ダーバンのCMは1970年から1981年まで計11年間に亘って製作されたわけですが、
その中でも1975年はちょうどドロンさんの映画での人気絶頂の頃と重なることもあってか、
制作された3本のCMが3本とも他の年度と比べて最も内容が充実した作品群となっているように感じました。
40歳を目前にしたドロンさんの外見も、若さと中年の渋さがほどよくブレンドされており、
この年度をひとつの頂点と見てもいいのではないかと思います。
(もちろんそれ以前、以降の年度にも名作はいっぱいあるのですが。)
今回から3回に分けて1975年に放映された3本のCM製作の裏話を
当時の映画雑誌「スクリーン」と「ロードショー」の2誌の記事から抜粋してご紹介していきたいと思います。
舞台裏のエピソードを披露しているのは当時の制作に携わったスタッフの方々です。
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1975年4月12日
フランス、グルノーブルのホテルにて、
それまで約10日間、フランスのスタッフたちと合流してロケハンを重ねてきた日本のスタッフたちは、
明日の撮影開始を控え深夜のカフェでコーヒーを飲んでいた。
そこに背後から「ボンジュール」とにこやかに現れたドロンさん。
直前に新作「フリック・ストーリー」の撮影を終えたばかりで、
黒いコートに白いマフラーという出で立ちの彼は、明日からの撮影の簡単な挨拶のあと
スタッフと同じ濃いコーヒーを飲んで深夜のグルノーブルの街の中に愛車シトロエンで消えていった。
1975年4月13日夜
グルノーブルのスポーツセンターにて、
撮影するCMのタイトルは「リングサイド」、
テーマは男が持つ「力」、その「力」を再確認する、ということがモチーフとなっている。
撮影場所のスタジアムでは前日の12日に世界ミドル級のタイトル・マッチが
コロンビアのバルディスとフランスのコーエンとの間で行われることになっていた。
そしてその満員の観客が去った後の汚れきったリングサイドの生の状況を使って臨場感を出すはずであった。
ところが現実にはコーエンが関節炎の故障のため試合は中止され、
スタジアムの「汚し」の作業はスタッフたちの手作業となってしまった。
「せっかくセッティングしたスタジアムも結局あなた達撮影スタッフの為に作ったようなものさ・・・」
プロモーターのカズヌーブル氏の嘆き言葉である。
夜のスタジアムに立ちこもる紫煙を作り、まき散らされた新聞紙の中にドロンさんが立つ。
ダーバンのモジュラーに身を包んだ彼がリングサイドのビームの中に浮かび上がってくる。
ドロンさんの気持ちの用意ができたとき住田カメラマンの準備した2台のカメラが動き始める。
そしてドロンさん専属のスチール・カメラマンのジャン・ピエール・ボノーが操る
モーター・ドライブのスチール・カメラも動き始める。
リングの上の男達の死闘を想起し、見上げているドロンさんの視線をじっと見据えていると
彼の眼球のまわりがうっすらと涙でにじんでいるのであった。
スタジアムの掃除人夫の声にふと我にかえりリングサイドを離れる彼に、
残飯を漁りに来た野良犬がセッティングされ、その犬に一瞥し、煙草に火をつけ、
その一服を吸ってコートをはおり歩き始めるのであった。
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このフィルムは以前ご紹介しました
YouTube - ALAIN DELON in D'URBAN Part2の
後半6分47秒後から始まります。
ダーバンCMの制作スタッフが考える企画は
ドロンさんの一人の人間としての魅力を画面に展開させながらも、
同時にドロンさんがそれまで出演してきた映画作品のイメージに忠実でもあります。
今回のこのフィルムにもボクシングというテーマが取扱われ実に効果的でした。
文中にも出てきましたが、ドロンさんはこのとき「フリック・ストーリー」の撮影を終え、
次回作の「ル・ジタン」にとりかかる直前であったというこで、
ロジェ・ボルニッシュ刑事の髪型のまま撮影に臨んでいるのがよくわかります。