goo blog サービス終了のお知らせ 

函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

どこが変だというと

2014年05月22日 11時58分49秒 | えいこう語る
今朝の新聞は、我が国が今どんな国であるのかというのを、紐解く記事が満載だ。
まずは「大飯原発再稼動認めず」の福井地裁の判決だ。
住民による訴訟だが、地裁は、福島第一原発事故をふり返り「生命を守り生活を維持するという人格権の根幹を具体的に侵害する恐れがある」という趣旨での判決だ。
この判決を受け菅官房長官は「規制基準に適合すれば再稼動するという政府の方針に変わりない」という。
「地裁がなんといおうが最高裁という不動の防波堤がある」そんな気持ちだろう。
その規制委員会の田中委員長。「原発の適合性審査には影響しない」と、この二人いつもの涼しげな顔だ。
「原発再稼動」は国策なのだから、何を騒いでいるというような態度だ。
戦争できる国を目差す、集団的自衛権の容認が、これまた国民無視の状態で急加速している。
「多国籍軍への支援拡大」とある。
戦闘地域にいる米軍に、武器も弾薬も供給するという。これは米軍との一体行動ととられるので、戦いに参加したとみなされる。
自衛隊が攻撃されれば、集団的自衛権は容認せざるを得ないという、外堀を埋める作戦だ。
首相周辺は「国際貢献のため、より前に出て活動したい」と、意欲を見せているという。
我が国の「武器輸出セールス」を、活発にしようとしているだけではないか。軍事産業の奨励は、政治献金につながりはしないだろうか。「富国強兵」なる国家政策が復活したようだ。

目に青葉明治は近くなりにけり   三等下

上述した内容は、アベ総理が目差す「積極的平和主義」の一環といい、見出しには「なし崩し 消えぬ懸念」ともある。
こうなれば、人気キャラの「ふなっしー」に登場してもらい、アベ総理に国民を代表し面会していただきたい。
「なし崩し、いけない、なっしー」
そのためには「ふなっしー」を、船橋市が公認キャラクターとして認可して欲しいものだ。
※私が生まれる前の椴法華小学校だ。兵舎のようだ。ここでは軍国主義教育がおこなわれていたのだろう。


最後に「厚木夜間飛行差し止め」の記事だ。
自衛隊機だけがだめで、米軍機は「国が米国に基地の使用を許可する行政処分は存在せず、米軍機の飛行差し止めを国に求めることは出来ない」というものだ。
「米国は我が国の用心棒だ。我が国を守るために昼夜問わず訓練をすることは、当たり前のことで、むしろ喜ばしいことではないか」そんな意味合いにも取れる判決だ。
国への騒音賠償額70億円というのは、住民に対するほんの「迷惑料」という程度か。
どこが変だというと、アベちゃんを総理としている国民が変だという結論だ。
アベちゃんは総理ではなく、我が国のキャラクターでいい。
「あべこべ なっしー」。
どうやら私も、変らしい。


ベトナム戦争と大間原発

2014年05月21日 11時11分59秒 | えいこう語る
政治献金の違法性が問われる裁判で、法的な手続は間違いでないとし、実際に献金にたずさわった秘書が逮捕されるだけで、政治家自身が罪に問われないという、道徳的にみて納得のいかない判決がある。
「法」と「道徳」の内容が異なる場合、どちらに基準を選ぶかの問題だ。
道徳に反して法を選ぶと、政治家が優遇される。
法に反して道徳を選べば、政治家が逮捕される。
だが、法治国家であるがため、法に反してということにはならない。しかし、法を優先すると、道徳が廃れてしまうということになりはしないか。
「法」と「道徳」は相反するものなのだろうか。
法は道徳を守るための、盾であり矛ではないだろうか。
「法的正義」「道徳的正義」と呼ばれるが、この共通の正義とはいったいどういうことなのか。
正義とは、社会全体の幸福を保証する秩序を実現し維持すること(広辞苑)だという。
そうであれば政治献金問題は、道徳的正義が勝ってもいいような感じがする。
※目の前がすぐ海なのに、税金の無駄使いだと思う標識。


ベトナム戦争下の米国で、道徳的・宗教的信条を重んじる青年たちが、深刻なジレンマに陥った。
違法で処罰されることを覚悟の上、多くの若者が徴兵義務を拒否した。
戦前の日本では「非国民」だろう。
だが多くのアメリカ市民は、良心的徴兵拒否の行為を高く評価した。
これが民主主義の真の在り方だ。
国は大間原発建設に対して、エネルギー政策は国策なので、世界一ハードルの高い安全基準を満たせば、許可するという。
裁判所は、法的手続きは間違いないとすれば、それを拒否する函館市民を、違反と判断するだろう。
しかし、多くの国民が函館市民の道徳的行為を支持すれば、国とてそう横暴でいられないはずだ。
大間原発差し止め訴訟は、単なる自治体と国との対立ではない。
我が国の民主主義が問われる裁判としなければならない。
函館市長も、政治的スタンスからか、全国の原発周辺自治体との連携はとらないと、単独戦の様相だ。
だが、日本各地から訴訟費用の支援が、すでに2千万円を突破したという。
ここは世論を味方にし、戦ったほうがいいのではないかというのが、函館市民の声だと思う。
アベ総理のように、なんでも自分の責任でやるというのでは、独善的に陥りやすいのは明白だ。
「俺に任せろ主義」では「市民自治の精神」に矛盾する。
ベトナム戦争も大間原発問題も、国民主権の民主主義が問われる事例だ。
市町村合併から10年を迎えるが、国に対し原発訴訟を起こした函館市民でいることを、誇りに持ちたいものである。


イシバ幹事長・函館上陸

2014年05月20日 13時32分26秒 | えいこう語る
ゴジラは核実験の影響でこの世に現れた大型怪獣だ。
名前の由来は、確か「クジラ」+「ゴリラ」=ゴジラだ。
「ゴクラ」では、楽しそうな名前なので迫力はない。
テーマ曲も大好きだ。作曲者が北海道出身というのも、ゴジラを身近にさせている。
私は子供の頃、村にあった映画館でゴジラを観た。
旅芝居なども上映するので、画面の前には低い舞台もあり、観客席は椅子ではなく莚(ムシロ)が敷いてあった。
私は舞台のすぐ傍で、かじりつくように映画を観た。
水平線が盛り上がり、ゴジラが顔を出す。やがて海から立ち上がり陸に上がってくる場面に、私はゴジラに踏み潰されるのではないかという、恐怖感にさらされたものだ。
私はこのシーンを、どれほど夢に見たものか。
大人になっても、水平線を見つめていると、ゴジラが現れるか、ノルマンディー上陸作戦や沖縄戦のように、連合艦隊がずらり出現するのではないかという想像をめぐらせていた。
水平線の彼方からは、何か途方もない大きなものが現れるというのが、私の子供からの思いだ。
だが、ついに予想が的中したようだ。
※暗雲立ち込める函館山。


私にとっての現在のゴジラは、海の向こうに建設中の大間原発だ。
そして、18日に函館に上陸したのは、自民党イシバ幹事長だ。
この人物こそ、函館を踏みにじるアベ政権下のゴジラなのだ。
ゴジラの上陸を前に、札幌経由で函館に現れた連合艦隊がいる。
公明党のオオタ国交大臣だ。15日に函館入りしている。
新幹線駅と、その駅と函館空港を結ぶ、現在建設中の新外環状線を視察した。
その直後、はるみ知事は函館市長を道庁に呼び、大間原発の対応について話し合うという流れを作り、そして主役の「ゴジラ・イシバ」の函館上陸だ。
自民党函館支部の総会に来たというが、まずは函館市の庁舎に足をかけ「いつでも踏み潰すぞ」という、得意の“にらみ”を効かせたに違いない。ゴジラより眼力がありそうだ。
我が函館市の工藤市長も、北海道のヒグマのように、国に噛み付くほど威勢がいい。
「ゴジラとヒグマ」密室でどんな威嚇をしあったのか、次回の市長との懇談会で、ぜひ聞いてみたいものだ。
函館市側の連合艦隊は、市民各界が一丸となった組織だ。
「国VS地方」大国に小国では勝ち目がない。
だが戦いに必要なのは大儀だ。
ベトナム戦争を省みて、当時の米国マクナマラ長官の敗因の弁だ。
「米国には大儀がなかった。ベトナムの国民は、祖国や家族を守るという大儀があったから」だと。
福島原発事故の復旧は程遠いのに、再稼働や大間原発の容認をする国に、大義はあるか。
津軽海峡の戦い、間違いなく大義は函館市民にあるので、市民の皆さん、団結・ガンバロー!。


法の精神

2014年05月19日 10時15分33秒 | えいこう語る
アベ政権下で、現行憲法制定以来の、急速な憲法解釈の変更が行われようとしている。
立憲主義の精神に基づき、憲法は為政者が守るべきものとされてきたが、アベ政権では、国民や国家を守るために憲法があるという、解釈にシフトしようとしている。
集団的自衛権の行使容認などの動きが加速し、自衛隊を軍隊にし、戦前の日本と同様な国家体制にするぞというような、国民に向け強烈な姿勢に転じた感じがする。
公明党が、丁寧な取り扱いをと主張するが「よそから来た嫁が何を言うか」というような、自民党の勢いだ。
※絶滅危惧種に指定されている「白根葵」。身近な所に群生していた。


▼法的正義は、時代と共に変化し、歴史的に発展する。人々の価値判断も変化し、社会内部の対立する様々の価値判断が、普遍性を目差し戦っている。それは、法的正義をめぐる闘争といってもよい。
10年間と言う短期間をとってみただけでも、正義についての人々の考え方、したがって法についての人々の考え方の変化は、国際的にも国内的にもまことに目を見張るものがある。
(第一次アベ内閣と、現在のアベ内閣を見比べれば、一目瞭然)。
法は絶えず流動し、変化の過程にあるものであるが、その背後にあるものは正義についての考え方の対立である。
法の発展の歴史は、古い正義観と新しい正義観との対立・闘争の歴史だ。
「革命」というような、正義観が根本的・全面的に変わる時期には、法の変革もまた根本的・全面的であるが、そうでない場合にも、部分的・漸進的に,正義観の変化にともない、法もまた確実に変動してきた。ある場合にはゆっくりと、ある場合には急速に。そしてまたある場合には妥協的に、ある場合には非妥協的に。
法的正義の問題は、根本的には「人間の尊厳」にかかっている。▼
               渡辺洋三著 「法の精神」

アベ内閣は日本国憲法に「革命」を起こそうとしているのではないだろうか。
革命であるからアベ総理以下閣僚たちも、国家の安寧を保つためには「自爆テロ」も辞さない覚悟のように見える。この機会を逃すまいという「火の玉」のような決意だ。
『人間の尊厳』がずたずたに引き裂かれるのが戦争だ。
自衛のための戦争であっても、戦争は「人間の尊厳」を無視する行為だ。
日本国憲法第9条は「人間の尊厳」を守る国民であるという、世界に向けた宣言だ。
どんなに時代が変わっても、この誇りだけは失いたくないものだ。
野党もこの一点で団結し、より「大きな火の玉」となって「玉砕」するぐらいの覚悟を持って欲しいものだ。
今の戦局では「革命軍」に「野党の尊厳」をずたずたにされかねない情勢だからだ。


都会と田舎の集団的自衛権

2014年05月17日 11時49分29秒 | えいこう語る
アベ総理が説明した集団的自衛権の行使容認について、横浜市に住む同年代の友人と話した。
彼は中小企業の建設会社の責任者だが、今の業績は良くはないが悪くもないと話している。
アベ政権下では大企業ばかりがよくて中小企業は芳しくはないが、今後良くなるのではないかという期待感があるという。
その期待感は、アベ総理の方針のわかりやすさと、決断力だという。
彼は木材の買い付けなどで海外にも行っていた経験から、各国では紛争もあるので日本人の安全確保のため、集団的自衛権の行使は賛成だと話している。
憲法九条は時代遅れではないかとも話していた。
都会の人間は、新しいものに価値を見つけ、古いものは“おさらば”というのが主流なのだろうか。
アベ総理の世論調査も、近日中に行っても、かえって支持率は上がるのではないかとも話していた。
アベ総理は歴代総理の中で、平和を揺るがす最悪の総理だと私は思っているが、都会派の彼は、最高の総理だと思っていると話していた。
※雨上がりの庭。今の季節若葉がきれいだ。


1950年代後半からの東京は「スクラップ・アンド・ビルド」で、古い建物が壊され新しいビルが次々に立ち並び、周囲は一変した。
田舎者の私は、街がエネルギッシュに生まれ変わり、大きな躍動感を感じる半面、なんだか都会の中の田舎的雰囲気が消されることに、さみしさを覚えたのを今でも記憶している。
前回の東京オリンピックに建てられた国立競技場は「力強さ」「簡潔」「優美」がデザインコンセプトだったという。
2020年の次期オリンピックには建て替えられるという。
この競技場は、未来都市を連想するシンボルとして、街並みを一変して行くに違いない。
オリンピックには「国威発揚」という、国家目標がある。
国防軍を持ち集団的自衛権を行使でき、原発エネルギーでますます発展していく日本。
「世界でNO1の国」を、アベ総理は目指しているのではないだろうか。
次期東京オリンピックでの、さらなる一極集中の国づくりに対抗し、田舎者の目線で新しい平和国家を描くことが、地方の時代の真骨頂ではないかと、昨日の飲み会の「都会と田舎の集団的自衛権の討論」を、整理してみたのだが。