私の住む小さな漁村は、朝目覚めるとほとんど無音の世界だ。
午前7時前。音といえばストーブの灯油が燃焼する音、掛け時計の秒針の音、妻が台所で朝食の用意をする音だけである。
新聞をめくる音が一番大きいようだ。テレビをつけると、音量をかなり下げても聞こえて来る。寝るまではいかにたくさんの音の中で、聴覚が惑わされているのかを知らされる毎朝である。
私の村は、昭和30年代には今の人口の3倍(約4,000人)が住んでいた。
車の走る音もほとんどなく、波・風・雨、それに犬や猫、鶏の鳴き声が自然の声であった。その中に、働く大人の声と、子供の遊ぶ元気な声が、村中の音のすべてだった。つまり雑音の少ない世界に住んでいたのだ。
子供の頃聞いた歌謡曲も、今でも歌詞を覚えているのは、そんな世界にいたからだろうか。
やがてテレビの時代に移ると、映像の世界に引きずり込まれてしまった。
写真機が発明された時、自分の姿が写しだされたことで、魂が奪われたと思った人がいたそうだが、私もテレビの世界に、今まで魂の半分ぐらいは、引っ張り込まれていたようだ。
家人が出かけたので、テレビとストーブを消してみた。音は時計の音だけだ。庭を眺めると、最近まで寒さでかじかんでいた石楠花の葉が、両手をひろげ春の訪れを喜んで、歌っているようだ。桜やつつじも日増しにつぼみを膨らませ「今年は花の咲きがいいですよ」と囁きかけてくる。
ここには音の無い世界の、自然との会話がある。
別に、テレビの悪口を言っているのではない。音や映像が氾濫している、生活の中に私はいたのだと、思い知らされているだけである。
私は文章を書くとき、音楽もテレビも人の話し声も消さないと、集中力に欠けほとんど書けない。若い時からである。生まれた環境のせいだろうか。
少子高齢化の過疎の地域は、昔と同様の雑音の少ない世界へ、突き進んでいるようだ。
私にとっては好ましい環境なのだが、それも過ぎると寂しい世界になる。
明日「新・あつい壁」という、ハンセン病患者の社会復帰を扱った映画を、見に行く事にしている。
音声と映像が巨大スクリーンで、視聴者に迫って来るであろうが、音声と映像が語りかけるもの以外の、言葉で語り尽くせない言葉を、たくさん聞きたいと思っている。
もの言わぬ木々と会話するように。
午前7時前。音といえばストーブの灯油が燃焼する音、掛け時計の秒針の音、妻が台所で朝食の用意をする音だけである。
新聞をめくる音が一番大きいようだ。テレビをつけると、音量をかなり下げても聞こえて来る。寝るまではいかにたくさんの音の中で、聴覚が惑わされているのかを知らされる毎朝である。
私の村は、昭和30年代には今の人口の3倍(約4,000人)が住んでいた。
車の走る音もほとんどなく、波・風・雨、それに犬や猫、鶏の鳴き声が自然の声であった。その中に、働く大人の声と、子供の遊ぶ元気な声が、村中の音のすべてだった。つまり雑音の少ない世界に住んでいたのだ。
子供の頃聞いた歌謡曲も、今でも歌詞を覚えているのは、そんな世界にいたからだろうか。
やがてテレビの時代に移ると、映像の世界に引きずり込まれてしまった。
写真機が発明された時、自分の姿が写しだされたことで、魂が奪われたと思った人がいたそうだが、私もテレビの世界に、今まで魂の半分ぐらいは、引っ張り込まれていたようだ。
家人が出かけたので、テレビとストーブを消してみた。音は時計の音だけだ。庭を眺めると、最近まで寒さでかじかんでいた石楠花の葉が、両手をひろげ春の訪れを喜んで、歌っているようだ。桜やつつじも日増しにつぼみを膨らませ「今年は花の咲きがいいですよ」と囁きかけてくる。
ここには音の無い世界の、自然との会話がある。
別に、テレビの悪口を言っているのではない。音や映像が氾濫している、生活の中に私はいたのだと、思い知らされているだけである。
私は文章を書くとき、音楽もテレビも人の話し声も消さないと、集中力に欠けほとんど書けない。若い時からである。生まれた環境のせいだろうか。
少子高齢化の過疎の地域は、昔と同様の雑音の少ない世界へ、突き進んでいるようだ。
私にとっては好ましい環境なのだが、それも過ぎると寂しい世界になる。
明日「新・あつい壁」という、ハンセン病患者の社会復帰を扱った映画を、見に行く事にしている。
音声と映像が巨大スクリーンで、視聴者に迫って来るであろうが、音声と映像が語りかけるもの以外の、言葉で語り尽くせない言葉を、たくさん聞きたいと思っている。
もの言わぬ木々と会話するように。