LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

A FRENCH SAMURAI IN THE MATSUYAMA CASTLE

2009-06-30 | TV APPEARANCES
松山でパーティーが行われた当日、ドロンさんは観光で松山城を訪問されました。

今回の来日にあたってはドロンさんから日本的な地方都市に行きたい、
というリクエストがあったようで
念願かなって日本の重要文化財であるこの松山城を訪れることができました。

当日は地元のテレビ局が同行取材を行っており、
ローカルニュースでこのときの様子が紹介されています。

ファンに囲まれることなく静かにドロンさん御一行はこの城を堪能できたようで
映像には当時の武器などの資料を真剣に見入っているドロンさんの姿が残されています。

まるで『レッド・サン』のゴーシュが時空を超えて江戸時代の日本にやってきたかの如く
このきわめて日本的な風景の中に違和感なく溶け込んでいるドロンさんの姿を観ますと
「前世は日本人だったかもしれない。」と若い時に仰っていたことも、
あながち彼の想像だけではないかもしれません。
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1987 KIMONO PARTY IN MATSUYAMA (3)

2009-06-28 | ON STAGE
松山の着物パーティー最終回です。

8人目の質問者

「どういう装いの女性が一番のお好みですか?」

「理想はないです。女性が女性であれば愛します。
だから人種とか国籍は関係ないです。女性らしい女性が好きですね。
着物を着ていても着物を脱いでいても(笑)」

そして最後の質問者からは、

「今までの人生で自分の信条としてどういう生き方をしていますか?」

この質問に対するドロンさんの以下の答えでこのパーティーは締めくくられます。

「まず重要なのは男は男であること。
そして子供がいることに対する父親という責任感。
さらに自分の人生を成功するためにはやっぱり人間を愛すること、
思いやりとかそういったことが大切です。」

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最後のドロンさんの言葉の中で“AIMER ET DONNER”という単語を聞き取ることができました。
特に“DONNER(=GIVE)”という単語は彼のこれまでの人生を象徴する言葉ではないかと思います。
(通訳の方は「思いやり」と訳されていました。)

ご両親から授かった(“GIVEN”)天賦の才能を、若き日に巨匠たちとの仕事の中で切磋琢磨しながら磨きあげ、今度はその自分の才能を人々に授けていく(“GIVE”)立場にドロンさんは変わっていきました。
映画を中心としたご自身の活動の場で、自分の回りのスタッフたちに仕事の場を与え、彼らとともに完成させた作品は世界中の人々に影響を与え続けてきました。

このパーティーの最後にドロンさんがこの言葉を残されたことに私は非常に感銘を受けました。
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1987 KIMONO PARTY IN MATSUYAMA (2)

2009-06-24 | ON STAGE
前回の続きです。

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この5人目の質問者の方とドロンさんのやりとりは今回の松山のパーティーでのハイライトとなります。

彼女は12歳の時からのドロンさんのファンとのことで、以前ドロンさんから贈られたサイン入りのポートレートなど3枚の写真を貼り、そこに”These are my treasures”という題字を付けた自作の大きな紙を見せながら通訳の方に向かってこう語ります。

「私は以前ドロンさんからファン・クラブを通じてここにあるサイン入りのポートレイトを送ってもらったことをとても感謝しています。
この“感謝している”という私の気持ちを(ドロンさんに)つたえてください。
そしてまたよかったらぜひ松山に来て下さい。」

通訳の方からこの言葉を聞いたドロンさんの表情が、それまでの質問者たちに対して見せてきたにこやかな表情から一転して真剣なまなざしに変化しました。
そして会場の人たちの拍手に呼応するかのように彼もマイクを脇にはさんで同じく彼女に向かって拍手をします。

そしてマイクを持ちかえたドロンさんは彼女に向かってこう答えます。

「私の方も本当に、正直に、感動しました。
というのは自分の家からこんなに遠いところまで来て、こんなに写真を集めて下さって、特に12歳のころから。
しかも“これらは私の宝物です”と書いて下さって、本当にありがとう。
本当に私は胸を打たれました。 ありがとう。」

そしてそのまま舞台を降りて彼女の所に向かったドロンさんは、彼女が持っていたその紙を改めてじっくりと見ながら彼女をやさしく抱き寄せます。

そして彼女に対して、
「あとでよければ私のスイートルームに来て下さい。これにサインしますから。本当に来て下さいね。」
と片方の手でサインをするジェスチャーを交えながら壇上に戻っていきました。
ドロンさんのやさしい言葉に会場の方々から大きな拍手が湧き起こる感動の場面となりました。

次の質問者からは2つの質問が寄せられます。

「もし俳優にならなかったら何になりたかったですか?」

「俳優でなかったとしたらスポーツ選手になりたかった。
どのスポーツをするかは決まってないけれども、スポーツが好きなので。
あるいは音楽が好きなのでピアニストになりたかった。」

「一番今まで影響を受けた人は誰ですか?」

「3人の監督でクレマン、ヴィスコンティ、そして黒澤明です。」

ここで黒澤明の名前を出したのは、日本人向けのリップサービスが含まれていると理解しておくべきでしょうか。

7人目の方からはユーモラスな質問が出されました。
「明日の朝ドロンさんと同じものを食べますので、今朝何を食べたか教えてください。」
ドロンさんはにっこりと微笑みながら答えます。
「卵2個とトースト、コーヒーのブラック、それとイチゴジャムですね。」
「はい、じゃあ明日の朝それを食べます!」

一呼吸置いたドロンさんは真剣な顔になって会場の方々に向かって語り始めます。

「ひとつ説明したい。
この四国、松山(を訪れるの)は私の人生で初めてなのです。
フランスのような遠い国からここまで来て、こんなに熱い出迎えやファンがいて下さったことは本当に胸を打たれることであって心から嬉しい。
どっちが恥ずかしいかというと私の方が恥ずかしい気持ちです。
本当に嬉しい。みなさんにもう一度お礼を言いたい。」

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ドロンさんの最後の言葉は決して社交辞令ではなく本心からのものであることは彼の表情を見ればわかります。

実際に80年代の日本でドロンさんの新作映画がロードショー公開されることは皆無に近い状態で、ドロンさん自身も70年代に熱狂的に迎えられた頃とは違うことをある程度予想(あるいは覚悟)した上での来日であったのではないでしょうか。
にも拘らずこれほどまでに熱狂的に日本のファンに、しかも東京や大阪といった大都市ではなく地方都市において出迎えられたことは彼にとっては本当に予想外でうれしかったにちがいありません。

さてパーティーの質問コーナーはドロンさんのこの感謝の言葉で終了かと思いきや、ドロンさんはまだ質問のある人はいませんか?と会場に向かって語りかけます。
次回は最後のお二人の質問者とのやり取りをお届けします。
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1987 KIMONO PARTY IN MATSUYAMA (1)

2009-06-21 | ON STAGE
以前このブログでアラン・ドロン・ブランドの着物発売キャンペーンとして開催された1987年の秋田での着物パーティーの模様を4回に分けてご紹介しましたが、
(1987 KIMONO DINNER PARTY (1)(2)(3)(4)
今回はこの同じ来日時の愛媛県松山市での着物パーティーをご紹介します。

秋田の時と同様、この松山でのパーティーもドロンさんのエンターテイナーとしての素晴らしい魅力が炸裂します。

第1回目の今回は恒例の参加者からの「質問コーナー」前半をお届けします。

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ではまず第1の質問者から。
「日本の映画に関係されてきた作品の中で一番のお気に入りはどの作品ですか?」
という質問がされますが、これには会場の人も含めてドロンさんも「?」で、それでもドロンさんは
「三船敏郎と一緒に出た『レッド・サン』1本しか撮っていないので『レッド・サン』ですね。」
と丁寧に答えます。

2人目の質問者は自分で書いてきたメモを読みながら一生懸命にフランス語であいさつをします。
彼女の発音があまりに日本語調なので会場が笑いに包まれますが、ドロンさんも彼女のメモを取りあげて中身を確認します。
するとその紙には発音が全て日本語で書いてあったようでドロンさんは大笑い。
彼女のけなげな努力を意気に感じたのでしょう。
今度はドロンさんが彼女に対してゆっくりとフランス語であいさつし、彼女ももう一度メモに目をやりながら応えます。

つづいて彼女から
「数々の映画を見せていただいたのですが、きれいな女優さんたちとのラブシーンが非常にうらやましいのですがキスのシーンは本当にキスをされているのですか?」
と大胆な質問です。

ドロンさんはそれに対して
「よく(キス・シーンを)見ましたか?観たのですか?」と逆質問で切り返し、彼女が答えに詰まっていると、いきなりドロンさんからキスのプレゼントがされて、当然のごとく彼女は撃沈です。

3人目の質問者の方からは
「10年前にパリの住所を調べて会いに行ったんですが、引っ越されていて会えませんでした。」
と言われると、ドロンさんは
「10年前にお目にかかっていれば二人で●●(通訳の声が聞き取りにくくわかりません)だったのに残念でした。」
と軽くかわします。

つづいて4人目の方はドロンさんと直接会話をするためにフランス語を勉強したらしく2人目の方と違いメモも見ずに一生懸命にフランス語で話し出します。
すると、ドロンさんは会場の空気を一瞬にして感じ取り、
「ここまであなたが仰った内容はここの日本の方にはわからないので訳してもらいますね。」
と彼女を傷つけないようにやさしく諭すように語りかけます。
そして通訳の方が彼女の言葉を訳し終えると、次に彼女は、
「あなたの香水のにおいを知りたいのです。なので私にキスをして下さいますか?」
と大胆なリクエストをフランス語でドロンさんに言います。

するとここで驚くべきことなのですが、
彼女がフランス語で語っているので意味は十分ドロンさんはわかっているはずであるにも拘わらず、通訳の方がこの言葉を日本語で訳し終えて会場が反応するまで、ドロンさんは壇上から全く降りようとはしません。
そして訳し終えて会場がどよめいた途端、舞台を駆け下りて彼女のもとに向かいます。
(ドロンさんのこういう間の取り方の見事さには舌を巻きます。)

そして汗をたっぷりかいたドロンさんは会場の方にハンカチを借りて汗を拭きながら壇上に戻っていきます。

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次回に続きます。
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ZORRO

2009-06-20 | THE BRILLIANT PHOTOS
『アラン・ドロンのゾロ』のスチールです。

この作品からの写真はいろいろな雑誌で数多く見てきましたが、
このような帽子を脱いでマスクのみのものというのは大変珍しいのではないでしょうか?


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LE PASSAGE

2009-06-19 | Dossiers de Presse
1987年のドロンさん主演ながらも日本未公開(後にビデオ発売)の作品
"LE PASSAGE"のフランス公開時のパンフレットです。

この作品はフランス本国では意外にドロンさんの久々のヒット作となったようで、
パンフレットにも観客へ作品をアピールしようとする努力の跡が垣間見れます。
それは決して宣伝文句や解説文といった言葉を駆使しようとするのではなく、
あくまでシンプルにかつ美しいデザインでもって作品の格調を高めようとする姿勢です。
その結果ご覧の通り実によく洗練された素晴らしいパンフレットが出来上がりました。

惜しむらくは肝心の作品そのものが・・・・あとは書かないことにします。

この作品でドロンさんの妻を演じているのがChristine Boissonという方で、
この女優さん、どこかで見たことがある人だなと思っていたのですが、
何と『フリック・ストーリー』でジャン・ルイ・トランティニアン扮するエミール・ビュイッソンの潜伏先で
彼を誘惑しようとして引っぱたかれる少女を演じていた方でした。

ドロンさんの抜擢のお陰で今でも現役でご活躍されているようです。
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AVEC ANOUCHKA ET ALAIN-FABIEN (3)

2009-06-18 | THE BRILLIANT PHOTOS
前回の続きです。

この日の演出は舞台裏だけではなく、何と観客全員参加だったようで、
あらかじめ公演開始前に劇場のスタッフから観客にライターが配られていました。

上の画像はカーテンコール時に観客がいっせいにライターを点火し、
ドロンさんのバースデイを祝っている様子です。

映画撮影では味わえない、この上ない喜びをドロンさんは感じたことでしょう。
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AVEC ANOUCHKA ET ALAIN-FABIEN (2)

2009-06-17 | THE BRILLIANT PHOTOS
前回から34年後の1996年11月8日、ドロンさんの61歳の誕生日の写真です。

パリのマリニー劇場にて"VARIATIONS ENIGMATIQUES"上演後のカーテンコールで
娘のアヌーシュカと息子のアラン・ファビアン君の二人が
ドロンさんにお祝いの花束を渡しに舞台の袖から登場しました。

これは当時のパートナーで二人の子供の母親であるロザリーさんの発案だったようで
スタッフもこの演出を事前にドロンさんには一切漏らさず、
二人の登場にドロンさんもことのほか感激されたご様子です。
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AVEC GABIN ET ROMY

2009-06-16 | THE BRILLIANT PHOTOS
1962年11月8日、27歳の誕生日を『地下室のメロディー』撮影中のカンヌで祝ってもらう
ドロンさんのスナップ写真です。

隣で祝福しているのは当時の婚約者ロミー・シュナイダーと
同作品でドロンさんと初共演中の御大ジャン・ギャバンです。

この3人のスリー・ショットというのも大変珍しいですね。
ギャバンのはにかんだようなやさしい笑顔がとても魅力的です。
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AVEC VISCONTI ET ROMY

2009-06-15 | THE BRILLIANT PHOTOS
ルキノ・ヴィスコンティ演出によるドロンさんとロミーの初舞台、
『あわれ彼女は娼婦』の、これはおそらく初日のカーテンコールの写真です。

見開きの片方のページに掲載されている客席の写真には、
イングリッド・バーグマンを始めとして
ウォーレン・ビーティー、ミシェル・モルガンなどの著名人の姿も見られます。

ドロンさんは昨年このパリ劇場で公演を行う予定でしたが
何らかの条件面での折り合いがつかなかったようでキャンセルされています。
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VARIATIONS ENIGMATIQUES

2009-06-14 | Dossiers de Presse
1998年にパリ劇場でドロンさんが出演した舞台
"VARIATIONS ENIGMATIQUES"のパンフレットです。

この2年前にマリニー劇場で同じ舞台をフランシス・ユステ共演で主演したドロンさんでしたが、
今回共演者と劇場を変えて再び熱演を繰り広げたようです。
私は残念ながらどれも観ておりませんが。

パリ劇場といえばルキノ・ヴィスコンティの演出で、
当時の婚約者ロミーと共演した
『あわれ彼女は娼婦』で演じて以来の出演ということで、
パンフレットにはそのロミーとのスチール写真が掲載されています。
そしてこれ以降のドロンさんの舞台のパンフレットには
必ずこの写真が掲載されていきます。

左下のドロンさんの姿はなんとなくレッドフォードに似ているように見えます。
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PARIS MATCH 20/11/2008 (2)

2009-06-13 | INTERVIEW
PARIS MATCH 20/11/2008 (1)の続きです。

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【ドロンは時にドロンに圧倒される...】

極上のワインのようなドロン王朝の中で、アンソニーは年齢とともに進化していた。
"アンソニーを見ていると自分のことを想い起こさせるんだ... "

44歳になったアンソニーは、現代の映画監督たちから興味をもたれている。
彼はSteve Suissa作品の撮影に参加する予定だ。

そして彼は自分の父親との共演を望んでいる。
だがそれはかなりのリスクを伴うものだ。
アランは言う "我々は良いスクリプトを見つけなければならない。
問題は、我々二人が同じポスターに名前を連ねるということだ。
きっとプロデューサーたちは一石二鳥を狙おうとするだろうな。
だが私は内容が濃い作品を作りたい。
スクリーンに映るアンソニーはまるで私のようだ。
私と同じようにカリスマ性があるし、毅然とした物腰も私に似ている。"

アランは何を言ってもやさしく魅力的だ。

さらにこの素晴らしいアランはまもなくひとりのサムライと対決することになっている。
そのサムライの名は北野武!
北野は、日本のヤクザ映画の監督であり、また俳優として鉄のマスクをもちながら、
同時にとても心をかき乱すようなブラックユーモアのセンスも併せ持っている。

話題はまたAnouchkaに戻っていく。
" Eric Assousが私たち父娘のために二人が共演する舞台の脚本“Une journée importante”を書いてくれたんだ。
それで娘はいよいよこの仕事に取り組み始めたよ。
私たちは皆自分に流れている血を意識して歴史は繰り返していくんだ。... "
 
もともと彼女はオランダ人の自分の母親ロザリーのようにジャーナリストになりたかった。
だがアランの夢はカーク・ダグラスのように、俳優の子孫を残すことだ。
14歳のアランファビアンについても、すでに7歳のときにFabio Montaleで父と共演している。
彼もいつかは映画のポスターの一番上に自分の名前が乗ることを夢みている。

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この記事は7か月前のものですので、記事中にある北野武とのプロジェクトというのは
今もって特に情報が出てこないことから察しますと恐らく流れたのかもしれません。
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1962 IN PALERMO

2009-06-13 | THE BRILLIANT PHOTOS
1962年イタリアのパレルモ島でのドロンさんのスナップです。
ドロンさんにしては珍しくふざけたポーズをとっています。
ロミーとの婚約時代のドロンさんにはこういう屈託のない少年のようなフォトが多いですね。
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MARCO POLO (2)

2009-06-10 | THE BRILLIANT PHOTOS
未完成作品『マルコ・ポーロ』スチールの続きです。

前回は主人公の故郷ベニスのロケ撮影でしたが、
今回は歴訪したアジアの国々をイメージしたスタジオ・セットでのスチールです。
予算オーバーで頓挫したのが納得がいく当時としては大規模なセット撮影だったことが推察できます。

しかしドロンさん、若いですね~

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MARCO POLO (1)

2009-06-09 | THE BRILLIANT PHOTOS
資金難により撮影中止となったドロンさんの幻の主演作『マルコ・ポーロ』のスチールです。
(1962年ラウール・レヴィ製作、監督は『黒いチューリップ』のクリスチャン・ジャックで、
後に『荒野の7人』のホルスト・ブッフホルツ主演で再開されています。)
La fabuleuse aventure de Marco Polo (1965)

ベニスの商人マルコ・ポーロがアジアに向かって旅するストーリーと思われますが、
この写真はそのベニスでのロケ撮影の様子です。
ドロンさんはこのかなり危険なシーンをスタントマンなしでこなしています。
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