函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

加減が分らない

2012年07月21日 13時15分21秒 | えいこう語る
子供のいじめ事件で、死者が出ている。なんともやりきれない。
被害者の家族の心情を察すると、いじめには「殺人罪」を適用してほしい心境である。
それにしても、学校側と教育委員会の対応は、教育に携わる者としては、失格の烙印を押したいものだ。
子供の命より、組織の維持を優先しているからだ。
今に始まってのことではないが、日本の教育界は脳の大手術が必要なのだろう。
いじめをする子供たちは、ますます加減が分らなくなってきているようだ。
教育に携わる者も、子供の命を護るという加減が分らないようだ。
※トカゲの尻尾切りだ。


翻って、我が国の政治に照らし合わせてみよう。
各省の無駄遣いを改めぬまま、国民から消費税を巻き上げる。立派なカツアゲだ。
沖縄県民が嫌がっている米軍基地問題。危険なオスプレイの配備を押し付ける。
原発事故で、国民が死の恐怖に晒されているのに、無理やり再稼動をする。
解決しなければならない問題が山済みにされているのに、自分だけは国民からカツアゲしたお金で、ロンドンオリンピックで豪遊しようとしている。
国民のための政治という加減が、まるでわかっていない“のだ”。
これは、おとなしくしている国民への、国家レベルの立派ないじめではないか。
このいじめはどこから来ているかと考えれば、私は政府自体が嘘をつくということから始まっていると思う。
「安心・安全なエネルギー」「政権交代のマニフェスト」。どちらも、真っ赤な嘘をついたのだ。
「嘘はいじめの始まりである」
政府がそうだから、教育界もみんなが嘘をつき始めたのだ。
嘘つきは「国民裁判」にかけるのが、我が国の国民主権の在り方だ。
その国民裁判が、次の「選挙」である。
間違っても、いじめをする張本人を当選させてはならない。
そうさせたらその有権者は、いじめ協力者か傍観者だ。 


ある犬の死

2012年07月20日 14時48分34秒 | えいこう語る
知人の女性が仕事を休むという。
理由は、長い間飼っていた犬が、高齢でボケたための介護だという。
人間の年齢に換算すると、80歳を過ぎているらしい。
夜と昼の区別もつかず弱りきっていて、犬だけ置いて家を空けられないという。
私の記憶だと、昔の犬はひっそり犬小屋で死んでいたり、どこかへ行って建物の片隅で死んだりしていたような気がする。
私の叔父の飼っていた犬は、毎朝決まった時間に私の家に遊びに来て、庭に座り、家人は格別愛想もしなくても、ある時間いると立ち去っていった。
死ぬ日もそうだった。別れの挨拶をしにきたのだろうと、家族で話した記憶がある。
叔父さんは、食べ物を受け付けなくなった犬に、牛乳を与えていた。
死は静かに犬小屋に訪れた。
それが動物にとっては当たり前の出来事だと、子供の頃納得できた。
※夜明け前の月


今知人は、かわいそうで一緒に寝ているという。情も深いものがあるようだ。
その分悲しみも深いに違いない。
ペットも家族の一員として、暮らしている人が多いようだ。
火葬をどこに頼むか、どこに埋葬するかと考えていた。
昔は、山に行って穴を掘って埋めた。
以前、山に山火事防止の看板を設置しに行った時、だれもが目に付くような場所を掘ったら骨が出てきた。
それをある人に話したら、自分の飼い犬が死んだので、山の目に付きやすい場所に埋めた、その骨だという。
犬は好きなほうだが、ペットフードを食べるような犬は好きになれない。
犬を家族と思うなら、御飯に魚その上に味噌汁。そんな食事を食べれる犬に育てたいものだ。
昨日聞いた話だが、昨年の東日本大震災の時、我が村で外を歩いた犬が、地震の恐怖なのか突然死をした話を聞いた。
人間より動物の本能が、地震の恐怖に敏感だったのだろう。


天然昆布漁スタート

2012年07月17日 12時55分08秒 | えいこう語る
2012年7月17日(火曜日)曇り。


午後4時半、昆布漁の放送が漁村一帯に鳴り響く。
それまで車の往来がなかったが、放送を境に一気に昆布漁の道具を積んだトラックが港に向かって走り出す。
ゴムのカッパにハチマキ姿。今では漁師の中に入っても、違和感なく様になってきた。
いざ出漁。今日の漁場は水無海浜露天風呂沖だ。
昆布漁名人のKさんの船を取り囲むような、戦闘体制だ。
若船頭と私のクルーは、その外周に陣取る。
箱メガネで海底を除くと、近年にないほどの高級品のガゴメ昆布が、海底を埋め尽くしている。
午後5時半。開始の放送が高らかに鳴り響き、昆布の竿が海中に差し込まれる。
途中ジュース一本を飲むだけの小休憩。
終了午前8時30分。
船に積まれた昆布の高さが、疲れを癒してくれる。
明日も連続で漁があるようだ。
早寝して鋭気を養うしか、他に方法はない。
岡林の歌がどこからか聞こえてくる。
♪今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ
この短いセンテンスに、万感の情がある。


今日から天然昆布漁

2012年07月15日 14時45分44秒 | えいこう語る
朝3時半起床。


今日から天然昆布漁だ。真っ暗闇の緞帳を力づくでこじ開け、朝が始まる。
波良し、風良し、いざ出漁。
昆布採取の道具をトラックに積み込み、道具の確認。
港には一番乗りだ。
ところがポツリポツリと雨が降り始め、漁は中止となった。
がっくりして家に戻り、横になると眠ってしまった。
早朝から銚子ビーチでは、全道アマ・サーフィン大会。遠くは稚内からの参加だ。


過疎で高齢化の村だが、今日一日は「北海道の湘南」になる。


車窓からの風景

2012年07月14日 12時20分54秒 | えいこう語る
先日、地元の中学校で、生徒たちに「ふるさと学習」なる講義を行った。
その時に、私の村から函館市まで、約45キロの中に在る、下海岸と呼ばれる地域の、それぞれの町の歴史について話したのだが、学生たちが町並みの風景を意外と覚えていないのに気づいた。
私が中学を卒業したのは昭和39年だ。その頃函館への交通手段は、路線バスで2時間半もかかった。
函館に行くのがうれしくて、車窓から外ばかり眺めていた。そんな環境なので、どこに何があるのか、完全に把握できていた。
素彫りのトンネルを通過する時に、石が落ちてきたり、波が道路まで上がり、引き際を見計らいバスがスピードを上げ通り抜けたなどの、スリル満点な場面もあった。
だから車窓からの風景は、記憶に鮮明である。
今の子供たちは、父母が運転する自家用車の後部座席で、本を読んだり携帯電話でメールを交わしているのだろうか。周囲の風景など興味がないのかもしれない。
※午前3時半。


私たち団塊世代が時代を振り返る時、昭和39年が大きな区切りになる。
高校入学、東京オリンピック、そして新幹線の開通だ。
田舎のバスはオンボロ車、蒸気機関車に乗れば、トンネルに入る前は窓を閉め、抜けると一斉に窓を開けた。到着地で顔を洗えば、顔には煤がついていたという時代だ。
夜汽車の窓に映る自分の顔、なんだかとてもロマンチックに思えたものだ。
高度成長経済下のそんな時代、日本国民全てが新幹線に乗り突っ走しり、車窓から見えた日本のいい風景を、見過ごしたのではないかと思う。
言い換えれば、日本人の心象風景を希薄にしたのではないかと考える。
昭和39年以降は、私は大切なものを置き去りにしたという、罪悪感さえ感じるのだ。
高速通信網の時代が、好むと好まざるに係わらず、押し寄せている。
車窓からの風景をゆっくり眺め自問自答する、そんな時代がとても必要に思うのだ。
福島の処理も出来ぬ中の原発再稼動。党内の分裂まで引き起こしても強行する増税。いじめによる自殺に関する、組織の人間性が感じられぬ対応。
そんな、雑然とした世相の水面下では、武器輸出緩和や集団的自衛権の解釈など、混乱に乗じた改憲への静かな動きも見逃せない。
日本は一体どこまで突っ走るのか。
「国民の生活が第一」なる政党が出来たが、私なら「たちどまれ日本」という、党名があれば、一票を投じたい。