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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

HAKODATEバル街

2008年04月19日 15時20分23秒 | えいこう語る
函館市の伝統的建造物が立ち並ぶ西部地区で、バル街というイベントが昨日おこなわれた。
バルとはスペインの立ち飲み居酒屋のことで、簡単に言えば歴史的町並みを散歩しながら、梯子酒をしようとの楽しい企画である。
そこにギャラリーを営む店主が、バル初参加をするので手伝って欲しいとのことで、妻と出かけた。
ギャラリーの外で炭を熾し、「甘えび・シシャモ・つぶ貝」などを焼く。
その香ばしい匂いが坂道を駆け下り、函館湾岸に立ち込めたのか、夕焼け顔をした男女が、坂道をぞろぞろと登ってくる。
ギャラリーの目の前には、国の重要文化財東本願寺函館別院の、黒光りする重厚感溢れる甍が広がる。左側にはカトリック元町教会とハリストス正教会の伽藍が立ち並ぶ。
心穏やかなる環境での「ギャラリー居酒屋」の開店だ。
歴史ある街並みが保存されていると言うのは、人々の記憶も鮮明になるようだ。初めて逢った人たちも会話が弾んでいる。
そこにイベントを盛り上げようと、自主参加のボランティアの方が、ギター演奏を始める。瞬く間に歌声居酒屋に様変わりする。
さらに着物姿の美女が暗闇から現れ、玄関前の小さなスペースで、踊り始める。
この方も自主参加だという。他にもフラメンコを踊っている所もあるようだ。踊りの美女に「次回は、前にそびえるお寺の屋根の上で、踊ったら素晴らしい眺めだろうね」というと「それもいいわね」と、笑顔が返ってきた。
この街を愛し、この街を楽しくしようという市民が、それぞれの個性や特技を発揮することで、このイベントがこの街にしっかり根付いていくのであろう。
隣のアンティークショップの女性店主も、次回は参加すると張り切っていた。
初回からこのイベントの企画に参加しているギャラリー店主は、地元の食材を使う事を提唱していたという。まずは自分がというので、外での炭火焼にこだわって見せたが、見事参加者の心をとらえたようだ。
実行委員の方が各店をリサーチしていたが「ここが一番だね」と、太鼓判を押してくれた。
この地区を訪れると、懐かしい思いや、優しい心がよみがえる様な気がする。
街が持つ魅力とは、訪れる人たちにそのような心を喚起させることもいうのであろう。
HAKODATEバル街。市民による市民の街づくりが、どんどん広がっていく。


九条に乾杯!

2008年04月18日 10時16分49秒 | えいこう語る
朝6時起床。外は雲って風もある。
少し肌寒いが「シャラクセイ、こちとら北海育ちだい」と、心でつぶやいた。
今日午後から、函館市の中で、歴史的町並みが残っている地域で行われる「バル街」というイベントに参加する。
「バル」とは、スペインの立ち飲み居酒屋のことで、6枚綴り1セット3,000円のチケットを購入し、梯子酒をする趣向だ。
古い建物を改造した小粋なバーや居酒屋、千鳥足で歩けば、馴染みの顔が古い街並みの向こうから歩いてくる。店の混雑状況やピンチョ?(おつまみ)情報も交換する。函館の歴史と文化を飲みながら学べる、市民主催の楽しいイベントである。
店は混雑しているが、たくさん入れるように、互いに身体を寄せたり、次の人に席を譲り合ったり「チャンチキおけさ?」の世界がある。
この一角でギャラリーを営んでいる友人から、店内を解放しバルに参加するので、手伝って欲しいとの声がかかった。
飲み物は近隣産の「乙部ワイン」だと言う。乙部ワインの飯田社長は、ギャラリー店主と同様、私の尊敬する先輩の一人である。元新聞記者であり、行政の不正は許さないと、長い間糾弾活動もしていた。人物も上等であるが、ワインの品質もフランス人が絶賛するものである。
私は知り合いの漁師に頼み「甘海老」と「つぶ貝」を串に刺し、炭火焼を準備した。店主の奥様は、北海道産「広尾町のシシャモ」を手に入れたという。
たぶん今回のバル街では、最高の食材とワインである!
参加者ばかり楽しませてはいけない。自分たち用に、もぎたての「シイタケ」を用意した。炭火で焼き、醤油をたらすと絶品である。
朝刊を見ると「イラクの自衛隊派遣は、九条に違反とする」という名古屋高裁の判決で埋め尽くされていた。裁判所の判決は国民にわかりやすい内容だ。この判決を前に退官した青山裁判長が、法の番人としての使命を果たしたと言うようなことも書いてある。
この裁判の原告団に、元レバノン大使の天木直人氏がいる。氏のコメントは朝日新聞には一言も掲載されていない。氏のブログに毎日うかがっているが、その視点は正確無比である。一度お逢いした事があるが、その実直さには圧倒させられる。新聞はぜひ小泉元首相のイラク派兵を徹底批判する、天木氏の意見を載せて欲しいものである。
ギャラリーの側には、教会や寺院が立ち並んでいる。布教活動で訪れた人々は、様々な苦労があったことであろう。平和は不断の努力で守られる。
教会の鐘の音を聴き、今日は参加者全員で「九条に乾杯しよう」。


北海道の春の山菜

2008年04月17日 08時43分58秒 | えいこう語る
16日に、冬タイヤをはずし夏タイヤに代えた。
今年は雪が少なかったので、3月の末頃からタイヤ交換が始まったようだ。
長い経験から言えば、4月初旬にドカ雪が降る恐れがあるので、交換は中旬が妥当な所であろう。
タイヤ交換を終えると、長靴を脱いでスニーカに履き替えたような、軽快な気分になる。さらに車の走る音も静かになり、春本番を身体に感じる一時である。先日高速道路でトラックのタイヤが外れ、対抗車線を走る観光バスに直撃し、バスの運転手さんが死亡するという悲惨な事故が発生した。今年も事故に遭遇しないよう願いながら、タイヤのナットを締め付けた。
午後から庭の雑草とりをした。春先は根がやわらかいので、比較的簡単だ。
それが終わってから、ぽかぽか陽気なので妻を連れ、今年最初の山菜取りに出かけた。
山菜を取る場所は、それぞれ秘密の場所があるようだ。我が家も毎年決まった場所だ。今なら「かたくり」と「キトビロ=アイヌネギ」だ。
「かたくり」の花は薄紫で可憐だ。私の地域はもっぱら食用だが、本州は観賞用にしているところが多いようだ。以前近所の人が長野県に家族旅行した時、
「かたくり」が群生していたので、子供たちが夕食に食べようと取ったら、注意されたということを聞いた事がある。
酒の珍味で「このわた」という、海鼠の腸の高級塩辛がある。私の地域では、海鼠の腸など食べるものではないと思っているので、捨ててしまう。私は大好きなのだが、その事は地域の人には話さない。ゲテモノ食いだと言われそうだからだ。
山菜は今年もまた、私たち夫婦を歓迎してくれた。「ワオッ」と叫びたいほど、たくさんあった。谷川のせせらぎを聞きながら、額にうっすらと汗をかき1時間ほど過ごした。
帰る途中、シイタケを栽培している所により、もぎたてをわけって貰った。軽四輪の中は、春のかおりでむれかえり、窓を全開にして帰宅した。
「かたくり」は茹でて、おしたしにし「アイヌネギ」は、生を細かく刻んで餃子を作った。ぷりぷりのみずみずしい「しいたけ」は、バター炒めにした。
夕飯は絢爛豪華な!?「春のほっかいどう御膳」となり、今夜も日本酒が美味かった。
「あなたって、なぜ山菜取りに一度しか行かないの」と言われるのも、我が家の恒例の会話である。


縄文遺跡と温泉

2008年04月16日 09時24分35秒 | えいこう語る
函館市から太平洋側を北上し、札幌方面に続く道路は、国道278号線だ。
函館市から車で1時間が私の地域で、さらに北へ向かうと、私の地区の隣が日本一の真昆布の産地、南茅部(みなみかやべ)である。
正真正銘の日本一とはこの真昆布のことを言う。驚くほどうま味がある。
昭和40年代には、我が国で最初の昆布養殖を成功させている。
南茅部地区は縄文遺跡群があり、90ケ所の遺跡が海岸段丘上に連なっている。そこから出土した「中空土偶」は、昨年国宝に指定された。また世界最古の漆製品なども出土している。
数日寒さが続いたが、昨日春らしい暖かさになったので、午後から妻を誘い、南茅部にある大船温泉に車で出かけた。右に穏やかな太平洋を眺めながら、車で30分ほど走り、大船川沿いを山間に数分進むと湯煙が見える。
この川の対岸に大船遺跡(縄文中期約5,000~4,000年前)があるので、温泉に入る前に立ち寄った。
ここの竪穴式住居は、深さ2m、直径10mを超えるものがあり、上下二層構造の規模であるという。かなり大規模な集落が存在していたらしい。
丘の上にあり、眼下には穏やかな噴火湾が一望される。後ろは栗やどんぐりの木が生育する山があり、山菜も豊富だ。近くに鮭が溯上する大船川そして温泉。立地条件は申し分ないと、誰もが納得する場所である。
遺跡内には資料館があり、縄文人のエネルギーを充分感じとる事が出来る。
この場所に立つと、自然を敬って生活をしていた縄文人が、私たち現代人に送るるメッセージが聞こえてくるようだ。
温泉は内風呂にラベンダー湯とサウナが最近増設された。露天風呂は乳白色のイオウ温泉で、身体が芯から暖まる。湯船のすぐ側に八重桜の大木があり、見頃は5月7日あたりだという。
乳白色の温泉とピンクの桜、コントラストは見事であろう。夜桜で一杯といきたいものだ。
湯の温度を測りに来た女性が、なかなかの美人だったのも、入浴していた人が数人しかいなかったのも、最高の気分にさせてくれた。入浴料も大人400円である。
妻は肩こりもほぐれたと喜んでいた。その日は夜遅くまで、身体も心もあたたかかった。晩酌の日本酒も、身体の中でほど良い燗なっていたようだ。
平成20年4月15日。縄文人の心に触れた、楽しい1日だった。
私の村の縄文大好き爺さんが考えた「縄文語」を思い出した。
「ジョウモンアリガトウゴザイマス」


映画「新・あつい壁」ハンセン病への差別

2008年04月15日 09時38分13秒 | えいこう語る
らい病と呼ばれたハンセン病。
国の隔離政策の中で、差別と偏見に人生を奪われ、実際に起こった冤罪事件をもとに作られたこの映画は、私たちに様々な角度から「正義」や「真実」の真の意味を問いかけてきた。
1873年(明治6年)ノルウエーのハンセン博士がらい菌を発見し、慢性の感染症である事が証明される。
1941年(昭和16年)米国のファジェー博士が、抗結核剤「プロミン」がハンセン病に効果があることを発見、治る病気といわれた。その後世界中で隔離政策を止める流れになったが、我が国は世界の流れに反し1953年(昭和28年)隔離を基本とした「らい予防法」が制定された。
抗結核剤が発見された昭和16年は、我が国は太平洋戦争が始まった年である。皇軍徴兵のためには、感染するらい患者は、隔離しなければならなかったのではなかろうか。
事件は戦後間もない、昭和26年熊本県で発生する。
ある日、役所から「あなたはらい病なので、療養所に入りなさい」との、身に覚えのない通知が、当時29歳のFさんに届く。(後に熊本大・九州大で、無菌と証明)
その頃、近くのHさん宅でダイナマイト投げ込み事件が発生し、Fさんが逮捕され、療養所内に収監される。
Fさんは1年後に隔離病棟より脱走するが、その間にHさんが何者かに惨殺され、Fさんが犯人として逮捕される。(HさんはFさんに、らい病と通知を出した役所の担当者)
当時の熊本地裁出張法廷では、裁判長以下全員が感染防止の白衣を着て、裁判が行われる。事実無根と叫ぶFさんに、死刑が宣告される。直ちに反対運動が起こるが、昭和37年死刑が執行された。
らい病が、国家による隔離政策の中、「一千床」や「無らい県」など、県による強制収容政策があった。人々の偏見や差別感情を背景にした、国家の強権力による違法捜査に、抵抗すら出来なく、大勢の人が無実の人を死刑に追いやってしまうのである。
この映画を見て思い出したのは、我が国が戦争を始めた時、その遂行のため国民が一丸となって戦争を支持し、それに従わないものを「非国民」扱いにした過去である。
国家政策の流れの中で、国民が差別と偏見を植付けさせられ、真実を追究する目を失ってしまう事である。多くの人は傍観者となり、係わり合いを持たないことで、自分に降りかかる災難を逃れる。そこに正義は完全に身を潜める。
この映画の監督は、それを「あつい壁」と表現した。監督は1作目の40年後に今回の「新・あつい壁」を制作した。差別と偏見は、いまだに変っていないのではないかと、感じていたからだという。
近年になり国の隔離政策が廃止されたが、或るらい病患者のこの句が、この問題の全てを語っている様な気がする。
「まあだだよ 骨になっても まあだだよ」