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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

田舎の夜の電話

2008年05月21日 12時10分36秒 | えいこう語る
田舎に住んでいると、夜9時以降に電話がかかってくる事はほとんどない。
たまにかかってくると、よほど緊急な事態が発生したか、友人がどこかで酒を飲み、私のことが話題になり遠方からかけてくるかである。しかし、どちらかと言うと田舎の夜の電話は、少し変ったものが多いようだ。
昨夜9時に電話が鳴った。
東京のN(男性)だと言う。中学校の同級生だ。彼から電話など貰うのは始めてである。
親戚の結婚式が函館であるので、その時同級生のK(女性)がやっているスナックで一緒に飲もうとの誘いである。そんなに親しくしてなかったので、妙な感じがしたが、遠くから来るので昔話でもしたくなったのかと思い、了承した。
7年程前、Nの母親が亡くなった時、Nの兄さんから頼まれ葬儀を手伝ったことがある。その時Nが来ていたが、家でのお通夜の席でも、私が話し掛けてもどこか遠い目をしていた。兄さんに聞くと,仕事上のことで精神的に少し落ち込んでいるらしい、とのことであった。そのことも思い出しながら、Nからの初めての電話を断る事が出来なかった。
その1時間後、また電話が鳴った。
Nが、先ほどの件はないことにしたいという電話かなと思ったら、今年亡くなった、友人のKさんの奥さんからである。
今日が主人の百ヶ日で、無事納骨を済ませたことと、弔辞をあげてもらった事へのお礼の電話である。一周忌にはよろしくお願いしますとの、丁重な言葉もいただいた。
私は今まで、納骨を済ませたと言う知らせを、生まれて始めて聞いた。妻にもそのことを伝えると、Kさんと一回り若い奥さんなのに、しっかりしているのねと感心していた。
30年近く前に、Kさんと私は、函館で飲んでいて、そのまま青函連絡船に乗り、青森県の弘前城の花見に行ったことがある。気ままな男二人の津軽行きだった。5月初旬函館は桜が満開だったが、弘前はすでに散り花見客も疎らだった。
誰かに頼みシャッターを押してもらった。岩木山をバックに、二人の笑顔が写っている。しかしその写真をKさんに渡さないままにしていた。
逢いに行くたびに持っていくのを忘れたが、Kさんもなぜか写真の事には1度も触れなかった。
1周忌には渡そうと思うが、渡さないで思い出にとって置くのも、いいかなとも思ったりもしている。
田舎の夜の電話は、ちょっぴりミステェリアスのものが多い。


芸人の品格

2008年05月19日 13時55分14秒 | えいこう語る
芸人とは笑がたくさんとれて、人並み以上のものを何か持っているというのが、その要素であろう。さらに物知りで、粋も甘いも同居し、周囲にある程度の緊張感と秩序を保たせ、誰もが一目置くというものが備わると、芸人にも品格が生じてくる様な気がする。
名人と呼ばれる噺家は、下ネタを話しても笑いに上品さが漂う。
節度をわきまえることが、品格を保つ最大の要素なのかもしれない。
今お笑いブームが続いている。売れ出すと巨額な報酬を得、そしていつの間にかブラウン管から消え去る。消費社会の中で、物質ばかりではなく、人間も軽軽しく消費されていく状態を、私たちは日常の生活の中で繰り返している。極めるとそれは、物や人命の軽視につながらないだろうかと、考えてしまう。
物事を分析し始めるとあらゆる話題に派生し、掴み所がなくなり問題の視点が薄れてしまいそうになる。私たちの日々の不安は、思考することに節度を持てないという状況にある、というのも原因ではないだろうか。
話に節度がなくなりそうなので、本題に戻るが、今日のブログは「芸人の品格」であるが「人のふりみて、我がふり直せ」という副題も付け加えたい。
漫才ブームからのし上がり、今では週何本もレギュラーを持つ芸人がいる。
確かに他の芸人より笑がとれる。Hは相方の頭を叩く芸風だ。昔からあるスタイルなので、タイミングがよければ笑いになるが、このHは、ゲストや自分より先輩の芸人まで叩く。テレビに映っているので出演者も、営業と割り切っていると思うが、見ていて品位の欠片も感じられない。
もう一人は、女性に対し仕事上のトラブルで、暴行事件をおこしたSである。
彼は徹底的に人の弱点を捉え、それをネタにし笑を誘う。その巧みな話術は他を圧倒する。
先日Sが司会する、海外に学校を建てようという主旨のチャリティー番組があった。様々な分野の著名人が、自作の作品を提供した時、顔見知りの芸人に言うのならわかるが、初めてあったその人に芸人の感覚で発した言葉が、Sの人を蔑視する卑しい本性が浮き彫りになった。側で見ていた妻も同様の感じを持った。
たぶん多くの視聴者から抗議が舞い込んでいるに違いない。それともいつもの事だからと抗議もないのであろうか。マスコミ関係者も多少の抗議はSには常識の範囲で、視聴率さえ確保できればとの考えなのだろうか。
地方に住んでいると、マスコミの情報こそが、今の社会を知る唯一の手段だ。HやSがマスコミの寵児として、今の社会に少なからずの影響を与えている。
君臨する彼らは選ばれた者たちである。国民の支持がある限り、彼らとはテレビで顔を合わせ続けることになる。しかし、彼らも優れた番組にも登場する。
では、どう付き合えばよいか。
彼らの品格の無さを、自分を振り返る鏡にすることしかない。
私も一言多過ぎると、普段から言われているので。


政治は誰のために

2008年05月18日 08時42分28秒 | えいこう語る
17日土曜日。平成13年に全国に先駆けて「合併しない宣言」をした、福島県矢祭町の前町長、根本良一さんの講演を函館市で聞いた。
「合併しないということは、矢祭町に人が住んでいくということです。合併によって、人が住みにくくなるからです」と言う。昭和の大合併で寂れていった、周辺町村の事例をみているからであろう。
矢祭町は人口6,700人の小さな町だ。議会は18人の定数を10人に削減した。身を切っても自立して頑張っていく強い意志を、議会自らが町民に示したのだ。
議員報酬を根本から改め、一回の出席につき30,000円の日当制にした。
我々が受ける報酬は、町民が汗を流して稼いだ税金である事を忘れてはならない、と言う決意の現れだと言う。
今、国会議員や地方議員に、有権者の激しい目が向けられている。我々の大胆な決断によって、全ての地方議員に対し、自身の立ち位置とあるべき姿を改めて問い直し、警鐘乱打すると言う決意であるという。その主旨の誇りの高さに感動する。矢祭町は真の地方自治と、議会制民主主義の在り方を問いただすため、一地方から全国に向け、のろしを上げたのである。
ここまで来るには相当の困難があったのが、言葉の端々から感じられる。しかし「住んでいる人のため」と言う信念は、あまりにも太く強固だ。議会も町民も根本さんの熱意を受け止めたのであろう。
今函館市で問題になっている費用弁償(交通費や弁当代)についても、日当の中に含まれているからいらないと言う。函館市は月額51万の給料のほかに、一回の議会出席に費用弁償が5,000円支払われていた。市民オンブズマンなどの提訴により、今年4月から交通費だけの実費支給になった。市民から言われて動くのではなく、矢祭議会のような自浄努力が必要であろう。
平成18年に制定された、矢祭町の憲法と呼ばれる「自治基本条例」の第7条には、町議の責務として「町議会議員は町民の信託を受けた町民の代表である。議員は町民の声を代表して、矢祭町、町民の幸せのために議会活動に勤める。」とうたわれている。
この条文は、当たり前の文言である。しかし多くの議員は条例を作っただけで、それを生かす事はしない。矢祭町の議員たちは、この条文を理解し咀嚼し、より実効性のあるものにしているのである。10人の町議は、故郷を守るのは自分たちの使命だとの矜持が、出来上がっているからであろう。
会場には財政難を最大の理由とし、合併ありきで自分の故郷を守りもしなかった議員、合併特例債の活用にほくそ笑み、自治の精神の欠片もない議員もいた。
その議員たちには、根本さんの念仏を、馬の耳で聞いていたのであろうか。
矢祭町議会決意宣言は「町民とともに立たん」である。


蕗の料理

2008年05月17日 10時29分07秒 | インポート
クサカンムリに路、蕗と言う漢字が好きだ。
庭に蕗が数本ある。雨降りはなんとなく趣がある。庭の主役にはなれないが、脇役としてはなかなかだ。
先日山に入り、川原で蕗を取ってきた。川水が勢いよく流れる側には、大きな葉の蕗が密集していた。包丁で切ると、切り口がみずみずしくやわらかい。
渓流釣りの時、釣ったヤマメを蕗の葉で包み家に持ち帰る。葉を開くと緑の葉にヤマメが美く映える。大きな蕗の葉に包まれているとやさしさを感じ、釣り上げた場所やその時の手応えが蘇ってくる。
渓流釣りの解禁は6月1日である。今年も何度かヤマメやイワナ君に、遊びの相手をしてもらうつもりだ。
家の戻り妻が蕗を茹で、水に晒しアク抜きをした。
夜の食卓に、蕗にシイタケや天かまぼこを混ぜ醤油味で炒め、七味唐辛子をふりかけた1品。
茹でたのを、塩水に漬けた蕗の漬物。子供の頃、台所の隅に大きな樽の塩水の中に、縦に並んで浸かっていた。蕗の立て漬と呼んでいた。その1品。
それに3センチほどに切った蕗を、薄めた梅漬けの液に漬けた1品。
どれもがお酒にあうが、特に梅液に漬けたのはビールのつまみには最高だ。
食した事の無い人は、ぜひ試して欲しい。
薄っすら梅色に染った蕗の漬物は、見た目にも涼しく、とにかくいける。


好い加減

2008年05月16日 14時08分31秒 | えいこう語る
好い加減=よい程あい。適当。ほどほど。条理を尽くさない。徹底しないこと。
(広辞苑)
「好い加減」とは、私たちの日常では、お風呂の温度を聞かれた時に使う。この時は「ちょうどよい」という意味である。
「好い加減な奴」となると、よくない意味になる。
この言葉の使い方は「加」と「減」つまりプラスとマイナスの微妙な配分で意味が違ってくる。
「好い加減」とは、自分自身の判断が基準になるので、自己中心的な意味合いが強いものだ。温泉の湯加減も、熱いのが好きな人と、温いのが好きな人の「好い加減」はそれぞれ違うように。
しかし人間関係は大勢の中で成り立つので、多少の自己規制をしながら、周囲と調和する能力を養わなければならない。そのようにして、地域や職場の中での暗黙の了解が出来ていく。これはいい意味での、チームワークにつながるものと解釈している。
『調査捕鯨船の乗組員が、鯨の肉を無断で持ち帰ったとし、環境NGO団体が業務上横領の疑いで、告発』と、新聞に報道された。
調査捕鯨には税金が使われているので、不正防止と、捕鯨禁止を目的とした訴えのようだ。
NGO側の主張は正しい。でもね、と言いたい。
昭和27年から再開された北洋漁業。函館は船団の基地であった。
私たちの周囲からもたくさんの男たちが、家族のため命をかけ荒海の北洋へと向かった。無事帰ってきた時、たくさんのお土産を周囲にも配った。板子一枚下は地獄といわれる共同生活の中で、暗黙の了解のお土産だったに違いない。
無事帰港の喜びと共に、それらのお土産でみんなが幸せを感じた時代があった。
捕鯨に携わる地域の人々も、同様な思いであろう。
しかし、このNGO団体には、そのような思いは無関係のようだ。
より公正な社会を築かなければならない。だが一方的に主張し過ぎると、人間関係がギクシャクしてこないだろうか。
正か悪か、白か黒かと言う世の中では、行き着くところ戦争しかないように思う。適当にバランスをとるのが必要である。
最近、社会の不正義がどんどん明るみになっているが、世の中はだんだん暗くなっている気がする。何故だろう?
もっと「好い加減」な、世の中になって欲しいものである。