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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

戦争賛成の函館市議会

2014年06月29日 14時34分22秒 | えいこう語る
▼先に、秘密保護法の反対意見書案を否決した市議会が、6月27日の議会で、閣議決定を目差す集団的自衛権の行使容認についての反対意見書案を否決した。この二つをとっただけでも函館市議会というのは、戦争する国への片棒を担いでいる議員が多いということだ。否決された議員は街頭に出て、その内容を市民にアピールしなければならないし、新聞記事も見逃すほどの小ささでは、報道の怠慢だ。
▼市議会の総数は30名だ。市制クラブ11名と公明が4名の、計15名が足並みをそろえると、この会派の意志が通ることになる。集団的自衛権案では、さらに2名ほどがこの会派にくっ付いたそうだ。
▼先日、函館各地の戦争の惨劇を後世に残そうと活躍している、元教師の方が私のところに訪れた。昭和20年7月14日と15日は、北海道各地が米艦上機、約300機による総攻撃を受けた日だ。函館は青函連絡船が壊滅的被害を受け、輸送網が分断された。我が椴法華村も襲撃を受け4名が犠牲になったと村史に記録されている。
※地元の八幡神社だ。修復中だが過疎と高齢化で寄付が思うように集まらないが、それでも神社らしく立派になった。
 この境内には日露戦争の石碑がある。21人出征して3人が戦死している。


▼3名は名前が判明しているが、誰に聞いてもあと一人の記憶にないのだ。先生はその一人を究明しようと訪れたのだ。
ところが、私のもっとも身近な友人が、その謎を解いてくれた。その友人の先祖に、大正14年生まれの親戚筋の子供が養女として育てられ、後に日本赤十字に勤め、青森県に勤務していた時に、その空襲に合い落命したという。友人の家の墓には、その名前が刻まれているという。
▼彼女は椴法華育ちなので、村史に4名と記載されたのだろう。戦後70年を迎えようとしている今判明した、我が村の戦争の悲劇だ。大正14年生まれというと、私の母と同い年だ。母からは3名のことは聞かされていたが、青森で戦死した友達の事は、よその土地というので思い出さなかったのかもしれない。
▼私は今日にも先生に電話し、その事実を伝えようと思う。その事実が判明した日、函館市議会の戦争賛成の決議に、私は怒りを覚える。「安心・安全なまちづくり」を目指す次回の市町連の常任理事会で、市議会の行動を知らせようと思う。さらに、市長と常任理事との懇談会が近く開催される。その席でも大間原発問題と共に集団的自衛権問題を市民の立場で伺いたいと思う。
▼原発や国家安全保障は、政治家に任せておく時代ではなくなったようだ。デモクラシーの真の意味は「市民の権力」だ。議会制代表民主主義で権力を政治家に貸しっ放しをしていたため、私たちはまた戦争する悪魔の国に逆戻りそうである。政治家に権力を握られているようでは「主権在民」に反する。
▼大間原発建設には反対するが、集団的自衛権に賛成した函館市議会。この矛盾が函館市のまちづくりが進まぬ、大きな要因のような気がする。
▼もう一つ見逃せない新聞記事が。「核のごみ処分機構」の新理事長に、東京大学名誉教授で前原子力委員会委員長の近藤俊介が就任した。もちろん「原子力ムラ」の所属だ。副理事長には関西電力の元社長藤洋作だ。ここで見逃せないのは、近藤委員長は札幌出身だ。見えてくるのは高レベル核廃棄物の最終処分場だ。
▼幌延がそのターゲットに入ったようだ。


市町村合併の落とし穴

2014年06月28日 11時38分51秒 | えいこう語る
▼道南の太平洋側にある八雲町の高台から、いつも波穏やかな噴火湾を望む雄大な景色は、北海道の中でも私の最も好きな場所だ。グループ・サウンズ、タイガースの名曲「花の首飾り」は、この町の女子高校の作詞だったというのが、最近判明した。曲が世に出て半世紀近く経ったが、この町のイメージがさらに魅力を増すことを期待したい。
▼この町と背中合わせの日本海側の熊石町が合併し「二海郡八雲町」となった。太平洋と日本海の二つの海を持ち、海と海の距離は我が国最短だそうだ。八雲町は日本最北の関所があった場所で「山越郡八雲町」と呼ばれていた。山を越えるというのは、なんとも旅情を感じ、私が好きな地名だったが「二海郡」というのも、二つの海を股にかけるなんて、雄大な名だ。
▼町の規模から言うと熊石が小さかったので、「八雲町」となったのだろう。この熊石地区はアワビの養殖が盛んで、毎年アワビを食べさせるイベントがあり、3万人ほどが集まるという。ところが今年のイベントに使われたアワビの半数が、韓国産だったのが判明した。実は、今年は海水温の低下で、ここのアワビの8割が死んだという報道がされていたのだ。
▼「産地偽装という認識はなかった」と弁解するが、後の祭りだ。「あ、わびしい」。八雲町に名前を取られ「熊石地区」と呼ばれ、町名がなくなったことへの、深い心の傷が表面化した出来事ではないだろうか。つまり、熊石町ここに健在という、自己顕示欲の表れだったのではないかと。
※私の地区では「しゅる貝」と呼ぶ。戦後肉の代わりにカレーに入れたものだ。結構旨い。
 シェルは貝だが、そこが訛ってシュルと呼ぶようになったという説は正しくない。そうであれば「貝・貝」だからだ!?


▼私の地区も由緒ある「椴法華村」というのが消滅し、やはり「椴法華地区」と呼ばれているからだ。「町」や「村」は独立しているが「地区」は「その他」のような気がするからだ。
▼ともあれ、大きな海を二つ持つ「二海郡」だ。熊石はアワビ、八雲はホタテの養殖が盛んだ。さらにウニを添えた「三海丼」なるもので、盛り上げてみたらどうか。熊石温泉で湯に浸かり、山を越えて八雲町へ。「ほととぎす明日はこの山越えてゆこう」・・・山頭火の句など思い出しながら。八雲町には「花の首飾り」の曲が、町中に流れている。なんとも素敵な二海郡八雲町ではないか。
▼ 今朝も小雨が。
「雨降って地固まる」の例えもある。がんばれ八雲!がんばれ日本!?
私が八雲にエールを送るのは、私の好きな二人がいるからだ。一人は講道館4段のA君、そしてJAZZ喫茶のNママだ。


国民とは

2014年06月27日 13時44分43秒 | えいこう語る
▼サッカーW杯に気を取られている間に、自民党と公明党が談合を繰り返し、戦後、我が国が世界に宣言した「不戦の決意」を、勝手に破棄してしまうようだ。憲法学者がこぞって立憲主義に反する行為だと言っているので、アベ政権は国民を無視し、憲法違反をする覚悟なのだろう。
▼日本国憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こるこのないようにすることを決意し、ここに主権が国民にあることを宣言する」とある。この内容は小学校高学年以上なら誰でも理解できるが、アベ政権は小学生以下の能力ということになるだろう。
▼函館市町会連合会では「大間原発建設凍結実行委員会」を立ち上げ、アベ総理に「福島第一原発事故の収拾もつかぬのに、世界初のフルMOX燃料使用の大間原発建設は、ねえべや」というような平易な言葉で、手紙を出そうと私が原案を書いた。だが、幹部たちから、総理大臣に対しもっと品位のある言葉で書けといわれ、修正に修正を重ね、インパクトのない文章になってしまった。ふと考えれば、集団的自衛権で修正に修正を重ね、自民党に追従してしまった公明党のような雰囲気だ。
※海霧が立ち込めるROUTE278銚子ビーチに、江ノ電を走らせてみた。


▼主権在民なので、国民としては総理にはっきりもの申していいということだが、手紙でさえそうならないのは、民主主義というものが戦後70年近く過ぎても、国民に理解されていないということになる。アベ総理の独断を民主主義の崩壊などというが、国民側の民主主義が土台すら出来ていないということだ。
▼先日、韓国の客船の事故で多数の犠牲者が出た。船員たちの言動を我が国民は非難し、考えの未熟な国民だと思っている人も多いようだ。私もそう思っていた。だけどそうだろうか。W杯は関心を持つが憲法無視の総理に、サッカー観戦ほどの熱意を持って、政権を蹴っ飛ばしてしまおうなどという、民主主義を守る熱意などまったく見えてこない。
▼国民とは、国家の下に民衆がいるということだ。主権在民なら「国民」ではなく「民国」が正しいのだ。「日本民国」が正しい表記だ。そういえば我が国民が笑っている隣の国は「大韓民国」という。
▼アベ総理の政策を「アホノミクス」と評する、女性の大学教授がいるが「自民+公明=アホノミックス」と呼びたい。
今朝の新聞の、一面トップだ。
「日米の抑止力向上」集団的自衛権閣議決定とある。
私が主筆なら「憲法第9条破棄」閣議決定と書くけど。


今時の若者

2014年06月24日 12時28分36秒 | えいこう語る
▼昨日、朝から町会の草刈を3人の役員で行い、次に会館前の、松の大木の枝払いをした。
会館の敷地には、大正時代に建設された村役場が建っていた所だ。その玄関前の松ノ木なので当時からあるものだろう。
夏仕立てというか枝も半分ほど切り払い、男ぶりのいい松に仕上がった。
青空の下で、大正・昭和・平成とこの村の衰勢ぶりを見てきた松の精が、昨日の私たちの討論会の切っ掛けを作ってくれたのだ。
▼全作業が終了したのが午後4時頃だった。ご苦労さんというので、すっきり清掃された会館前で一杯となった。
この会館の傍には、当時の村長公宅があった。昭和20年7月15日、我が村は米軍機の攻撃を受け、4人の犠牲者が出たが、その中に村長さんの娘さんもいた。
話題は当然、今ホットな集団的自衛権に及ぶ。
※こんなグレーな夜明けも、結構好きだ。


▼そこに、隣町といっても、函館市に一緒に合併したので同じ函館市民だが、そこの若者で私の地区で勤務している、22歳の男性が勤務を終え立ち寄った。
彼は、前に一度話したことがあるが、なかなかの軍事お宅だ。
スマホを片手に日本ばかりではなく、世界各国の軍の装備や戦闘能力まで分析する。
今時の若者は、趣味が高じると専門家顔負けの情報まで仕入れるのかなと思っていたが、昨日の彼は、私たち町会役員(50代後半から60代後半、その中の一人は元自衛隊員)の度肝を抜いたのだ。
▼集団的自衛権の行使となった場合、もし敵国が攻めて来た場合、島国である我が国の軍事力と防衛能力について、専門家顔負けの解説ぶりに、私たちは聞き入った。
我々の素朴な疑問にも、実に明快な分析で納得させてしまうのだ。
海の中からの攻撃である、各国の潜水艦の能力と装備の分析などは圧巻である。
▼大間原発についても質問したが、構造についてもかなりの理解力だ。
函館市町会連合会の理事たちも、このぐらい原発の知識を持っていたら、反対運動もスムーズに行くに違いないと、私も感服してしまった。
▼さて、3時間ほどの彼の講義を受け、「それでは、今日のまとめを軍事評論家のNさんにしていただきましょう」と私が言うと「今の軍事は経済そのものである。次回は憲法第9条についてお話しましょう」と締めくくり、酒は一滴も飲まず、後方にウイングを付けた愛車で、隣町に帰っていった。
▼「今時の若者は」と言われた時代もあった私たちだが「今時の若者」は、磨けば相当な光を放つ存在だということを確認した、昨日の町会会館の、草刈作業終了後の成果だ。
「共同作業後の一杯に、コミュニティーの未来が見える」というのが私の持論だが「ただ飲むのが好きなだけでしょう」とは、我が家の経済評論家の分析だが。


町会長の一日

2014年06月24日 12時22分15秒 | えいこう語る
▼土曜、朝4時起床。前日までの雨交じりの天候が嘘のような青空が広がっている。映画「日本の青い空」を思い出す。
終戦後、すぐに日本の学者たちが集まり、今の憲法の草案を作りGHQ司令部に提出し、それが今の憲法のたたき台になった。
改憲論者たちが米国に押し付けられたと主張するが、実は戦争のない国を目差した日本の叡智の集結が、今の憲法にはあるのだ。
久しぶりの青空を眺め、戦争をする国へと血眼になっているアベ政権への無謀ぶりに、ちょっぴり気持ちもブルーになる。
▼今日は「第41回ふれあい大運動会」だ。副大会会長の私の任務は、本部席での賞品配りと大会終了挨拶だ。
私は人前での挨拶は1分以内で、前の人の挨拶にダブらないよう心がけている。事前に挨拶は考えてくるが、ダブった場合い内容変更は大変だけど、自分に与えられた楽しい時間だと思うようにしている。
そこで1分が私の厳守時間だ。
そうでなければ、私は取り止めのない長い挨拶になるからだ。
※人口1000人の過疎の村の運動会は、内容は楽しいが写真はさみしいものがある。


▼午前6時、自分の町会のテントを会場に設置し、一端帰宅。朝刊に目を通すと、お悔やみ欄には、なんと従姉の主人の名が。この男性は、実は私の中学校時代の先生でもあった。
昭和30年代の教師は、とにかく生徒をぶん殴った。連帯責任などという言葉が生徒は身に沁みていた。
自分が悪くなくても、実行犯の傍にいただけで殴られた。弁解の余地などない。かえって拳骨が強くなるからだ。
▼私はその教師と、まったくそりが合わなかった。思春期特有の、心の不安定さにあったのかもしれない。
中学の思い出というと、教員室に呼ばれた多さが一番に来る。もう一つは、校長室に呼ばれたことだ。
最敬礼して入室すると「君は礼儀正しく真面目な生徒だ」とほめてくれる。先生に叱られ校長先生にほめられる、その意味がよく分からなかった。校長先生は「この書類、学校帰りに郵便局に出してください」と、いつもそんな命令だった。
▼さすが鈍感な私でも、後に出身中学のPTA会長になった時、教師と校長先生の役割分担を理解したのだ。父親と母親の関係のようなものだったと。
▼PTA会長時代に、いじめ問題が各学校で発生し、教職員とPTAとの合同対策会議で、なぜか私が司会役に指名されたことがある。
そこに中学時代の先生が、教育委員会を束ねる組織のトップの役職となり参列していた。
私の中学時代は先生たちによく殴られ、親たちも先生に対し絶対の信頼を持っていたので、殴られて家に帰っても両親にそのことを話したりはしなかった。お前が悪いからだと、また叱られるからだと。
先生は殴ったけれど、生徒へ真剣に向き合ってくれていたという話をして、会場にいる先生にお礼を言ったつもりだ。
▼運動会が無事終了し、その後町会館前での反省会。2時間ほどで先に退席、妻の運転で函館市内でのお通夜に参列した。早朝からの様々な活動と反省会でのビールが効き、疲れ果てた私はほとんど妻に寄りかかり居睡りしていた。
終了後、先生の遺影の前に立ち焼香すると、思わず目頭が熱くなった。
「君、これからもがんばって欲しい」と、先生の声が聞こえたからだ。
▼葬儀会場を出ると、夜の7時頃だったが、まだ空が明るかった。妻が「今日は夏至なんだって」といった。
葬儀会場には「00家葬儀」と、先生の性が印刷された札が張っていたが、先生は書道の達人でもあったのを、その印刷を見てふと思い出した。
▼帰宅したのは夜9時を過ぎていた。
私の挨拶は短いが、ブログは夏至のように長くなった、町会長の最も長い一日である。