【画像リニューアルの為、2005年7月29日の記事の再投稿】
1990年、アラン・ドロンさんがそれまで全く縁のなかったヌーヴェルヴァーグの巨匠ジャン・リュック・ゴダール監督の作品に初めて出演したことで大いに話題になった『ヌーヴェル・ヴァーグ』ですが、この作品はゴダールが撮った『太陽がいっぱい』の彼なりのリメイクではなかったかと私は個人的に感じています。
もちろんこの2つの映画のストーリーや登場人物の位置関係も全く異なります。
しかし『ヌーヴェル・ヴァーグ』でドロンさんが扮する主人公レノックスは、映画の前半と後半では同じ容姿でありながら、その中身は似ても似つかぬ別人である、という設定で、これは『太陽がいっぱい』の中で前半の「貧しい青年トム」から後半のフィリップに成りすました「金持ちトム」への変身というものを連想させられました。
前半の貧しい男レノックスは、やがて恋人エレナから軽蔑されていきます。
『太陽がいっぱい』ではマルジュがフィリップにトムをヨットから降ろしてほしいと頼む描写があり、ここにはマルジュのトムへのうっすらとした殺意のようなものが潜みますが、『ヌーヴェル・ヴァーグ』ではエレナはその殺意を具体的な実行に移し、レノックスは二人で一緒に出かけた湖に沈められてしまいます。
このときのドロンさんの湖で溺れる演技は『太陽がいっぱい』でフィリップの遺体を船から落とす際に一緒に海に投げ出されて海面をもがくトム・リプレイの姿を思い出させるものでした。
その後復活して現れた新レノックスに対して、ショックを受けながらも魅かれていくエレナの心の揺れは、あたかもフィリップを失ったマルジュのトムへの愛情の移ろいを再現したもののように思えます。
1960年当時台頭してきた“ヌーヴェル・ヴァーグ”勢力に対抗するために、ベテラン監督ルネ・クレマンがその“ヌーヴェル・ヴァーグ”の若手スタッフを登用して撮りあげた作品が『太陽がいっぱい』。
そして30年後、その“ヌーヴェル・ヴァーグ”の代表格のジャン・リュック・ゴダール監督が同じアラン・ドロンさんを主演に据えてそのリメイクを撮り、しかも題名を『ヌーヴェル・ヴァーグ』と名付ける・・・・
ゴダールの観客への問いかけ
“トムとフィリップは同じ人物であったのではないか?
全てはマルジュの夢の中の妄想ではなかったのか?”
“私ならドロンを使ってこの話をこう撮り直してみる。”
以上全て私の妄想です。
1990年、アラン・ドロンさんがそれまで全く縁のなかったヌーヴェルヴァーグの巨匠ジャン・リュック・ゴダール監督の作品に初めて出演したことで大いに話題になった『ヌーヴェル・ヴァーグ』ですが、この作品はゴダールが撮った『太陽がいっぱい』の彼なりのリメイクではなかったかと私は個人的に感じています。
もちろんこの2つの映画のストーリーや登場人物の位置関係も全く異なります。
しかし『ヌーヴェル・ヴァーグ』でドロンさんが扮する主人公レノックスは、映画の前半と後半では同じ容姿でありながら、その中身は似ても似つかぬ別人である、という設定で、これは『太陽がいっぱい』の中で前半の「貧しい青年トム」から後半のフィリップに成りすました「金持ちトム」への変身というものを連想させられました。
前半の貧しい男レノックスは、やがて恋人エレナから軽蔑されていきます。
『太陽がいっぱい』ではマルジュがフィリップにトムをヨットから降ろしてほしいと頼む描写があり、ここにはマルジュのトムへのうっすらとした殺意のようなものが潜みますが、『ヌーヴェル・ヴァーグ』ではエレナはその殺意を具体的な実行に移し、レノックスは二人で一緒に出かけた湖に沈められてしまいます。
このときのドロンさんの湖で溺れる演技は『太陽がいっぱい』でフィリップの遺体を船から落とす際に一緒に海に投げ出されて海面をもがくトム・リプレイの姿を思い出させるものでした。
その後復活して現れた新レノックスに対して、ショックを受けながらも魅かれていくエレナの心の揺れは、あたかもフィリップを失ったマルジュのトムへの愛情の移ろいを再現したもののように思えます。
1960年当時台頭してきた“ヌーヴェル・ヴァーグ”勢力に対抗するために、ベテラン監督ルネ・クレマンがその“ヌーヴェル・ヴァーグ”の若手スタッフを登用して撮りあげた作品が『太陽がいっぱい』。
そして30年後、その“ヌーヴェル・ヴァーグ”の代表格のジャン・リュック・ゴダール監督が同じアラン・ドロンさんを主演に据えてそのリメイクを撮り、しかも題名を『ヌーヴェル・ヴァーグ』と名付ける・・・・
ゴダールの観客への問いかけ
“トムとフィリップは同じ人物であったのではないか?
全てはマルジュの夢の中の妄想ではなかったのか?”
“私ならドロンを使ってこの話をこう撮り直してみる。”
以上全て私の妄想です。