振り返り、日本が独創性を失ったことを指摘している。

▼日本のあらゆる職場(組織)や思考までが、旧態依然としていることが、コロナ戦争であらためて露呈したのではないかと指摘する。

▼戦後経済の急成長で、生活が便利になり過ぎ、平和も保たれ、非常事態に対する危機感がなくなったのが、その大きな理由なのだろう。

▼つまり生活様式が一様に安全に達したため、健康志向がいたずらに追求され、人間本来が持っている、自己防衛能力(自主性や免疫性)が、希薄になっているせいではないか。

▼かといって、軍隊を保有し自衛権を強化しようということではない。むしろそのような国に向かうことを防禦することが、コロナ戦争で肝心なことだと吉岡は指摘しているようだ。

▼少なくとも我が国は「安全・安心」では、世界にひけをとらない国家だと思っていた。だがウイルスの蔓延に対し、大手薬製薬会社の対応が無力だ。外国にワクチンを頼まなければならない状態には驚く。そんなレベルの製薬会社だったのかと。

▼役所(厚労省等)の許可が複雑なのは「安全・安心」を確保するための規制の厳しさだと思っていたし、そこに様々な“利権”がうごめいているというのも感じている。

▼政権の判断が稚拙すぎるというのが、今の国民感情だろう。だが、スガ政権はその国民の声を逆利用し、我が国の政治システムに問題ありとし、さも反省を前面に掲げ、国家大計画(憲法改正)を打ち出そうとしているのではないか。

▼保守系の人たちばかりではなく「軍隊」がない国だから、緊急事態になっても受け身一方で、攻めることができないのではないかと、少しは考え始めている国民も出てきたのかもしれない


▼そこに五輪委員長モリキロウの発言だ。彼は総理時代「我が国は天皇を中心とする神の国」だと言い「教育勅語にはいいところもある」と発言している。

▼神の国だとすれば、天照大神は女性だ。つまり、モリは、神が何であるのかも理解できない男なのだ。

▼大八洲(日本)をつくったのは、イザナキ(男)とイザナミ(女)だという。だとすれば女性蔑視をするような総理が生まれる国は、神をも恐れぬ国なのだから、八百万の神が「伝染病」をまき散らしいるのかもしれない。

▼さらにモリキロウを、辞職させれない組織や国民は、モリキロウ以下だと世界は認識するだろう。このレベルなら「対米従属」から抜け出れないだろうと、世界は見下すに違いない。

▼さらにコロナ禍にあって、ネット通販や宅配業が活況を呈した。これも元は米国系のビジネスだ。だが「出前」に至っては、その習慣はあっても、ビジネスにすることは考え付かなかったのだ。

▼日本はこれらのアイデアを借用し、活用しているに過ぎない。戦後の米国式教育の中で、日本人が、真の独創性まで失ったなのではないかと吉岡は指摘する。つまり追従することにおける、立ち遅れだ。

▼テレビでは、外国人が日本文化を深く理解し、伝承者になったりする番組がある。「デスカバー・ジャパン」という言葉は、今の時代こそ日本人が、肝に銘じなければならない言葉ではないかと思う。

▼そんな状況に【ガンバレ、日本】と、吉岡は叫ぶ。そして「ずいぶん私も、愛国者になってしまったものだ」と、自嘲する。

▼臨時五輪委員会が開催されるらしい。まずはモリキロウを“背負い投げ”で、畳に投げ飛ばしてほしい。その次に『ニカイとアソウとスガ』に大外刈りだ。

▼そうであればJOCも面目が立つし、日本も旧態依然とした国家ではないことを、世界に証明できるに違いない。

  大和魂とは大和撫子にやさしいこと
                三等下