函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

山も秋色です

2010年10月25日 08時55分46秒 | えいこう語る
人は忘れるのが得意です
忘れやすいから前進できるのです
あんなに心が痛かった、失恋も
忘れることが得意だから、人は幸せになれるのです
ふと、そんな言葉が浮かんだ、今朝のとどほっけ村の山の色です。


つい最近までの猛暑も、すっかり忘れた今日この頃。
朝夕の冷え込みで、山があっという間に頂上から赤く染まっています。
今日月曜は、サーフサイドの定休日。
妻と二人で函館市内に出かけます。
観光雑誌を調べてランチの店も探しました。
函館生まれで60年安保闘争時代の全学連委員長だった、故唐牛健太郎の写真展があります。
唐牛さんが今の函館市にどんなメッセージを届けているのかを、見届けてきます。
その後、函館市内の紅葉スポットを散策してくる予定です。
最近疲れ気味といっている妻が、朝から喜んでいるようです。
行きは私の運転ですが、帰りは妻が運転する『居酒屋軽四輪』なので、私もうれしいです。


秋のお寺参り

2010年10月24日 16時44分48秒 | えいこう語る
23日土曜。私のお寺(浄土宗)で、お寺参りがあり手伝ってきた。
法要に先駆け、福岡県のお寺の住職による説教があった。
宗派の開祖を四季に例えれば、春の法然・夏の日蓮・秋の親鸞・冬の道元というそうだ。言われるとぴったりのような気がする。
私の村は人口が1,200人になってしまったが、それぞれの開祖の末寺が4箇所もある。
その中で禅宗のお寺の住職が欠員になっていたが、このたび山形県のお寺から若い住職さんがやって来た。
高齢化と人口減、市町村合併や近隣の高校の廃止などが、いとも簡単に処理される中、お寺だけが存続していく過程も妙なものだ。
前者は「罰が当たらない」からなのか?後者は「罰が当たる」から存続するのか?
私のような凡人にはよく理解できない。
説教師の言葉でインプットしたのは、次言葉である。
『こだわらない・かたよらない・とらわれない』
肩の力を抜いて、自然体ということか。
※一人で夜釣りに出かけたら、寂しい月が出たので、すぐ帰って来た。


今朝5時に起き、鮭釣りに出かけた。
日曜日の朝は、NHKテレビで、俳句と短歌がある。
釣りに行くべきか行かざるべきか迷ったが、教養を捨て栄養の方を選んだ。
釣り場にはすでにたくさんの釣り人が。
お・お・お・俺の浜に!・・・地元の人間が釣り場所を奪われるなんて。
『こだわらない・かたよらない・とらわれない』を思い出し、冷静沈着に心がける。
30代と思われる隣で釣っている男性は、なんと竿6本を使い砂浜を占領している。私は常識的な竿の数は、3本以内と思っている。
そのうちその男性にヒットした。やけにでかいメスだ。
日曜なので子供をつれて早くついたが、やはり子供で、今は車の中で爆睡しているという。
子供がイクラを食べたがっているので、メスが釣れてよかったと、白い歯をのぞかせた。
いいお父さんだ。私までが心からよかったと思う。
私はイクラ丼を待ち焦がれている妻の期待に答えられなかったが、若いお父さんの喜びに免じて、許してもらおうと思う。
釣れなくても、釣りには様々な喜びがあるのだ。


道立高校の存廃問題

2010年10月22日 12時22分46秒 | えいこう語る
先日、旧戸井町(合併し現函館市)において、道立戸井高校廃止問題の、住民説明会に参加してきた。
住民側からみると「廃止計画」だが、道教育庁側から言わせると「公立学校配置計画」となるそうだ。
地域の少子化と過疎化により、今年の入学が23名になったので廃止し、函館の高校へというものだ。
廃止の特例措置として、5年間は通学費や下宿代などの補助制度を設けている。
市町村合併による補助金、合併特例債(10年間)のようなものだ。
単純に考えると、北海道が財政難に陥ったので、無駄を省くということだろう。
教育庁側が主張する「教育環境の充実」という、言葉がやけに空々しく聞こえる。
住民側からは「教育の機会均等」で、地域教育の必要性を訴えるが、さほど必死さは伝わってこない。
治水事業によるダム建設で,水没するマチなら大声も出るだろうが、すでに函館市に吸収合併された町の、半ばあきらめというような感じも根底にあるような気がする。
問題は国からの補助金目当ての、全国一律のインフラ整備だけの行政をし、個性的で魅力あるマチづくりが疎かになったためである。
とはいえ、国の補助金のシステムが、多種多様な地方を生かす仕組みにはなっていず、地方の自治の精神を脆弱にさせたからでもある。
紐付きの補助金ではなく、地域の自由な発想でのマチづくりを奨励した「ふるさと創生1億円資金」。あれから20年経った。
※鮭釣りの朝のとどほっけ海岸。


函館市と合併した旧4町村の使い道を思い出してみた。
温泉の掘削・公園整備・土地購入・住民の国内外の視察研修などである。
成果はどうだったか、一度検証してみる価値はある。
当時、旧自治省のふるさと創生資金の担当者と話す機会があり「地域には1億円を有効に使う力が備わっていない」と、強調したのを思い出している。
国も地域も財源が厳しくなれば、効率的行政をせざるを得ないのだ。
小さいものや劣るものを疎かにするのは、教育の本来のあり方ではないはずだ。
道教育庁VS地域住民。傍聴していて、教育庁側の説明が心に響かなかったのは、教育が教育行政に徹し、効率主義に終始しているからである。
それにも増して心寂しく感じたのは、参加していた数人の市会議員である。
市町村合併には手放しで賛成したのに、この問題では反対だという。
市町村合併も学校の配置計画も、私には根底は同じように感じられるのだが。
ちょっぴり寂しい思いをした、秋の夜である。


「災」を考える

2010年10月21日 11時42分08秒 | えいこう語る
昨日、椴法華地区全域の、防災工事現場の視察があり、町内会長として参加してきた。
長く生きていると、それなりに多くの災害を目撃しているので、危険箇所は自らも理解している。
住民の生命・財産を守るため、防災工事は必要不可欠である。
私の町内にある川は、私が生まれる少し前の氾濫で、死者が出ている。
私の記憶でも急峻な山から大雨がこの川に集中し、危険を感じたことが多々ある。
多々あるなんて、私までが防災工事を説明する、行政担当者のような発言になってしまった。担当者の理路整然とした説明に、つい引き込まれてしまうのである。


漁業の村なので、海岸線の崖にへばりつくように住居が立ち並んでいるので、危険箇所がたくさんあり、そこにも治山工事を施さなければならない。
村には、活火山恵山が煙をたなびかせ、優美な姿を見せている。
その山からの大きな谷間が雨による侵食で、ここ数十年の間に危険度が増して来た。
参加者の中には子供の頃、この沢から登山して楽しんでいたという方もいたが、
とても登れるものではないと、その変貌振りに驚いていた。
ここは国費・道費などの予算がつぎ込まれ、治山工事がされていたが、防災ダムに埋まった土砂の除去、さらにダムの嵩上げ工事が進む。
最後に役場庁舎前で、参加者からの要望事項の聞き取りがあった。
住民の生命・財産を守るため、防災工事充実をお願いし解散した。
私は「過疎の人口流出を止める、砂防ダムも作ってほしい」と発言した。
私の隣にいた駐在所の若いお巡りさんが、それに過敏に反応し、身体を震わせ笑っていたのが印象的だった。
経済危機に陥っている日本。「事業仕分け」が、予算編成の要だが、地域に必要な予算を配分してもらうのに、担当者は様々な知恵を絞っているのだろう。
「一番でなく二番ではだめなの」と叫ぶ、大臣がいて、国民は生命の危険に晒されないかとも心配になる。
と同時に「欲しがりません勝までは」という精神も、財政難克服の要であるように思える。
人命救済の防災工事というのも「エンドレス・日本列島改造計画」のような気もする。
昨今、尖閣列島などの領土問題が浮上し、メディアでは弱腰の日本外交が声高々に喧伝され、防衛力強化にも繋がりかねない。「思いやり予算」など、仕分けの対象で廃止にならないものかとも思う。
防災・防衛、共通しているのは、危険を想定し、事前に排除することだ。
それには膨大な予算の確保が必要である。
「プライオリティー=優先順位」「バリュー・フォー・マネー=費用対効果」
以前盛んに言われたこれら役所用語を、久しぶり思い起こした、昨日の防災工事現場の視察である。


妻が私を尊敬するとき

2010年10月19日 13時29分04秒 | えいこう語る
夫婦も40年近く暮らしていると、妻からは尊敬されることはほとんどない。
むしろ、その反対の目線を多く感じる、今日この頃である。
昨日、3年に一度という、まるで五輪並みの村の文化祭が開かれるので、作品を事務局に運んだ。
北海道新聞に入選した自作の詩を、書にしたものだ。
そこで、最近鮭が釣り始めたという情報を仕入れた。
夜、竿の点検をし、仕掛けをこしらえた。
「メスの鮭を頼みますね」と、イクラ丼の大好きな妻が言う。
「よし、メスだな。期待しておけ」と、菅内閣同様の「有言実行・マニフェスト」を広言する。
今朝、暗いうちに河口付近の海岸に出た。今年初めて鮭釣りだ。
※今朝の日の出前


水平線上の雲が日の出で輝き始めたとき、グ・グ・グと、鮭独特のあたりが。
グイット、竿を引き上げる。ゲ・ゲ・ゲ・ゲット!
隣で釣りをしているおじさんが駆け寄ってきた。
「でっけえもんだぜ。銀・銀だ。メ・メスだぞ。イクラたっぷりだべさ」
鮭釣りは釣った本人もうれしいが、周囲の人も、次は自分だとの期待感で、気分が高まるのだ。
日が昇ると周囲には10数名の釣り人がいたが、釣ったのは私のも含め数匹で、成果は芳しくなかったようだ。
玄関を開けると妻が出てきた。
「釣った?」・・・「いやだめだった」
「初めて行ったのに、そう簡単に釣られる魚なんていないわね」・・・。
尊敬の反対の眼差しである。
車から鮭を取り出し、妻を呼んだ。
※体長74センチ・体重3,45キロ。甲種合格。誰も歩いていない砂浜はじゅうたんの様だ。


「どうしたの、朝食の準備でいそがしいんだから」
「え・えっ!、鮭釣ったの!・・・メ・メスなの」。
眼差しは軽蔑の反対の眼差しに変換される。
台所から、軽快な鼻歌が流れてきた。
我が家の今夜の食卓には、白い御飯を覆いつくすイクラ丼が、威風堂々と居座るに違いない。
「お父さん、アリガトウゴザイマス」
今年たぶん二度目の、妻からのお言葉があるはずだ。
一度目は、1月の極寒の海で漁をした時の、ウニ丼だった。