LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

UN MARI DE TROP

2010-09-29 | THE INFORMATIONS
アラン・ドロンさんが特別出演したテレビドラマの新作"UN MARI DE TROP"のスチール写真が初公開されました。
どういうシチュエーションなのか興味がわいてきます。


Lorie aux cts d'Alain Delon pour TF1 - People - TF1 News

TF1の公式サイトはこちらです。
  ↓
Un mari de trop - TF1

ドロンさんの出演場面も観られる予告編はこちらです。
  ↓
Un mari de trop ... Lorie et Alain Delon le 11 octobre 2010 sur TF1 ... bande annonce sur adobuzz.com






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AVEC MIREILLE

2010-09-29 | THE BRILLIANT PHOTOS
『プレステージ』より
アラン・ドロンさんとミレイユ・ダルクの仲睦まじい二人のスチール写真です。

まるでプライベートの写真のようです。
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『アラン・ドロン・ファンの集い2010』 開催のお知らせ

2010-09-22 | THE INFORMATIONS
表題の件、本年も開催日時が決定しましたのでお知らせします。

日時;11月6日土曜日 午後1時ごろより
開催予定場所;大阪市内 株式会社アラン・ドロン・インフォメーション・デスク事務所
会費;無料(会場までの交通費は各自でご負担いただきます。)

昨年の開催日はちょうどドロンさんの74歳の誕生日でしたが、今年は75歳誕生日の2日前となります。
どうぞ皆様振るってご参加下さい。

参加申し込みの締切日を10月31日とさせていただきますので、
ご参加をいただける方は、それまでに私の下記メール・アドレスまで直接ご連絡をお願いします。
また会場のキャパシティーの関係により締切日前に締め切らせていただく可能性もありますことをご容赦願います。
それでは皆様よろしくお願い申し上げます。

chaser34@goo.jp

尚これまでの開催内容については以下のリンクをご覧ください。
『アラン・ドロン・ファンの集い2006』のご報告
『アラン・ドロン・ファンの集い2007』のご報告
『アラン・ドロン・ファンの集い2008』のご報告
『アラン・ドロン・ファンの集い2009』のご報告

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FROM MY NEW SCRAP BOOK (65)

2010-09-20 | THE BRILLIANT PHOTOS
アラン・ドロンさんがテレビドラマに本格的に主演した最初の作品が1988年の"Cinema" (1988)でした。
フランスの"TELE STAR"誌より、このドラマの珍しいスチール写真をお届けします。

このドラマに関連する記事は以下のリンクをご覧ください。

CINEMA シネマ (1) (2) (3) (4)
『CINEMA』
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UN MARI DE TROP

2010-09-19 | THE MAGAZINES
アラン・ドロンさんがゲスト出演した最新のテレビドラマ"Un mari de trop (2010) (TV)"が来月フランスで放映されるようですが、
主演女優で歌手のLORIEを取り上げた特集記事が掲載されたフランスの"LE FIGARO TV MAGAZINE"からの画像です。

ドロンさんの役柄は主人公の夫の父親役のようですが、こういう現代劇に出演されるのは珍しいことで、
どれぐらいの出演場面があるのかわかりませんが、かなり期待しています。
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AVEC CATHERINE

2010-09-14 | THE BRILLIANT PHOTOS
当時のパートナーであったカトリーヌさんがデザインしたアラン・ドロン・ブランドの着物のキャンペーンで
1985年に来日したときのアラン・ドロンさんと当時のパートナー、カトリーヌさんとのスナップ写真です。
(CINE TELE REVUE 誌より)

ドロンさんは何と紋付羽織袴姿で、しかも家紋にはおなじみのADマークがしっかりと描かれています。
今でもドロンさんはこの着物を着ることがあるのでしょうか、とぜひ聞いてみたいものです。

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IN HIS LISTENING ROOM

2010-09-12 | INTERIOR
ヘッドフォンで音楽を聞きながら愛犬とリラックスしているドロンさんの珍しいスナップ写真です。

私がこの写真を観て注目したのが左後方のオーディオセットです。
そこに見えるSONY製のカセットデッキは何と私が学生時代に愛用していたものと全く同じ機種だったのです。
これほど嬉しい気持ちは他にありません。

これだけを伝えるための記事でした。失礼しました。
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Cesar et Rosalie

2010-09-07 | ROMY
ロミー・シュナイダーがクロード・ソーテ監督と組んだ1972年の作品『夕なぎ』(原題Cesar et Rosalie (1972))をご紹介します。

『太陽が知っている』でドロンさんと共演して以来、フランスでの人気が復活したロミー・シュナイダーは
その後クロード・ソーテ監督作品『過ぎ去りし日の』と本作の大ヒットによりフランス映画界での地位を確固たるものにしました。

物語は、ロミー演じるヒロイン、ロザリーと彼女の年上の恋人セザール(イヴ・モンタン)との平和な日常生活の中に、
突如現れた彼女の昔の恋人ダヴィッド(サミー・フレイ)との三角関係を情感たっぷりに描いた大人の恋愛物語です。
昔の恋人との再会に心揺り動かされるヒロインの心理が巧みに描かれ、
それを演じるロミーの演技の見事さと数々の表情の美しさがこの作品の最大の魅力です。
また彼女を失うまいともがき苦しむセザールを演じたイヴ・モンタンの白熱の演技も見ごたえがありますし、
ロザリーへの想いを断ち切れない“敵役”であるはずのダヴィッドを演じたサミー・フレイの嫌みのない素のような演技も見事です。

邦題は『夕なぎ』ですが、海岸に皆がピクニックに出かけても、すぐに風が吹き荒れて砂ぼこりにまみれてしまったり、
(このあたりの描写はジャン・ルノワール監督の『草の上の昼食』へのオマージュに感じ取れます。)
まるで三人の主人公たちの常に晴れることのない心理を表すかのような、
『冒険者たち』のカメラマン、ジャン・ボフェティが作り出す映像は常にどこか曇りがかっています。

またフィリップ・サルド作曲の音楽も、
不安感を表す低いビートと安堵感を匂わせる牧歌的なメロディーがミックスされた主題曲が印象的ですが、
ラストに流れる教会のミサの音楽のようなエンド・テーマも3人の新しい門出を祝うかのような効果が絶大です。

フランス盤DVDのライナー・ノーツにはこの作品のキャスティングについて書かれていました。、
当初クロード・ソーテ監督はヒロインの役にカトリーヌ・ドヌーヴを想定し彼女に依頼していたのですが、
彼女からの明確な回答がなかった為、前作『過ぎ去りし日の』で意気投合したロミーに再び声をかけました。

またイヴ・モンタンが演じたセザールの役も当初イタリア人のヴィットリオ・ガスマンが考えられており、
もう少し貴族的な雰囲気を持つ人物だったようです。
ところがある日モンタンに会ったソーテ監督はすぐさまこの役をモンタンにオファーしました。
彼の持つ人をからかうような物腰とエネルギッシュさが、
監督のセザールという人物に対して持っていた最初のイメージを変えさせたようです。
しかし二人の関係は実際にはそうあまいものではなかったようで、
初めて仕事をする二人でしたが、撮影初日は大喧嘩となりました。
「彼らはお互いに相手がどんな奴か嗅ぎ分けようとしていたのです。」
当時のロミーとソーテ監督のエージェントだったJean-Louis Liviがこう証言しています。
結局二人の喧嘩は初日のみで、あとはお互いうまくいったようです。

もう一人の主人公ダヴィッドの役には当初ジェラール・ドパルデューから演じたいという希望が寄せられましたが、
ソーテ監督のイメージには合わなかったため、結局サミー・フレイにオファーされました。
その代わりソーテはドパルデューに次作『友情』(原題Vincent, François, Paul... et les autres (1974))で出演の機会を与えました。

当初の予定通りドヌーヴがオファーされていたら、本作は全く違ったものになっていたでしょうし、
ましてや相手役がガスマンとドパルデューだったらと想像すると、そうならないでよかったと心底思わされます。

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Claude Sautet avait d'abord proposé à Catherine Deneuve d'interpréter le role de Rosalie.
Comme elle tardait à répondre, il contacta Romy Schneider qu'il avait dirigée dans Les Choses de la Vie.
Pour Romy, tourner avec Claude Sautet était toujours un Bonheur et elle n'hésita pas à accepter.
Le refus final de Catherine Deneuve la rassura.

Pour César, Claude Sautet avait pensé à Vittorio Gassman, acteur italien parfaitement francophone.
Grand et bel homme, Gassman aurait sans doute donné un côté plus aristocratique au personnage.
Le jour où Claude Sautet rencontra Yves Montand, il renonça à sa première option.
La gouaille et l'énergie de Montand colleraient mieux au personage entier que le réalisateur avait en tête.
Mais tout ne fut pas rose sur le plateau.
Les deux hommes, qui n'avaient jamais travaillé ensemble, eurent, au premier jour de tournage, une mémorable dispute.
« Ils avaient besoin de se renifler », dira Jean-Louis Livi, agent de Romy Schneider et de Claude Sautet.
Cette première dispute fut d'ailleurs la dernière.

Gérard Depardieu fut pressenti pour interpreter le jeune David.
Mais le réalisateur ne reconnaissait pas le personnage qu'il avait imaginé.
Il faut dire que Sautet avait écrit le scenario huit ans auparavant et avait eu le temps d'y réfléchir.
Il préféra donc Samy Frey, avec son physique de beau ténébreux et son sourire charmeur pour incarner « son» David.
Mais il promit un prochain rôle à Gérard Depardieu. Ce sera dans Vincent, François, Paul et les Autres.
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D'URBAN (30)

2010-09-04 | CM FILMS
前回アラン・ドロンさんのインタビューで語られていた『太陽が知っている』の原題は『スイミング・プール』でしたが、
奇しくもその約10年後のダーバンCMの最後の放映バージョンがこの『プール編』ということになりました。

時代が1980年代に入ったことでCMの雰囲気もそれまでのメランコリックで孤独感あふれるものから
集団の中でにこやかに戯れている円熟した男という演出が施されていますが、
これはこれで今のドロンさんのイメージに近い雰囲気を醸し出していて見どころのあるフィルムです。
なんでもないシーンの連続ですが、プールサイドで水しぶきを遮る姿がダンスを踊っているように軽やかで、
傍らの女性にバスタオルを両手でかけるしぐさなどもドロンさん独特のものです。

当時の雑誌のスタッフの撮影裏話にはここでご紹介するほど具体的なものがありませんでしたが、
ドロンさんはこのCM撮影の前にパリで公開された『ポーカー・フェイス』が大ヒットし、
このあと『危険なささやき』で初の監督業を控えており絶好調の様子であったとのこと。
CMの映像のドロンさんの表情からもその好調ぶりをうかがい知ることができるものとなりました。

この映像は以下のリンクの7分57秒後から始まります。
     ↓
YouTube - ALAIN DELON in D'URBAN/Part4

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L'HOMMAGE D'ALAIN DELON A JACQUES DERAY

2010-09-01 | INTERVIEW
『太陽が知っている』の監督ジャック・ドレー(写真中央)は2003年の8月に74歳でお亡くなりになっていますが、
直後のパリマッチ誌にアラン・ドロンさんが彼に追悼の意を込めてインタビューに答えている記事を先日入手しました。

ドロンさんとジャック・ドレー監督とは9本の作品でコンビを組んでおり、
最も気心の知れた間柄であったことはつとに有名ですが、
具体的にドロンさんの口からドレー監督について詳しく語っているインタビューにお目にかかったのは今回が初めてでした。

監督と俳優の理想的な関係についても詳しく言及したドロンさんの言葉も大変興味深く感じられましたので
全文を翻訳してみました。以下に原文と共にご紹介いたします。

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Paris Match;Avec sa formation d'acteur, Jacques Deray avait-il une façon particulière de vous diriger?
Alain Delon; Oui, absolument! Les meilleurs cinéastes sont ceux qui ont touché eux-mêmes à la fragilité de l'acteur.
Les autres ne peuvent pas comprendre nos angoisses, notre vulnérabilité, notre hypersensibilité.
Deray n'était pas seulement réalisateur et metteur en scène, il était un vrai directeur d'acteurs.
Il comprenait intimement ce qu'est la "machine acteur".
Il savait la difficulté d'émouvoir, de faire pleurer, de faire rire, de sortir ses tripes, de donner ce qu'on a de plus profond en soi.
Sa façon de nous diriger était plus sensible, plus personnelle, plus intime.
Jamais, par exemple, il ne cherchait, comme d'autres metteurs en scène, à nous déstabiliser.

P.M. Il disait aimer les grands acteurs, il leur trouvait une magie ...
A.D. Il était un amoureux passionné des acteurs. "Sans eux, on n'a pas de film", estimait-il.

P.M. Vous avez tourné neuf films ensemble...
A.D. C'est énorme, c'est une vie!
Il faut savoir qu'autrefois les tournages duraient trois, quatre mois.
Tourner "Borsalino" a dû prendre seize semaines!
C'étaient des tranches de vie !
D'intenses périodes d'existence en communauté.
On était devenu amis. Lui parti, ce sont des époques qui défilent, très différentes :
les années 60, les années 70, les années 80. C'est un morceau de moi qui fout le camp.

P.M. Quel genre de personnage était-il sur un tournage?
A.D. C'était un homme très doux, délicat, attentionné. Sous ses airs bougons, il était chaleureux.
Je le revois, sa cigarette au bec, je lui disais: "Arrête de fumer, t'es en train de te foutre en l'air !"
Il rigolait.Il déjeunait avec l'équipe.
Sur un plateau, comme il savait exactement ce qu'il voulait, travailler avec lui était d'une facilité ...
Il créait une harmonie, on tournait dans la joie.
Il était heureux, toujours de bonne humeur, convaincu – à juste titre! - d'exercer "le plus beau métier du monde".
D'ailleurs, je ne l'ai jamais vu s'énerver, encore moins piquer une colère ...

P.M. Comment se situe "La piscine" dans votre souvenir?
A.D. C'est notre premier film ensemble, en 1965, le film de ses grands débuts.
Moi, j'avais déjà une belle carrière avec Visconti ("Rocco et ses frères", "Le guépard"), René Clément ("Plein soleil"), Verneuil ("Mélodie en sous-sol") ...
De Jacques Deray, j'avais vu "Du rififi à Tokyo" avec Charles Vanel, et quand on m'a proposé ce cinéaste pour tourner ce scénario, j'ai dit "O.k., pas de problème";
j'ai imposé Romy contre les producteurs (qui voulaient d'abord Monica Vitti, puis Angie Dickinson).
Pour moi, "La piscine" est son chef-d'oeuvre; et pour nous, les acteurs, une expérience unique ...
Romy, Maurice (Ronet, N.d.l.r.) ... Je suis le dernier survivant. .. Plus jamais je ne pourrais revoir ce film ...

P.M. Vous avez été le producteur de beaucoup de ses films, y avait-il des tensions sur le budget entre vous?
A.D. J'ai produit quasiment tous les films que j'ai tournés avec lui, et je peux vous dire qu'il n'y a jamais eu le moindre désaccord entre nous.
Il ne jetait pas l'argent par les fenêtres.
Mais, de mon côté, je connaissais les exigences pécuniaires d'un bon film noir.

P.M. Les titres de ses films sonnent encore formidablement aujourd'hui
- "Flic Story", "Trois hommes à abattre", "Doucement les basses"... -, vous les trouviez ensemble?
A.D. Non, les titres, je les trouvais tout seul.
"Borsa!ino", par exemple, personne n'y croyait, je l'ai imposé.
Quant à "Flic Story" - il y aurait aussi "Parole de flic", "Pour la peau d'un flic" ... -
c'était parce que je m'étais aperçu que, dans un titre, le mot "flic" me portait chance !

P.M. Vous avez été son producteur et l'acteur qui l'a le plus inspiré;
quant à lui, il vous a poussé à vous essayer à la mise en scène...
A.D. Oui, je jouais, je produisais, je savais que je ne serais pas auteur.
Alors, dans les années 80, il m'a incité à faire de la réalisation.
Je lui dois mes deux films, "Pour la peau d'un flic" et "Le battant".

P.M. Quand lui avez-vous parlé pour la dernière fois?
A.D. Après la diffusion récente à la télé d'un film de lui, je lui ai téléphoné : "Quelle belle soirée on a passée! Merci!"
Ça lui a fait plaisir. Je regrette de ne pas l'avoir revu dans ses derniers moments: c'est ma faute.
J'ai voulu savoir comment il était parti.
Je l'ai demandé à sa compagne: "Dans un baiser", m'a-t-elle répondu. Ça m'a bouleversé.

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パリマッチ誌(以下PM);俳優を指導するという意味でジャック・ドレー監督は何か特別なやり方であなたに接していたのでしょうか?

アラン・ドロン(以下AD);はい、全くそうです!最高の監督というのは、俳優の弱さに自分自身を向きあわせることができる人たちです。
他の監督たちは私たち俳優の不安や弱さや感受性を理解することができていません。
ドレーは単に映画を撮る監督というのではなく、俳優にとっての本当の監督でした。
彼は"機械仕掛けのような俳優”がどんなものかを深く理解していました。
彼は、俳優を動かせたり、泣かせたり、笑わせたり、自分の内面を外に出させたり、
そこに深みをもたせることがどれほど難しいかを知っていました。
彼の演出方法は、我々俳優とより感性を深めあって、より個人的に親密になることでした。
彼は、例えば他の監督たちのように、私たちを不安定な気持ちには決してさせませんでした。

PM;彼は大物俳優が好きだと言っていました。彼らには魔法を発見すると...

AD;彼は俳優というものを情熱的に愛する人でした。 "俳優たちがいなければ、映画は存在しないんだ"と彼は考えていたのです。

P.M;あなたは彼と一緒に9本もの映画を撮っていますね...

AD;すごいことですね。こんな人生っていうのもあるんです!
昔は映画の撮影といえば3、4ヶ月間続いたんです。『ボルサリーノ』の撮影も16週間かかりました!
その期間というのは人生の断片といえます!共通の目的を持った存在同士が過ごす激しい期間でした。
そこで私たちは友達になりました。彼が逝ってしまって、彼との日々が次々とよみがえってきます。
とても他とは違った日々でした。60年代、70年代、80年代。過ぎ去ってしまった私の人生の一部です。

PM;彼は撮影中はどのような人でしたか?

AD;彼は非常に優しい男で、敏感で思いやりのある人でした。外見はいつも不機嫌そうに見えますが、温かい人でした。
彼がいつも口にタバコを咥えていたのを覚えています。私は彼にこう言いました:"タバコは止めろよ。体を壊しちまうぜ!" 
彼は笑っていました。彼は自分の撮影チームと一緒に昼食を取りました。
撮影中、彼は自分の求めるものを詳細に頭に描いていました。ですので彼と一緒に仕事をすることはとても楽でした。
彼は調和を創造し、それが喜びに変わっていきました。
彼は幸せそうで、常に明るく、当然のことですが、"世界で最も美しい仕事をする"ことに自信を持っていました。
それに、私は彼が興奮してカンシャクを起こすような姿を見たことがありませんでした...

PM;『太陽が知っている』はあなたの記憶の中でどのような作品ですか?

AD;あの作品は私たちが初めて一緒に撮った1969年の作品です。
私はすでに、ヴィスコンティ(『若者のすべて』と『山猫』)、ルネ・クレマン(『太陽がいっぱい』)、
ヴェルヌイユ(『地下室のメロディー』)らとの作品で成功を収めていました。
ジャック・ドレー監督の作品は以前シャルル・バネルが主演した、”Du rifini à Tokyo”を見ていて、
彼から新しい映画のスクリプトをもらったとき私はすぐに"オーケー、問題ないよ。”と言いました。
私はロミーをプロデューサーたちに推薦しました。
彼らは当初モニカ・ビッティかアンジー・ディキンソンを希望していました。
私にとって『太陽が知っている』は彼の傑作であり、私たち俳優たちにとっても貴重な経験でした...
ロミー、モーリス・ロネ...私は最後の生存者となりました。 もう私はこの映画を見ることはないでしょう...

PM;あなたは彼が監督した多くの作品のプロデューサーでした。
彼とあなたの間には予算についてのプレッシャーはありませんでしたか?

AD;私は彼と一緒に撮影した映画のほぼすべての作品をプロデュースしてきましたが、
私たちの間で意見が割れたことは一度もありませんでした。
彼は窓から無駄にお金を投げ捨てるようなことは一切ありませんでした。
しかし、私の立場では良質なフィルムノワールを作るとなると予算の要求が多いことを知っていました。

PM;彼が監督した映画のタイトルは今日でも素晴らしいですね。
『フリック・ストーリー』『ポーカー・フェイス』『もういちど愛して』... あなたも彼と一緒に考えたのですか?

AD;いや、タイトルは、私一人で考えてきました。例えば『ボルサリーノ』も私が考えました。
みんな信じないのですが、私は映画のタイトルを考えることも仕事のひとつと自分に課してきたんです。
『フリック・ストーリー』について言いますと『復讐のビッグ・ガン』や『危険なささやき』(の原題)にも含まれている言葉
『FLIC=警官』をタイトルにいれるとラッキーな結果を私にもたらしてくれました!

PM;あなたは彼の映画の製作者であり、最もインスピレーションを与えた俳優ですね。
でも一方で彼はあなたに監督の仕事を勧めました...

AD;はい、私は俳優で、プロデューサーでしたが、演出をしようなどとは思ってもいませんでした。
その後、80年代に入ってから、彼は私に強く勧めてきたのです。
『危険なささやき』と『鷹』の2本のフィルムを演出できたのは彼のおかげです。

PM;彼と最後に話しをしたのはいつでしたか?
AD;彼が演出したテレビ映画が放映された夜、私はすぐ彼に電話してこう言いました。
「とても美しい夜を過ごさせてもらったよ!ありがとう!」とね。彼も満足そうでした。
彼の最後の瞬間に立ち会うことができなかったことをとても後悔しています。これは私の落ち度です。
私はどのように彼が逝ったのか知りたくて彼の奥様に尋ねました。すると彼女はこう答えました。
"キスをしながら彼は逝きました"と。私はとても動揺してしまいました。

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