LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL(4)

2015-08-02 | THE 60'S CINEMA
【画像リニューアルの為、2005年7月29日の記事の再投稿】

1990年、アラン・ドロンさんがそれまで全く縁のなかったヌーヴェルヴァーグの巨匠ジャン・リュック・ゴダール監督の作品に初めて出演したことで大いに話題になった『ヌーヴェル・ヴァーグ』ですが、この作品はゴダールが撮った『太陽がいっぱい』の彼なりのリメイクではなかったかと私は個人的に感じています。

もちろんこの2つの映画のストーリーや登場人物の位置関係も全く異なります。
しかし『ヌーヴェル・ヴァーグ』でドロンさんが扮する主人公レノックスは、映画の前半と後半では同じ容姿でありながら、その中身は似ても似つかぬ別人である、という設定で、これは『太陽がいっぱい』の中で前半の「貧しい青年トム」から後半のフィリップに成りすました「金持ちトム」への変身というものを連想させられました。

前半の貧しい男レノックスは、やがて恋人エレナから軽蔑されていきます。
『太陽がいっぱい』ではマルジュがフィリップにトムをヨットから降ろしてほしいと頼む描写があり、ここにはマルジュのトムへのうっすらとした殺意のようなものが潜みますが、『ヌーヴェル・ヴァーグ』ではエレナはその殺意を具体的な実行に移し、レノックスは二人で一緒に出かけた湖に沈められてしまいます。
このときのドロンさんの湖で溺れる演技は『太陽がいっぱい』でフィリップの遺体を船から落とす際に一緒に海に投げ出されて海面をもがくトム・リプレイの姿を思い出させるものでした。

その後復活して現れた新レノックスに対して、ショックを受けながらも魅かれていくエレナの心の揺れは、あたかもフィリップを失ったマルジュのトムへの愛情の移ろいを再現したもののように思えます。

1960年当時台頭してきた“ヌーヴェル・ヴァーグ”勢力に対抗するために、ベテラン監督ルネ・クレマンがその“ヌーヴェル・ヴァーグ”の若手スタッフを登用して撮りあげた作品が『太陽がいっぱい』。
そして30年後、その“ヌーヴェル・ヴァーグ”の代表格のジャン・リュック・ゴダール監督が同じアラン・ドロンさんを主演に据えてそのリメイクを撮り、しかも題名を『ヌーヴェル・ヴァーグ』と名付ける・・・・

ゴダールの観客への問いかけ
“トムとフィリップは同じ人物であったのではないか?
全てはマルジュの夢の中の妄想ではなかったのか?”

“私ならドロンを使ってこの話をこう撮り直してみる。”

以上全て私の妄想です。
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太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL(3)

2015-07-20 | THE 60'S CINEMA
【画像リニューアルの為、2005年7月26日の記事の再投稿】

ルネ・クレマン監督のこの作品での演出は、すでにこの時点(1960年)で映画芸術のひとつの完成形と言っても過言ではないほど、完璧なものを私たち観客に見せてくれます。

特に素晴らしいのはその映像の美しさで、どのカメラ・アングルひとつ取ってみても、それぞれが一枚の絵画として十分成立する完成度です。
前半の海の描写はもとより、後半の地上の場面で出てくる数々の建物やインテリアの映像も、一度見たら目に焼きついて離れないものばかりです。

また前半のヨットで食事中“魚料理をナイフで食べるな”とフィリップに注意されたり、ヨットで寝ながらナイフでパンとハムを切って口に入れたり、魚市場のエイの顔や魚の首のアップ、フレディを殴殺したあと部屋に散乱する野菜や鶏肉の描写などなど、この作品には『食べ物』が演出の中で重要な小道具としてたびたび登場します。
これは主人公リプレイが持つ「富」に対する渇望が少しずつ満たされていく過程を、彼が口にする食物を通して映画を観る観客が同時に疑似体験できることを狙ったクレマン監督の演出の仕掛けであることがわかります。

さらに音響面では、フィリップの友人フレディをアパートで殺害した直後、リプレイが偽装工作を行う最中(チキンを食べる有名なシーンまで)、部屋の外で静かに流れているピアノの演奏の音が、不思議な効果を観客に感じさせてくれます。
このピアノの音は夜中に螺旋階段を下りながらリプレイが遺体を運ぶシーンにも一瞬流れてきます。
恐らくアパートのどこか別の部屋で誰かがピアノの練習をしているのでしょう。
目の前で2回目の殺人事件を犯してしまったリプレイの耳にはこのありふれた日常の音がどのように聞こえているのかと想像力を掻き立てられる見事な演出です。

ドロンさんは後年の自身の初監督作品『危険なささやき』の中で、ドロンさん演ずるシュカス探偵が、殺された依頼人の家を訪れて中を調べている最中に、この『太陽がいっぱい』と同じように、どこかで誰かが弾いているピアノの音が静かに流れてくるという演出をさりげなく行っています。
これは恩師クレマン監督の『太陽がいっぱい』での演出意図をドロンさんが理解し、これを忠実に再現したものではないかなと思います。

最後に主人公の寂寥感、孤独感を描写するために随所に挿入されるドロンさんが街を徘徊するシーンは、特に魚市場でのそれが大変有名ですが、その他にもマルジュの家を訪れる際に町で開かれているお祭りの列を逆向きに歩いていくシーンなども大変印象的です。
このただ“一人で歩く”だけの演技は後年アラン・ドロンさんが主演する数多くの作品の中でもたびたび登場し、ドロンさんにとっては十八番の演技となりました。
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太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL(2)

2015-06-24 | THE 60'S CINEMA
【画像リニューアルの為、2005年7月26日の記事の再投稿】

30年ぐらい前の『キネマ旬報』誌に撮影のアンリ・ドカエのインタビュー記事がありました。
それによりますと、ヨット上の撮影中、ドロンさんは船酔いが激しく、全く立っていられなかった状態でしたが、いったんキャメラが回りだすとそれまでの姿とは別人のように演技に集中して見事に撮影を乗り切ったそうです。
ドロンさんの仕事に取り組む真摯な姿勢を感じさせるエピソードです。


ドロンさん演じるトム・リプレイに船上でフィリップがナイフで刺されるシーンは、短いカットを積み重ねたスタイリッシュな演出が特徴的ですが、フィリップの口から発せられた最後の言葉はトムへの怒りの言葉ではなく、自分のわがままで傍若無人な振る舞いで去っていった恋人の名前「マルジュ」。
このフィリップという男は自ら定職につこうともせず資産家の父親の財産を自由に使いながら贅沢三昧に外国で放蕩生活を続けているという、観客からは全く共感をもたれないキャラクターですが、最後に叫ぶこの一言の台詞でさえも、彼の愚かな人間性を象徴しており、よく練られた脚本だなあと感心させられます。

リプレイがフィリップをヨットの上で刺し殺した際に、一瞬海の上に浮かぶ大きな帆船が映し出されますが、ヨーロッパでは海上で事故が起こる際には「さまよえるオランダ船」が現れるという伝説があり、この帆船の映像はこの言い伝えを観客に思い起こさせる効果をもたらした、とのことです。
そしてこの映画での帆船は、撮影当日にたまたま近くを通りかかったデンマーク王室が所有するもので、偶然にアンリ・ドカエのキャメラが捉えたものでしたが、クレマン監督はその船は幻だと信じていたそうです。
(映画評論家の山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』(ワイズ出版)における『太陽がいっぱい』についての批評文より)

フィリップの遺体を海中に放った後、船室に戻り果物を貪り食う描写は、リプレイのそれまで抑えていた激情が一気に噴出したことを表す名場面ですが、このシーンをまるで再現したかのような場面を、1985年のドロンさんの作品“PAROLE DE FLIC”の中で見ることが出来ます。
警官たちに追い詰められたドロンさん扮する元刑事が車ごと川の中に飛び込み、その後車から脱出して、川に浮かぶ他人の船に泳いでたどり着いた直後のシーンがそれです。
窓を蹴破って船に侵入したドロンさんは、雄叫びを上げながら服を着替え、そこにあったスープのようなものを勝手に飲んでしまいます。
とてもクールなドロンさんらしからぬ演技と当時は思いましたが、こうやって『太陽がいっぱい』で既にこのような演技を見せてくれていました。

故淀川長治氏は、ラストシーンで一人椅子に座るドロンさんのバックの海上に浮かぶ小さな漁船には、リプレイを迎えに来たフィリップの霊の姿が見える、と語ったそうです。
ちょっと不気味なエピソードですね。
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太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL(1)

2015-06-22 | THE 60'S CINEMA
【画像リニューアルの為、2005年7月25日の記事の再投稿】


Plein soleil (1960)

アラン・ドロンさんが世界的に有名になった代表作としてあまりにも有名なこの作品については、これまでもいろいろなブログで語り尽されていますが、改めて私なりの感想をここに書き留めておきたいと思います。

映画が始まってすぐに現れる冒頭のメイン・タイトルですが、これは007シリーズで有名になる直前のモーリス・バインダーのデザインによるもので、劇中ドロンさんが扮するトム・リプレイが得意とするサインの真似をモチーフにしながら、主要なキャストと監督の名前が画面に映し出された後、まるでろうそくの炎が噴きあがるように映画の題名である“PLEIN SOLEIL”の文字が登場し、これからのドラマの展開を不気味に予感させられます。

撮影当時24歳のドロンさんの若々しい姿は今の年齢の自分から見るといささか物足りない、というのが率直な感想なのですが、それでも24歳にしてあのような複雑な心理表現が自然にできるドロンさんの演技を観ると、それまでの人生で彼が経験してきた苦労がいかほどのものであったのかと想像せずにはいられません。そしてそのようなドロンさんの人生に対する興味がそのままトム・リプレイという人物像への観客の感情移入に直結しているところが、この作品の最大の特徴であると思います。(近年アメリカでリメイクされていますが、キャスティングを見て、これは全く別物だと認識し未見です。)

その他の主要なスタッフ・キャストの撮影当時の年齢について見てみますと、
原作パトリシア・ハイスミス39歳
監督ルネ・クレマン47歳
撮影アンリ・ドカエ45歳
音楽ニーノ・ロータ49歳
モーリス・ロネ33歳
マリー・ラフォレ20歳
Billy Kearns(フレディ役)37歳

となっており、正に脂の乗り切った年齢のスタッフと新進気鋭の俳優陣との理想的な共同作業であったことがうかがえます。
しかしモーリス・ロネがドロンさんとコンビを組んだ割にはかなり年長なのが意外です。
フレディ役の俳優になるとさらに年上になっています。
それでも映画ではドロンさんとその二人が並んでいても実際の年齢差はあまり感じません。
これはドロンさんがこの二人に引けを取らない人間的な深みを持っている為、それが外見にも表れていているからなのだと思います。
(決してドロンさんが老けているというのではありません。)
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ONCE A THIEF (1)

2011-06-07 | THE 60'S CINEMA
アラン・ドロンさんがハリウッド進出をかけてフランスを出てから、
初めての単独主演作品となった「泥棒を消せ(Once a Thief (1965)」をご紹介します。

これは現在国内海外ともビデオもDVDも発売されておらず、
ブロンディーりおな様より日本語吹き替え音声付の私家版DVDを見させていただきました。
誠にありがとうございました。

映画はドロンさん演ずる主人公の一家の崩壊を軸に進んでいくのですが、
一人娘の心理描写がまったく無視されており、ラストシーン含めて首をかしげる部分がたくさんあります。
この弱い脚本をドロンさんはじめとする俳優たちの熱演により、作品は何とか一定の水準のものになっています。
特にアン・マーグレットの演技はきわめてリアルであり、
後半の壊れた表情はニコルスン共演の「愛の狩人」に匹敵する熱演といえます。

ちょうど30歳を迎えたドロンさんの演技も堂々たるもので、
アメリカの風景にも違和感なく溶け込んでいるのが不思議にも思えます。

この作品を見ていますと後年のドロンさんの作品に出てくる様々なシーンが思い浮かんできます。
前科のある主人公を執拗に追い掛け回す刑事の存在は「暗黒街のふたり」にありますし、
同じく前科があってしかも新たな犯罪計画を持ちかけてくる兄の存在
その兄に会ったことを警察で尋問されてしらをきるところなども「暗黒街のふたり」に出てきます。
強盗現場の目撃者に犯人を当てさせるために、
警察が前に容疑者を並ばせて質問するところは「サムライ」を思い出させます。
ほかにも「ジェフ」や「仁義」「シシリアン」などの記憶もよみがえります。



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L'INSOUMIS (3)

2008-06-22 | THE 60'S CINEMA
前回のインタビューの続きです。

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Q“『さすらいの狼』はアルジェリア戦争(1954年~1962年)について描かれていますね。
この戦争についてフランス本国の映画人たちはあまり取り上げようとはしません。
たとえば数多くのアメリカの製作者たちがベトナム戦争を映画化することに取り組んでいるのに対して、
なぜフランスの映画人はこの戦争について取り上げることをいやがるのでしょうか?”

AD“ベトナム戦争は多くのアメリカ人の頭の中に現実の問題として今でも存在しているし、
あの戦争で闘って帰還した人たちは今も心に傷を持ち続けている。

一方私たちフランス人はアルジェリア戦争のことはもう忘れてしまっている。
もうあの戦争のことはどうでもよくなってしまっているんだよ。
戦争中に生まれた今の20代の若者たちはあの戦争に全く関心を示さない。
彼らの親の世代でさえ、あの戦争のことについて話しをしようとしない。
こんな状態でいったい全体誰がこの戦争について映画にしようとするだろうか?
ポール・ボンヌカレールがPar le sang verséを出版して以来
20数年近くの間、(←この部分、私の知識不足で意味不明です。)
私のこの映画も含めてすべての製作会社が失敗しているんだ。
結局アルジェリア戦争の外人部隊というテーマは観客動員には結びつかないのさ。

一方のアメリカではベトナム戦争の傷跡は今も残っている。
精神的に痛手を被った兵士たち、
父親を戦争で失い心に傷を負った子供たちが今でも何千人と存在しているんだよ。”

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ドロンさんがことさらに政治的発言をしているというわけではありませんが、
暗にフランス人のアルジェリア戦争に対する無関心を批判している言葉が出た
大変珍しいインタビューだと思います。

若いころに実際にインドシナ戦争に参加した過去を持つドロンさんとしては、
この映画の物語に恐らく当初かなりの思い入れがあったのではないかと想像に難くないのですが、
興行的な大失敗という結果を目の当たりにしても挫折することもなく、
その敗因を冷静に分析し次の仕事に向けての肥やしとしているところが
ドロンさんの常人とは異なる優れたところです。

ドロンさんはこの作品の失敗の後、さらにハリウッド進出にも失敗しますが、
この大きな試練を持前の努力で克服し、30歳代後半には見事に復活を遂げていきます。
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L'INSOUMIS (2)

2008-06-08 | THE 60'S CINEMA
『さすらいの狼』の作品に関する資料をいろいろと探しているなかで、
1989年に発刊されたフランスの雑誌“VIDEO7”誌の記事“DELON STAR STORY”
のアラン・ドロンさんへのインタビューでの貴重な発言を見つけました。
今回はその前半部分をご紹介いたします。

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記者(以下Q)“1964年にあなたはアラン・カバリエ監督作品「さすらいの狼」で
初めて製作と主演を兼任しましたね。
フランス人の俳優がこういうことをするのは当時かなり稀なことでした。
なぜあなたはこういう行動をとったのでしょうか?
映画会社からの独立を目指したからでしょうか?
それとも作品に話題性を持たせるためだったのでしょうか?”

アラン・ドロン(以下AD)“あなたが仰った二つの理由もさることながら、
私はそれまでの俳優という型を打ち破りたかったんだ。
だが結局成功するまでにはあの作品の5年後の「ボルサリーノ」まで待たねばならなかったけれどね。”

Q“あなたはこの作品の失敗をどう説明されますか?”

AD“まず初めに、そしてもっとも大事なこととして、
この映画は公開されてから最後の1週間、上映を禁止されたという事実がある。
なぜならレア・マッサリが演じたヒロインの役柄について、
「あれは私がモデルで、私から何の許可も取っていない。」
と法的に上映禁止を主張してきたある女性弁護士がいたからだ。
だが私はそんな彼女と決して和解はしなかったんだ。”

Q“今日でも「さすらいの狼」を人々が観ることのできない理由はここにあるのでしょうか?”

AD“この映画は当時封切られたものを大幅にカットしたり撮り直したりせずに、
初めのオリジナル・ネガに戻って再度編集しなおす必要が出てきたんだ。
それで私が演じたキャラクターは女性弁護士とより親密になり、
彼女と大恋愛を展開するという設定に変えたんだ。
そのため私たちは二人の親密感を出すよう台詞の録音をやり直したんだ。
もうこの話をするのはよそう。これは数々の失敗の要因のうちの一例だよ。”

Q“今ならもうアラン・カバリエ監督のフル・バージョンを公開しても問題ないのではないのでしょうか?”

AD“それはやはり不可能じゃないかな。
この映画には当時のフランで200万以上のコストがかかっていて、
資金を提供してくれたMGMは大損害を被っている。
従ってこの映画の権利は私にさえもう返ってくることはないだろう。
MGMも会社が分断されてしまったし(注;1986年MGMはタイム・ワーナーの傘下に入っている。)
ネガが手に入る可能性はさらに低くなってしまったよ。”

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このインタビューを読みますと、確かにドロンさん演じるトーマと
レア・マッサリ演じる女弁護士とが急速に接近していく過程が
やや唐突な感じがしないではありません。
彼女の自宅にトーマが姿を現す場面などはもっとちがう台詞のやり取りがあったはずの、
オリジナルの脚本によるバージョンもいつかまた見てみたいと思います。
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L'INSOUMIS (1)

2008-06-08 | THE 60'S CINEMA
1964年、当時29歳のアラン・ドロンさんが初めて映画の製作に乗り出した
記念すべき作品『さすらいの狼』をご紹介します。
http://www.imdb.com/title/tt0058232/

この作品は現在国内海外ともにDVDはおろかビデオやLDでも
一切発売されたことのない幻の作品となっています。
このたびブロンディーりおな様のおかげをもちまして
海外でテレビ放送された映像を観ることができました。

30数年ぶりに観た本作は、世間での「失敗作」という烙印が嘘ではないかと思うほど
私にとって十分にその映画的興奮を堪能することができる名作でした。
これが監督作品2本目というアラン・カバリエの緊張感のある演出、
撮影クロード・ルノワールの作り出す美しい白黒映像、
少ない時間ながらも強い印象を残すジョルジュ・ドルリューの音楽、
そして何よりも孤独な一匹狼を演じるドロンさんの熱演が見事です。

脇を固める共演俳優陣も個性豊かな面々で、
この作品のあと『高校教師』で再度共演するヒロイン役レア・マッサリ、
ドロンさんとの共演は珍しいジョルジュ・ジェレ、
ベルモンドの『相続人』の私立探偵役で印象に残る演技を見せたモーリス・ガレル、
『暗黒街のふたり』でジーノに引っぱたかれる隣人を演じたロベール・カステル
などなど、少ないながらも各自印象的な演技を見せてくれます。

物語は前半の誘拐事件から、中盤の主人公とヒロインの再会、
終盤の主人公たちの逃亡劇、というわかりやすい構成です。
公開当時、本作はあるトラブルによって内容が変更されてしまい、
興行的には失敗してしまったようですが、
(この事情については次回に記載します。)
映画はテンポ良く一気に進んでいくため、
私は特にとまどうことなく楽しむことができました。

ただしこの失敗によりドロンさんは本国フランスを捨て、
アメリカ行きに心がますます傾いていくという
おまけがついてくる結果となってしまいました。
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LA PISCINE (3)

2008-01-26 | THE 60'S CINEMA
前回の続きです。

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1968年8月、アランとロミーはラマチュール市の丘の上で再会し撮影を開始した。
パパラッチたちはこのミステリアスなカップルの復縁を待ち伏せして狙おうとしていた。
彼らは二人の愛が復活した、と大げさな記事を書いて、
まだ撮影が終わっていないうちから映画の宣伝に貢献していたのだ。
ジャーナリストたちのこれらの大騒ぎは元婚約者同士の二人にとってはお笑いであった。
彼らは今や子供たちに責任のある親であり、
二人の官能的なラブ・シーンが撮影されているプールのそばでは、
二人のそれぞれの子供であるアントニーとダヴィッドのために
まるでブルジョワ家庭のようにおやつが用意されていたのだった。

この映画の成功によってロミー・シュナイダーのキャリアは新たなスタートを切ることになった。
製作者たちや監督たちが彼女の魅力を再認識したからである。
そして翌年クロード・ソーテ監督作品『過ぎ去りし日の』で彼女は永遠の存在となるのだ。
一方のアラン・ドロンはと言えば、
『太陽が知っている』は彼の持っている苦悩する悪人のイメージが確立された作品であり、
大衆からは絶大な熱狂を持って迎えいれられることになった。
この作品の「ドロン」以降、観客たちは繰り返しこの「ドロン」を要求し、
逆にこの俳優を型にはまったものにしてしまい、
彼はたびたびそのイメージから逃れようと挑み続けることになるのだった。

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当時の撮影中の様子を紹介した動画が公開されています。
YouTube - Trailer: La piscine (1969)

この作品は音楽も少なく、比較的台詞が多い映画ですが、
字幕スーパーなしで観ても、ある程度ストーリーは把握することができます。
それは「邸内」という閉鎖された空間の中で物語が展開するという設定を、
監督のジャック・ドレーが最大限に有効活用し、
4人の俳優からそれぞれ的確な演技を引き出すことに成功したからなのでしょう。
俳優の立ち位置、動きにも工夫が凝らされ、
それを捉えるキャメラのアングルや移動にもいろいろな技巧を駆使しています。
また映画の画面の色調が、前半の「赤」「黄」を基調としているのに対して
事件が起こる後半からは「緑」「茶色」に変化していることも監督の意図が感じられます。

その監督の演出に答えた4人の演技も素晴らしいのですが、
何といってもロミー・シュナイダーの眩いばかりの美しさと
複雑な感情表現を見せきった演技の確かさは見事で、
上にも書かれているように当時の映画界の人たちから
彼女が再評価されるきっかけとなったというのもうなづけます。
映画の前半と後半とでは彼女の表情、眼の輝きが明らかに違っているのです。

この映画史に残る偉大な名女優のキャリアの再スタートのきっかけが
ドロンさんのドレー監督への一言であった、というのも
何か運命的なものが感じられ非常にドラマチックです。

ドロンさんが自ら選んだベスト5のうちの1本は
ドロンさんとロミー二人の愛と友情が刻まれた永遠の名作です。
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LA PISCINE (2)

2008-01-24 | THE 60'S CINEMA
先日ご紹介した
Emmmanuel Haymann 著
"Splendeurs et mysteres d'une superstar Alain Delon"の中に、
この作品について書かれた部分がありましたので翻訳してみました。

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この試み(ジャン・コーが演出する舞台への出演)は失敗に終わったが、
アラン・ドロンは当然の帰結としてまた映画界に舞い戻ってきた。
復帰作はジャック・ドレーが監督する『太陽が知っている』で、
この監督とはこの作品を皮切りに長期間に亘って成功作を連発することになる。
アクションとサスペンス映画のスペシャリストとして、
ドレー監督はドロンの中に彼が作り上げるスリラーを心理的に表現することのできる理想像を見出した。
ドロンは自分が演じるキャラクターに新鮮さをもたせて、
従来のサスペンス映画の殻を破って、人生のむなしさや真理を表現した。
そして観客たちはドロン演じる複雑な人間の魂の紆余曲折を目の当たりにして興奮することになるのだ。

ドレー監督「ドロンはいったん映画での彼のスタイルをよく理解すれば、
とても心地よい、そして監督するのが非常にやりやすい俳優です。
それはずっと彼がこれまで持ち続けてきた優れた能力です。
彼の前で私はいつも使っていた『指導する』という言葉を捨てました。
その言葉は出来の悪い俳優を起用するときに用いる言葉です。
プロフェッショナルといわれる人たちは自由自在に演技することができるし、
俳優としての能力ばかりでなく彼らの持つ雰囲気で監督の要求にもすぐ反応できます。
したがって彼らをコントロールできるかどうかは正に監督の手腕次第となるのです。
監督は舞台設定を考え、そこに俳優を置き、自分が引いた道の上を歩かせる。
監督は俳優たちをその気にさせるだけの存在であって、指揮はしないのです。」

アラン・ドロンはこの『太陽が知っている』において
『太陽がいっぱい』のトム・リプレイの役柄を想い起こさせる役柄を演じ、
共演者にはモーリス・ロネも含まれていた。
(彼はクレマンの映画での役柄と同じくドロンの被害者となる。)
ジェーン・バーキンは正に小悪魔的であった。
残るのは主演女優を誰が演じるかであった。
この暴力と愛欲の物語の中で、ドレー監督は官能的で同時にドロンと共犯関係ともなる
カップルを演じることのできる看板スター女優を探していた。

そしてそれはアラン・ドロンからのアイデアだった。
「ロミー・シュナイダーはいけないだろうか?」

確かに彼女は適任であった。
そして恐らく彼女に対して何かしてあげねばという責務を
アラン・ドロンは常々感じていたのであろう。
昨日まではヨーロッパの愛される少女であった彼女も、
今や人々からは忘れ去られようとしており、
逆に今日大スターとなった彼は彼女に手を差し伸べようとしたのだ。
ロミーはその2年前から表舞台から遠ざかっていた。
彼女はドイツの演劇監督ハリー・マイエンと結婚し、
息子のダヴィッドを生んで、引退同然の状態でミュンヘンに住んでいたのだ。
彼女はその家族を残して映画界に復帰するだろうか?
そしてキャメラの前で元の恋人と再会して苦い記憶を呼び戻すことはないのだろうか?
「彼女にとって僕は邪魔者ではないはずだよ。」ドロンは確信を持ってこう答えた。
「彼女は『イエス』と返事をするだろう。彼女は僕に恨みなんかは持っていないさ。」
その言葉通りドレーは彼女を説得するのに苦労することはなかった。
彼女は決して無理やり強制的にスクリーンから遠ざけられていたわけではなかったからだ。

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次回に続きます。
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LA PISCINE (1)

2008-01-21 | THE 60'S CINEMA
昨年来日したアラン・ドロンさんがご出演された番組の中で
ご自身が出演された映画の中からベスト5に上げていた内の1作
『太陽が知っている』(原題『スイミング・プール』)をご紹介します。

本作は今のところ日本ではDVDの発売はされておらず、
フランスでも久しく廃盤扱いになっていましたが、
今年の3月にプレステージ・エディションとして再発売されるようです。
Dvdfr.com - Fiche DVD

この作品は今まで単なるサスペンス物というだけで、
私の中ではあまり重きを置いてはいなかったのですが、
昨年ドロンさんがベスト5の1本に自ら選んだことから、
それが何故なのかを確かめようと見返していると、
これまでに気づかなかった本作の魅力が少しずつわかってきたような気がします。

広大なプール付の別荘でバカンスを楽しむカップルが物語の主人公で、
全編の大半がこの邸内に限定した舞台設定がまず成功しています。
そこに、彼女の元恋人とその娘が現れたことから生じる男女4人の複雑に絡みあった感情を、
時に強烈なラブ・シーンも交えながら、非常に丁寧に描いていきます。
ドロンさんとロミーとのラブ・シーンは今観ても十分官能的で、
特にロミー・シュナイダーの神々しい美貌に魅了されます。
私はこの作品を昔テレビで初めて観て、ロミーの存在を知り、
すぐに彼女のファンになりました。

やがてドロンさん扮する主人公のモーリス・ロネ演じるロミーの元カレに対して向けられた
憎悪とジェラシーが暴発して殺人事件が起こるわけですが、
このプール・サイドで離れた位置からキャメラの長回しで捉えた殺人シーンは、
モーリス・ロネの苦悶の演技が見事で、見ているこちらも息が詰まりそうになります。
殺人の直後、暗闇の上空に飛行機の音が聞こえドロンさんが空を見上げるシーンは
『太陽がいっぱい』を彷彿とさせるきめの細かい演出でした。

本作の撮影時のレポートが、当時の映画雑誌スクリーン誌の中で故田山力哉氏によって書かれています。
その中からドロンさんとモーリス・ロネ二人のインタビューの部分を以下にご紹介します。
ドロンさんの主人公に対する冷静な分析は非常に的を得ています。

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アラン・ドロン(以下AD)「二人の男女は美しく怠惰な日々を送っているんだ。
サン・トロペ近郊の素晴らしい家でね。
ところがマリアンヌ(ロミー・シュナイダー)が美貌の中年男性アリー(モーリス・ロネ)と
その娘ペネロープ(ジェーン・バーキン)をこの家に招待したため二人の平和は乱される。
輝ける成功者であるアリーは、ジャン・ポール(アラン・ドロン)を自分より劣った者として扱う。
しかも彼はかつてのマリアンヌの恋人だったのだ。
ジャン・ポールの優位に立つことに満足感を味わったとしても不思議ではないだろう。
一方僕の扮するジャン・ポールは娘のペネロープに少なからぬ関心を抱くというわけだ。」

モーリス・ロネ「全く何といっていいかわからんよ。
アランは『太陽がいっぱい』のときよりもずっと乱暴に僕を扱うのだ。
きっと彼は僕に個人的な悪意を持っているんだな。
クレマンの映画では、彼は僕の死体を船の上から海へ投げ込んだが、
今度の映画では、彼は僕をプールから出させまいとするだけでなく、
僕が死んでしまうまで僕の頭を水の中に突っ込むんだからね、ああコワイ。」

AD「だがねえ、ロネを最初に殺したときより、今度の方が残酷でないかもしれないぜ。
ジャン・ポールという男は、その時々の気分に支配される。
だから後で自分の行動を後悔するのだ。
衝動に身を任せて、後はほとんど忘れてしまう、彼はそういう男なんだ。」

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JEFF (2)

2006-07-05 | THE 60'S CINEMA
この作品でのアラン・ドロンの役どころは、
彼が得意とするいつもの「表と裏の二つの顔を持つ男」で、かつ「いつも忙しく動き回る男」ですが、
『冒険者たち』や『さらば友よ』『仁義』などでの義理人情や友情を重んじる主人公とは大いに異なり、
冷徹で、孤独で、かつ貪欲な男として描かれています。

これはあの金持ちの友人フィリップから財産の全てと恋人のマルジュを奪い取ろうとした
『太陽がいっぱい』のトム・リプレイを髣髴とさせる人物であり、
ある意味ドロンの原点とも言える役柄です。

『ジェフ』においてドロン扮する主人公ロランは、
ミレイユ・ダルク扮するヒロインのエヴァを愛してしまったがために
彼女の恋人であるジェフを殺害し、強奪した金と共にエヴァを連れて逃げようとします。
しかしその企みが皮肉にもエヴァの決意により打ち砕かれるラストは、
冬のアントワープの海岸を遠景で捕らえた映像と相俟って、
誠に切ない余韻を残します。

この映画で、ドロンは相手役にミレイユを自ら指名し、
この共演をきっかけとして二人の15年間に渡る共同生活が始まるわけですが、
この作品でのミレイユは、外見はボーイッシュでありながら、
内面は情熱的で知的かつ誠実なヒロイン像を作り上げており、
ドロンとの他の共演作品(『栗色のマッドレー』は未見ですので、除外します。)の中でも
最も魅力的に私は感じます。

映画の撮影はちょうどドロンがマルコヴィッチ事件の疑惑の渦中に行われており、
この人生最大の危機であった時期にこの作品でミレイユ・ダルクと共演し、
公私にわたって信頼関係を築けた事は
ドロンにとって幸運であったに違いありません。

マルコヴィッチ事件について書かれたいろいろな文献を読みますと
当時のドロンの交友関係のグレーさは否定のしようがありませんが、
そのような中でもミレイユがドロンを信じて影でしっかりと支え続けていたという事実こそが、
ドロンが潔白であることを客観的に証明する最大のものであると私は思っています。
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JEFF (1)

2006-07-02 | THE 60'S CINEMA
アラン・ドロンの隠れた一品、1968年作品の『ジェフ』をご紹介します。

この作品はこれまでビデオ化もDVD化もされておらず、
『栗色のマッドレー』同様、現時点では幻の作品となっています。
『さすらいの狼』に続いてドロンのセルフプロデュース作品の2本目となる本作ですが、
残念ながら公開当時、批評家や観客からほとんど評価を得られなかった作品のようです。

私自身正直言ってあまりこれまで注目したことがなく、記憶に残っていない作品でした。
ところが先日ビデオの棚からふと何気なく取り出して、よく観てみたところ、
80年代以降のドロンのあまり出来のよくない作品群と比べると、
ひとつひとつのシーンがしっかりと作りこまれており、
水準以上に楽しめる娯楽作品であったことを改めて確認することができました。

監督は『さらば友よ』のジャン・エルマン、
脚本は『ボルサリーノ』も手がけたジャン・コー、
撮影は『さらば友よ』のジャン・ジャック・タルベ、
音楽はもちろんフランソワ・ド・ルーベ、
という当時のドロンが信頼するスタッフが集められています。

物語はドロン扮する主人公ロランが父親のように付き従うジェフがリーダーとなり、
仲間を集めて宝石店強盗を巧みに成功させるシーンからいきなり始まります。
ところが数日後、盗んだ宝石を現金化して仲間たちに報酬を渡す段になって
ジェフがその場に現れなかったことから、
ジェフを信頼するロランと、他の仲間たちとの対立が発生します。
そしてジェフの愛人であったエヴァ(演じるのはミレーユ・ダルク)を連れて
再びジェフを探し出すまでが、ロランと仲間たちとの銃撃戦を交えながら
ロードームービー的に描かれていきます。

ジャン・エルマン監督の演出は『さらば友よ』の時もそうでしたが、
フランス映画というよりむしろアメリカン・ハードボイルド・タッチを目指したような
思わずはっとするようなアングルや画面のつなぎが観られ、
また随所に挿入されるベルギーの港町アントワープの街の佇まいの美しさにも息を呑みます。

特に印象に残るのは、物語前半、ボクシング・ジムで行われる仲間の一人とロランとの格闘シーンです。
拳銃を使わず、いろいろな小道具を武器にお互いが死闘を尽くすこのアクション場面は、
ドロンのフィルモ・グラフィーの中でも屈指の出来栄えであると言えます。

さらにジェフの旧友が営んでいる蜂蜜農場でのロランと敵との銃撃戦も、
その舞台設定の旨さや、撃たれた旧友が「籠を撃て」とつぶやく顔のクローズ・アップ、
敵が蜂の大群に襲われる残酷な描写などなど見ごたえ十分なシーンです。
Comments (11)
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