LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

Paris Match No 3763 17 juin 2021

2021-07-04 | INTERVIEW

前回の投稿でご紹介しましたように、7月1日にフランスのテレビ番組でドロンさんは劇的に復活しました。

日本では来週14日の21:55から『世界的スター アラン・ドロンのすべて EMISSION SPECIALE』と題してTV5モンドで字幕付きで放映されます。https://apac.tv5monde.com/ja

放送時間は72分とのことですので本国と同じものと思われます。

2年前のカンヌ映画祭出席前後では常に髭を蓄えて登場されていましたが、今回はさっぱりと髭を剃っており、個人的にはこちらのほうがドロンさんらしく若返ったような感じでいいなと思います。

番組内のインタビューの内容がそのまま掲載されているパリマッチ誌も、いつもより時間がかかりましたが、先日ようやくこちらに届きましたので、今回は記念すべき放映前に1ページ目だけ翻訳しましたのでご紹介します。

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パリマッチ(以下PM):あなたは2年前の6月10日から11日にかけての夜に脳卒中を発症し生と死の狭間を行き来しました。
そのときのことについてどのような記憶をお持ちですか?

アラン・ドロン(以下AD):あれはその日の午後7時20分でした。
私は急に気分が悪くなったので救急車を呼んで病院に運んでもらいました。
その時なぜそこにいたのか、何を持っていたのか正確には覚えていません。
私は寝かされていました、ただ何も感じていませんでした。
後になって初めて自分が脳卒中を発症していたことを知りました。

PM:周りにいた医師たちやあなたの愛する家族たちはあなたが死んでしまうのではと思っていたのではないでしょうか?

AD:いえ、私はそう簡単には死ぬことはありません!

PM:何があなたをここまで回復させたのでしょう?
あなた自身の意志の力でしょうか?

AD:主よ、と私たちは天国にその答えを尋ねなければいけませんね!
私は人生でたくさんの困難な事態に直面してきましたが、今回ほどのことは初めてでした。
さあ、どうしてなのか私にはわかりません。
私は確かに何の治療方法も知りません。
ただ何よりも私自身の体質のおかげなのでしょうね。以上!

PM:あなたはご自身の体質を信頼していらっしゃいますか?

AD:はい、ずっと以前からすごくね。そして、私はもうすぐ86歳になります。

PM:今日、あなたが松葉杖を使わずに、このドゥーシーの庭を歩いているのを見ることができたことは大変素晴らしいことです…

AD:でも私だけが特別だということではありませんよ。
ほかにもたくさんの人が回復しています。
私は治療のためにいろいろなことを試すようなことはしませんでした。
自分がそうしたいと思う方法だけを行ってきたのです。それが全てです。
私の伴侶である日本人のヒロミは、私が回復するまでの間ずっと側に付き添ってくれていました。

PM:アラン・ドロンが帰ってきますね?

AD:そのとおりです。
あなたは困りますか?(笑)
帰ってきたら困る人たちをいやがらせてやりましょうよ!

PM:あなたはまだ自分のことを若いと感じますか、アラン・ドロン?

AD:私の気持ちも体もそうですね。

PM:あなたはまだやりたいことがありますか?

AD:はい、映画を撮影したいと思っています。
私は映画を作りたいのです。
すなわち私にとって特別な最後の映画を撮りたいと思っています。
永遠に人々の心に残る映画です。
そうすれば、いずれ私がこの世を去る時でも、もう私には他に何もするべきことはないでしょう。

PM:プロジェクトは進んでいますか?

AD:私はいくつかのシナリオを持っています。
どれにするかを選ばなければなりません...
この作品は特別なものでなければなりませんし、優秀な監督にお願いしたい。
ほら、ジャン・ギャバンがこう言ってたでしょう?
「映画の良しあしを決めるのは一にシナリオ、二にシナリオ、三にシナリオだ。」とね。

PM:あなたはその作品を誰が実現できると考えていますか?

AD:必ずしもそうとは限りませんが、最後の作品は女性の監督に撮ってもらいたいと考えています。
私はリサ・アズエロス監督といつか一緒に仕事がしたいといつも夢見ていました。
彼女もそのことは知っています。

PM:そして俳優アラン・ドロンもこの映画で並外れたものでなければなりませんね...

AD:それについてはご心配なく(笑)

PM:あなたが脳卒中に倒れたのは、私たちの生活をひっくり返した今のコロナ・パンデミックが起こる前夜でした。
このことはあなたの気力に何か影響を与えましたか?

AD:当時私はそのことを知らないまま生きていました。
(昨年11月)85歳を迎えて初めて知りました。そのとき私は独りつぶやきました、なぜこんなことになったのだと。
それは、エトワール広場に侵攻してきたナチスドイツ軍の光景よりもさらに悪いものです。
その当時の私たちは相手が誰であるかを知っていたので、自分たちが誰と戦っているかを知っていました。
ところが今のこの敵の存在について私たちは誰も知りません。
人々は死ぬまで待つしかないのでしょうか...

PM:このようなウイルスが世界を襲う可能性があると想像していましたか?

AD:まったく想像していませんでした。
私はひどい出来事だと思いますし、世界で起こっているすべてのことは絶対に忌まわしいことです。
その上、私はこのパンデミックがどこから来たのか、誰が持ち込んだのかを正確に知りたいです。
犯人の首を絞めてやりたいからです。(笑)
中国人か、日本人か、ロシア人か、さっぱりわかりません。
誰もそのことを言うことはありません。

PM:あなたの意見では?

AD:いろんな人が、あっちから来た、いやこっちから来たと言っていますが、私は知りません。
このことが私たちに起こったのは初めてなので、いつか真実が判明することを願っています。

PM:衛生対策、相次ぐ隔離政策は文化の世界を止めさせました。
あなたは60年のキャリアを持っていますが、このようなシナリオを想像したことはありましたか?

AD:決してありません。
定められてしまったがために文化が犠牲にされています。
恥ずべきことです。
私は政治家を非難します。
もしその政策が単なる恐れからであり、病気にはならないのであれば、私の意見では、すべてを止める以外にやるべきことがあったはずです。

PM:フランス政府はCovidに対する大規模な予防接種キャンペーンに着手しました。
あなたはこれに対して自ら希望して早く予防接種を受けましたか?

AD:その政策については私を全く気にせず、私の意志にも反しませんでした。
私の希望は自分自身を守ることでした、それだけです。
そして、2週間後に2回目の注射をします。

PM:あなたはあなたの世代のすべての人々だけでなく、若い人々にもワクチン接種を受けるように促しますか?

AD:はい、このウイルスに決して感染しないようにしてください。

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コロナウィルスに侵された今の世界の状況と閉ざされてしまった「文化」についてドロンさんの率直な生の言葉を聞くことができ、おそらく世界中のアーティストたちが彼の言葉に勇気づけられることと思います。

また脳卒中で倒れてから今日に至るまでのドロンさんの思い、日本人のヒロミさんという伴侶の存在を初めて公にしたこと、最後の映画作品を撮る予定があること、その監督には亡くなったマリー・ラフォレの娘で『ダリダ』の監督でもあったリサ・アズエロスを指名するなど、新鮮な情報満載でした。

インタビューの続きは14日の本放送をこれから待ちたいと思います。

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Paris MatchN° 3563 du 31 août 2017

2017-09-01 | INTERVIEW
パリマッチ誌最新号Paris Matchにドロンさんのミレイユの死に関するインタビューが掲載されて、その一部が以下のリンクで紹介されています。

Alain Delon : "Mireille Darc était la femme de ma vie, ma moitié"

今回はそのインタビューを翻訳しましたのでご紹介します。
訳していてとてもつらいインタビューでした。

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ミレイユ・ダルクが死去した数時間後、アラン・ドロンはジャーナリストValérieTrierweilerに打ち明けた。

「私は彼女がもう苦しんではいないんだと自分に言いきかせたよ。
彼女は、苦しんでいた、とても苦しかっただろう。
今は残された者が苦しんでいる。
私はとても傷ついている!
彼女はそれほど私の人生に大切な人だった... 」

彼女の声はもう聞こえてこない。
彼女は嗚咽するように息を引き取った。
アラン・ドロンはその瞬間、壊れた男となった。
彼はこの二十四時間、ミレイユ・ダルク、彼のミレイユがもうこの世にいないことを知った。
数ヶ月間彼はこの瞬間を恐れていた。
この数週間、彼は人生で最悪の判決に対する自分自身の心の準備をしようとしていた。

「35年前にロミーが逝った。そして今度はミレイユだ。
そして、Simone(Veil、今年の6月30日に死去)。

もうこれで十分だよ。 」

金曜日の夜から土曜日にかけてドロンはドゥーシーの別荘を出てパリへ再び向かいミレイユの人生が終わろうとする最後の息を感じた。
彼は彼女の手を取って、彼女の耳のそばで彼女に話しかけた。

「彼女の手首はとても細くなっていた、彼女はとてもやせ細っていた...私は彼女にキスをした。」

「彼女は私の人生の女性でした。
私たちは一緒にいるととても幸せで、すべてが満足だった...
私たちはすべてを持っていて、彼女は私にとってすべてだった。
私たちは二人とも俳優であり、共演することができて幸せだった。
でももし私たちが美容師だったとしても、一緒にいれば同じように幸福を経験していただろう。
彼女は私の半分だった。
私たちは互いに何も尋ねなくとも理解できた。お互いを補い合っていたんだ。」

「(彼女が亡くなったのが)40歳の頃ではなくて今の年齢で良かった。
彼女のいなくなった人生をもうこれから長い年月苦しむことはないだろう。
少なくとも、彼女も、もう苦しむことはない。
彼女は安らかに眠った。
彼女がいなくなれば、私も旅立つことができる。」

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アラン・ドロンさん映画新作を語る(1)

2017-05-11 | INTERVIEW
ドロンさん引退というニュースが昨日発表されましたが、それに先立って5月6日にベルギーの映画祭に出席されたドロンさんとジャーナリストのFabienne Bradfer氏とのロング・インタビュー記事が以下の「Le Soir」誌のサイトに掲載されていました。(現在は見れなくなっています。)

Alain Delon: «J’ai eu une vie fabuleuse mais pas forcément celle que j’aurais voulue» - Le Soir Plus

今回はその中から一部翻訳しましたのでご紹介します。

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Fabienne Bradfer(以下FB);私はちょうど日本への旅行から戻ってきたところなんです..

アラン・ドロン(以下AD);だったら私が誰だかわかりますね!

FB;あなたが誰であるかを知るためにわざわざ日本に行く必要はありませんよ。
ですが日本ではあなたはいまだに神様のように考えられていましたよ。

AD;私はそれがなぜなのかわかっています。
50年前、外見的に私は彼ら日本人の理想の男性でした。彼らにとっての白人の理想像がアラン・ドロンだったのです。
私のような服装や髪形をした日本人を当時何人か見ました。
私は最初それがなぜなのかわかりませんでしたが、後になって映画『太陽がいっぱい』がその理由であることがわかったのです。
太陽の帝国(=日本)では、この映画と主演俳優は天からの啓示でした。
このルネ・クレマンの映画と日本人との間に何か特別なことが起こったのです。
映画のタイトルも良かった...それは1960年にさかのぼります。おわかりですか、57年も前の出来事なのですよ!

FB;そして、あなたの名声は今も色あせていません!

AD;今はもう昔ほどではありませんが、当時の日本での私は特別な存在であったことは確かです。
ほぼ毎年のように日本に行って、私はとても信じられないほど歓迎されました。
まるで王様が上陸したような感じでした。

FB;あなたは母国のフランスではそのような関係ではありませんでしたね...

ADそれは全くちがっていた、実際にね!
誰も自分と同じ国の人間を預言者とはみなしません、フランスでは特にその傾向が強いです。
自国の人間が他の国で喜ばれるということはフランスの人々を困惑させるのです。
彼らはこう言いました。
「確かにあいつはあまりにもハンサムだ、だが性格は良くない、いけ好かない野郎だ。」とね...

FB;そういったあなたに対する理解のないフランスの人々に悲しまされましたか?

AD;はい。当時の私は日本でのような神がかった人気を(フランスで)欲したわけではありませんでしたが、それでももう少し理解はしてもらいたいと思っていました。
でも今の私はキャリアのおかげで当時よりはより理解はしてもらっています。
それはおそらく、私が今もここに存在しているからでしょうし、私がこれまで出演してきた映画が否定されるようなものではないからでしょう。
しかし、私が栄光の絶頂にいた時でさえ、周りからの特別な嫉妬心を感じました。
彼らはこう言ってました。
「奴は確かに美しい、だけど奴はペテン師だ、とかなんとか。」、私はあまりにも、あまりにも、あまりにも(ひどいな)と感じました...

FB;しかし、セザール賞アカデミーがあなたに名誉賞を授与するとなったら、きっと素晴らしい時間となることでしょう、そう思われませんか?

AD;私の友人でセザール賞の創始者であるGeorges Cravenne,が亡くなって以来、私はセザール賞については忘れることにしました。2000年に、舞台の上で彼にセザール名誉賞を与えたのはこの私です。

FB;明日もし、セザール・アカデミーがあなたに名誉賞を授与するとなったらどうします?

AD;私は拒否することはできませんが、そうならないことを願っています。

FB;1960年の「太陽がいっぱい」から2008年に公開された「アステリックス、オリンピックに行く(日本未公開)」まで、あなたのフィルモグラフィーは驚異的です...

AD;そのことは私も意識しているし、本当にうれしい。
フランスでは、過去の話ばかりしている者のことを愚かな老人と呼びます。
だからあなたがもし、あれは今とは全くかけ離れた別の時間、別の映画だったなどと言ったならばあなたは愚か者扱いされます。
しかし、それは真実なんです。私が経験したことは今とは全く違う別の時間、別の映画でした。
映画に精通している人はそのことをよく知っています。

(次回に続きます。)

原文はこちらです。

Je reviens d’un voyage au Japon…

Alors vous savez qui je suis !

Je n’ai pas besoin d’aller au Japon pour savoir qui vous êtes mais effectivement, au Japon, vous êtes toujours considéré comme un dieu vivant…

J’ai compris pourquoi.
Il y a cinquante ans, physiquement, j’étais leur idéal.
Quand ils se rêvaient blanc, ils se rêvaient comme Alain Delon.
J’ai connu des Japonais qui se coiffaient comme moi à l’époque, avec la mèche.
J’ai voulu savoir pourquoi et en fait, ça remonte à Plein soleil.
Dans l’empire du Soleil Levant, le film et l’acteur du film ont été une révélation.
Il s’est passé quelque chose de particulier entre le film de René Clément et le peuple japonais.

Peut-être à cause du titre… Ça remonte à 1960. Vous vous rendez compte… Ça fait 57 ans !
Et votre nom ne ternit pas !

Ça change un petit peu mais c’est vrai que j’ai fait des choses extraordinaires là-bas. À l’époque, j’y allais quasiment tous les ans et j’étais accueilli de façon incroyable, j’avais l’impression d’être le roi qui débarquait.

Vous n’avez jamais eu ce rapport-là avec la France…
Pas du tout le même, effectivement !
Nul n’est prophète en son pays et cela se vérifie très fort en France.
Tout ce qui plaisait dans le reste du monde agaçait en France. On disait : il est trop beau, il a un sale caractère, il nous emmerde…

Ça vous a attristé de ne pas avoir cette reconnaissance ?

Oui. Je ne voulais pas la reconnaissance quasiment mythique que j’avais au Japon mais j’aurais quand même aimé avoir une certaine reconnaissance.
Je l’ai plus maintenant que pendant ma carrière.
Parce que, sans doute, je suis toujours là et qu’on ne peut nier les films que j’ai faits.
Mais à l’époque où j’étais en pleine gloire, j’ai senti une certaine jalousie.
On disait : « oui, il est beau mais il est con, etc. ». J’étais trop, trop, trop…

Il serait pourtant grand temps que l’Académie des Césars vous remette un César d’honneur ne pensez-vous pas ?

J’ai décidé d’oublier les Césars quand mon ami Georges Cravenne, créateur de la cérémonie des Césars, est mort. C’est moi qui, en 2000, lui avais remis sur scène son César d’honneur.

Mais si demain, l’Académie vous honore, vous dites… ?

Je ne peux pas refuser mais j’espère qu’on ne me le proposera pas.

De « Plein soleil » sorti en 1960 à « Astérix aux jeux Olympiques » sorti en 2008, votre filmographie donne le vertige…

J’en suis conscient et vraiment heureux.
En France, on me traite de vieux con, il ne faut pas parler du passé.
On vous considère comme un imbécile si vous dites que c’était une autre époque et un autre cinéma.
Or, c’est la vérité.
Ce que j’ai vécu était une autre époque et un autre cinéma.
Ceux qui connaissent bien le cinéma le savent.


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In Georgia (5)

2015-02-21 | INTERVIEW
前回の英語訳を日本語に訳しましたのでご覧ください。

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「私は今回初めてグルジアに来ました。今までずっと招待されたことがなかったので、遅すぎますね。」

「私はグルジアについてはほとんど知りません。メンズ・ワールド·アワードでゴルバチョフと一緒にシェワルナゼ大統領とお会いした思い出はあります。」

「私はVazha Pshavelの詩を読んだことがありません。グルジア語は読めないのです。」

- なぜPaata Burchuladzeの誕生日のコンサートの招待を受け入れたのですか? -

「たくさんの美しい女性たちと出会えるからですね。」

- あなたはグルジアの映画を知っていますか? -

「私は知りません。」

- あなたの人生にとってのオペラとは何ですか? -

「ヴィスコンティからずっと昔にオペラのことを教えてもらって以来、オペラは非常に好きです。」

「ヴィスコンティは、マリア·カラスの主演で、いくつかのオペラを演出していました。」

- 成功の秘訣は何ですか? -

「自分自身が本当にしたいことをするべき、ということですね。」

- どの映画の役があなたは一番好きですか? -

「『太陽が知っている』『山猫』『サムライ』『暗黒街のふたり』そして『若者のすべて』ですが、全体的にはすべての役柄が好きです。」

- あなたの出演した映画の中で最も大切な監督は誰ですか? -

「ルネ・クレマン、ジャン・ピエール・メルヴィル、そしてヴィスコンティです。」

- なぜあなたはアメリカに住んでキャリアを続けなかったのですか? -

「確かに私はアメリカが非常に好きですが、私の故郷はフランスだからです。」

- 娘のアヌーシュカについてはいかがですか? -

「私は舞台で自分の娘と一緒に役を演じることができたことをとても誇りに思っています。」

- あなたの外見が、役を選ぶうえで助けになったこと、あるいは邪魔になったことはありますか? -

「コメディーの役を演じることが最も苦手でした。」

- 女性について -

「私は人生の中でたくさんの女性と過ごしましたが、今は誰もいません。私にとって最も重要な女性はロミーでした。」

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質問に対するドロンさんのお答えの内容はこれまで他のインタビューで語ってこられたものを思い起させるものでした。

今までの発言と異なる点を強いて挙げるとすれば、好きな自分の作品のリストを聞かれて答えたときに、
これまでの『高校教師』『太陽がいっぱい』が抜けて『若者のすべて』『サムライ』が入っていることでしょうか。
しかしながら、要するに全部好きだ、と最後に締めくくっていらっしゃるので、まあそういうことなのでしょう(笑)

尊敬する監督の名前もいつもの3人に変わりありません。
ドロンさんがプロデューサーとしての立場から起用した監督たち、ジャック・ドレー、ジョゼ・ジョバンニ、ジョセフ・ロージーやジョルジュ・ロートネルらは、
「尊敬する」というより一緒に仕事をしてきた「仲間」、あるいは「同志」といった別の思いがあるのかもしれません。
そういうところもさらに突っ込んで質問していただきたかったですね。

「自分のやりたい仕事をすることが成功の秘訣です。」と仰っていますが、
これも2007年にSMAPXSMAPにご出演されたとき、木村拓哉さんとのやりとりの中で同じようなことを語っていらっしゃいましたし、
「たくさんの美しい女性たちと出会えるから」というしゃれっ気のある言葉も、前述のビストロスマップの中で何回か発言されていました。

そんな"女性大好き"なドロンさんではありますが、
最後の「私にとって最も重要な女性はロミーでした。」というお言葉には、ロミーへの深い愛情が伝わってきて感動させられます。

これらの首尾一貫した変わりの無い姿勢こそがドロンさんの最大の魅力ですね。
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CAHIERS DU CINEMA Avril 1996 No,501

2013-04-14 | INTERVIEW
【2007年6月記事の再投稿 画像と本文差し替えの為】

アラン・ドロンさんが60歳の時に受けたロング・インタビューが掲載されたカイエ・デュ・シネマ誌の表紙です。
最近になってようやくこの書籍を購入することができました。
ここでは計15ページにも亘ってドロンさんのキャリアを彼自身の言葉で総括している大変貴重な特集が組まれています。

この長編インタビューをVirginie Ledoyen et le cinma franais様が2007年に以下の記事で計10回に亘って完璧に翻訳されています。
         ↓
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その1
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その2
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その3
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その4
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その5
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その6
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その7
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その8
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:その9
Virginie Ledoyen et le cinema francais - 回想するアラン・ドロン:最終回

私もこの記事に刺激を受けてこれまでいくつかドロンさんのインタビューを翻訳してきましたが、
未だにこの域に達することは出来ていません。質量共に大変素晴らしいお仕事です。

たくさんの記事の中にこの貴重な記録が埋もれてしまうことないよう、改めましてここにご紹介させていただきます。
全国のドロンさんのファンの皆様、どうぞごゆっくりとお楽しみください。
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Télé 7 Jours interview "FABIO MONTALE"

2012-05-21 | INTERVIEW
『アラン・ドロンの刑事物語』がフランス本国で放映される直前のこの作品に関するインタビュー記事を翻訳しましたのでご紹介します。
原作とドラマとの違いなどこれまで知らなかった興味深い情報がドロンさん自身の言葉で語られています。
添付の画像はこの記事の写真ですが、ドロンさんが手にしているのは3部作である原作本のうちの第3話"Solea"です。

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Télé 7 Jours(以下T7J):なぜ12年も経ってふたたびテレビの仕事に戻ってこられたのですか?

アランドロン(以下AD):私はこの前28年ぶりにエリック=エマニュエル•シュミット原作の "謎の変奏曲"で舞台に復帰した。
そしてTF1のミニテレビシリーズの『シネマ』からもう12年間が経ったんだけれどもこの作品がとても好きだった。
私はいろいろなことができる一人の俳優だ。
と同時に時代とともに変わっていかなければならないこともよくわかっている。
今世紀はテレビの時代になるだろう。

T7J:どのように今回のテレビ映画のアイデアが生まれましたか?

AD: Guillaume de Verges (TF1の第3ディレクター)から私に2年以上前から刑事の役を演じてみませんかと依頼があったんだ。
それで私はこう答えたんだ。
"私はストーリーさえ良ければ、あなたが言うように警官でも、偉大なボスでも、あるいは弁護士でも演じることができるよ。"とね。
そうしたら数ヵ月後に彼は私にジャン=クロード•イゾー原作の『ファビオ・モンタル』の三部作を知っているかどうか聞いてきて、私は"ノー"と答えた。
それですぐに私はこの本を読んで主人公とそのテーマに魅せられたんだよ。
当時フランスTF2がこの小説の第2話の映像化の権利を持っていたんだけれども、私は3作全部でなければ撮影したくなかった。
それで TF1はTF2と契約を交渉してくれたんだ。

T7J :あなたは"ボルサリーノ"を製作した時のように、ご自身で原作の権利を買うことをしなかったのですか?

AD:私は24年間映画のプロデューサーだった。
しかしテレビは私の仕事ではなかった。
私は自分自身が分からないことに首をつっこむことは好きじゃないんだ。
テレビを共同制作するとなるとその権利関係は非常に複雑だからね。
でも、私はジャン•ピエール•ゲランと一緒に海外への配給には協力するつもりだよ。

T7J:あなたはファビオ・モンタルをどう演じますか?

AD:彼は型にはめることのできない警官で、アナキストの左翼主義者であり、体が弱く、人生に幻滅し、
高価ではないけどうまいウィスキーを愛していて、しかも女たらしの男だ。
そういう点では私とは違っている。
だが昔はならず者だったに違いないデカのモンタルを演じるのは正に私の仕事だ。

T7J:舞台はマルセイユ、あなたがよく知っている都市ですね。

AD:マルセイユという街、街の雰囲気すべて、それは私のキャリアの一部さ。
『ボルサリーノ』や『仁義』をはじめ6つのフィルムをここで撮影した。
リールを舞台にした警察小説のDutruだったら、私はこれほど惹かれなかっただろうね。

T7J:モンタルはイタリア出身ですね。それもあなたが演じる大きな理由でしょうか?

AD:私にとっては確かにそうだ。
私はコルシカ島の出身だが、手を使って自分を表現する方法だったり、すぐカッとなるところはラテン的なものさ。
私のキャリアはイタリアで始まった。私の人生はここで始まったと言ってもいい。
私はアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』の後、フランスに帰ってきたんだ。
『若者のすべて』『山猫』をヴィスコンティと、ルネ・クレマンとは『太陽がいっぱい』を撮り終えてね。
私にとってフランスとイタリアとの間に国境はないよ。

T7J:ジャン=クロード・イゾーの原作では第3話で主人公は殺されてしまいます。テレビ版でも同じ結末なのでしょうか?

AD:モンタルは警察や司法がそれぞれが互いに関係しているという裏のシステムを知ってしまったので消されてしまう。
モンタルは50歳で全ての仕事から引退を宣言し、残りの人生は釣りをしながら過ごしたいと考えていた。
つまり早期退職だね。
結末はモンタルが生き残ることになる以外は全て原作と同じだよ。
こうすることで彼がまた新たな活劇に戻ることができるようにドアを開けておくんだ。

T7J :あなたは一般的に映画の最後で死ぬのが好きですね。

AD:そうだね。それこそがヒーローだからさ!死は最高の役割を与えるんだ。
『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ)や『ポーカー・フェイス』(ジャック・ドレイ)、
『暗黒街のふたり』(ジョゼ・ジョヴァンニ)のイメージは強烈だし皆忘れられないだろう。

T7J:最初の脚本はあなたは気に入らなかった、それであなたはフィリップ・セボンに再び依頼したんですよね。どこが変わりましたか?

AD:脚本と私が頭で考えていたイメージとの間に、大きな隔たりがあったんだ。
最初のバージョンでは、モンタルは病気がちで家でいつもくつろいでいて、心を閉ざした警官だった。
カリスマ性がないんだ。それは車椅子に受刑者を縛り付けて歩かせようとしているようなものだった。
フィリップ・セボンは、主人公に光を与え、ヒーローの資質を与えたんだ。

T7J:それでは続編があるということでしょうか?あなたはTF1専属の警官になるのですか?

AD:モンタルはナバロではない。
いやこれは決して友人のロジェ・アナンを軽蔑的に言っているのではないよ。
私は定められたコースを歩くことができない男だ。
だが、私は自分の進むべき道がわかっている。私はテレビからすべてを学ぶ準備ができているが、その悪い点も知っている。
昔の人々はいつも映画を見に行って、テレビは時たましか見なかった。
現代では全く逆になっているからね。

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Télé 7 Jours : Pourquoi avoir attendu douze ans pour travailler de nouveau pour la télévision?

Alain Delon : De même que j'ai attendu vingt-huit ans pour remonter sur les planches (« Variations énigmatiques », d'Eric-Emmanuel Schmitt),
il se sera passe douze ans depuis la série « Cinéma », pour TF1 - avant qu'un personnage m'intéresse et me plaise vraiment.
Je suis un acteur de cinéma qui peut faire autre chose.
Je suis aussi conscient qu'il faut vivre avec son temps.
Le troisième millénaire sera celui de la télévision.

T7J. : Comment est née l'idée de ces téléfilms?

AD : Guillaume de Verges (numéro 3 de TF1, directeur des programmes) m'avait demandé il y a plus de deux ans si j'aimerais tourner un rôle de policier. J'ai répondu :
« Je peux incarner un policier, un grand patron, un avocat, ce que vous voulez à condition que l'histoire me passionne. »
Il m'a rappelé quelques mois plus tard pour savoir si je connaissais la trilogie des Fabio Montale de Jean-Claude Izzo.
J'ai dit « non ». Je les ai lus et j'ai été séduit par le personnage et le sujet.
France 2 détenait les droits du deuxième roman, je voulais tourner les trois ou rien.
TF1 a négocié l'affaire.

T7J : Vous n'avez pas été tenté d'acheter les droits des livres vous-même, comme vous l'aviez fait pour « Borsalino » ?

AD : J'ai été producteur de cinéma vingt-quatre ans.
La télévision, ce n'est pas mon métier. Je n'aime pas m'improviser ce que je ne suis pas.
La production-coproduction télé, c'est très compliqué.
Mais je serai associé pour la distribution mondiale avec Jean-Pierre Guérin.

T7J : Quel portrait feriez-vous de Fabio Montale?

AD : C'est un policier atypique, anar de gauche, désenchanté, fragile, aimant la bon ne chère et le whisky, coureur de jupons.
Ce n'est pas moi.
Mais c'est quand même mon métier de devenir Montale, ce flic qui aurait pu être un voyou.

T7J : L'action se passe à Marseille, une ville que vous connaissez bien.

AD : Marseille, la ville, son ambiance, l'atmosphère : c'est une partie de ma carrière.
J'y ai tourné six films dont « Borsalino ». « Le Cercle rouge »...
Dutru. policier à Lille, m'aurait sans doute moins attiré.

T7J : Montale est d'origine italienne, un atout supplémentaire?

AD : A mes yeux, sûrement.
Moi je suis d'origine corse, mais latin dans ma façon de m'exprimer avec les mains, de m'emporter.
Ma carrière a débuté en Italie - et un peu -ma vie aussi.
Je suis arrivé en France après « L'Éclipsé », d'Antonioni, « Rocco et ses frères ». « Le Guépard », de Visconti. « Plein soleil », de René Clément.
Pour moi. Il n'y a pas de frontière entre l'Italie - dont je parle couramment la langue - et la France.

T7J : Jean-Claude Izzo avait fait mourir son personage à la fin du troisième roman.
En sera-t-il de même dans la version télé?

AD : Montale est disabuse parce qu'il a compris le système, il s'est aperçu que les roles respectifs de la police et de la justice sont très relatifs.
A 50 ans. il a envie de tout laisser tomber et d'aller à la pêche.
Il va prendre une retraite anticipée.
La fin est la même, sauf que Montale reste vivant.
Ce qui ménage une porte entrouverte lui permettant éventuellement de revenir dans d'autres aventures.

T7J : En général, vous aimezbien mourir au cinéma.

AD : Oui. parce qu'on deviant un héros ! Mourir vous donne le beau rôle.
Les images sont fortes, souvent inoubliables comme dans « Trois homes à abattre » (Jacques Deray), « Le Clan des Siciliens » (Henri Verneuil), « Deux homes dans la ville » (José Giovanni).

T7J : La première adaptation ne vous a pas plu, vous avez demandé à Philippe Setbon de la reprendre. Qu'a-t-il modifié?

AD : Il y a une grande distan ce entre l'écrit et l'image.
La première version de Montale montrait un flic refermé sur lui-même, mal dans sa peau, sans charisme.
C'était comme vouloir faire marcher un personnage condamné à la chaise roulante.
Philippe Setbon lui a donné de l'éclat et les événements lui donnent l'étoffe d'un héros.

T7J : Y aura-t-il une suite? Aimeriez-vous devenir un flic attitré sur TF1 ?

AD : Montale ne sera jamais Navarro, ce qui n'est absolument pas péjoratif pour mon ami Roger Hanin.
Je ne m'imagine pas sur un parcours au long cours.
Mais je verrai en route. Je suis prêt à tout apprendre de la télé, que je connais mal.
Je constate qu'autrefois les gens allaient au cinéma et regardaient de temps en temps la télé.
Aujourd'hui, c'est l'inverse.

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ドロンさんが最後のところで「モンタルはナバロではない。」との言葉がありますが、
このナバロとはドロンさんと『ビッグ・ガン』で共演したロジェ・アナンが主演したテレビシリーズのことを指しています。
IMDBで検索しますとNavarro (TV Series 1989?2006) - IMDb1989年から2006年まで実に17年もの長きに亘ってフランスで放映されていた人気刑事ドラマだったようです。
そしてドロンさんはこの『刑事物語』の後、パリを舞台にした『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』の撮影に取り掛かるわけですが、
この作品の監督のパトリック・ジャメインは前述の『ナバロ』では46作品を手がけるメイン監督を務めています。
いろいろな意味でこの後のドロンさんの活動を予見するようなインタビューだったことが翻訳していてよくわかりました。
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Le Figaro - Culture : Alain Delon: je vais bien

2012-04-05 | INTERVIEW
ドロンさん入院のニュースの続報ですが、以下のフィガロ誌の記事を翻訳しました。

Le Figaro - Culture : Alain Delon: je vais bien

“私は大丈夫だ。本当に大丈夫だから心配しないように。”
パリ西部のヌイイにあるアメリカン病院の病室からアラン•ドロン(76歳)は私たちにこう言った。
水曜日の午後早く、彼は少しずつ言葉を発している。
我々は彼の顔に疲れを感じた。彼はちょうど手術を受けたばかりだからだ。

すべては月曜日の夜に起こった。
彼のボディガードは、彼をアメリカン病院に連れて行った。

“初め神経科の先生は軽めの心臓の不整脈と診断したんだ。だか結局はより深刻な状態だと言われたんだ。”
まだ少しショックを受けているスターは言う。

“それで今朝になって彼らは電気ショック療法により、私の心臓を元通りにしようと試みたんだ。
私は息子のことも含めて様々な個人的な問題を抱えこんでいた。
一週間前、私は吐き気とめまいを起こして心臓のCTスキャンを撮ったんだが、そのときはまだ何も異常はなかったんだよ。”

アラン•ドロンは、彼の子供たち、アンソニーやアヌーシュカとアランファビアンから、
そしてもちろん最愛の女性であったミレイユ・ダルクからも愛と友情にあふれたお見舞いを受けていた。
“大統領の官邸からお見舞いは来ましたか?”と尋ねてみた。
“まだだよ、でもそのうち来るだろうな!”サムライはユーモアを交えてこう言った。
そして俳優はニュースを聞いたたくさんの人たちから届いた“あふれんばかりの愛”を指差した。

彼は明日の朝退院する予定だ。
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FIGARO ARTICLE 2012

2012-02-05 | INTERVIEW
「サムライ」のブルーレイ修復版DVDが発売されたことに関連してドロンさんがインタビューを受けた映像をご紹介します。

PLAYER FIGARO ARTICLE


"Q: You have seen the restored film, your reaction?
AD: The first reaction is happiness.
I usually do not watch my films out of principle, for a simple reason: too many actors, directors, operators, etc are gone.
Samourai is a film made over 45 years, you can imagine.
I have seen it again, and it moved me deeply.
First, because it's a splendid film, very well made, and because one can never forget Samourai and Melville.

Q:「サムライ」の修復版をご覧になった感想は?
AD:まずはとても幸せな気分だよ。普段私は自分の映画は観ないんだ。
なぜならあまりにたくさんの俳優たち、監督たち、スタッフたちがもうこの世にはいないからさ。
「サムライ」はもう45年も前のフィルムだ。わかるだろう。
もう一度私はこの作品を観ることがてきた。そしてとても感動しているよ。なぜならそれが素晴らしい映画だからだ。
非常によく出来ている。そして人々はサムライを、そしてメルヴィルを忘れないだろうからさ。

Q: Does it impress you to see yourself die on the screen?
AD: Absolutely not. I died almost in all my films.
In one film I did not die, and someone said: "You did not die, very weird.." So, it's not a rule.

Q:スクリーンであなた自身が死ぬ場面を見てどうお感じになりますか?
AD:何も感じないよ。ほとんど全ての映画で私の役は死んできたからね。
ある映画で私が死ななかったのを観て、ある人がこんなことを言ったよ。
「あなたは死ななかったじゃないか、とてもおかしいよ」ってね。死なないっていうのは彼らの規則に反するんだよ。

Q: You have said that the cinema has died. When the cinema was most alive?
AD: In 60-70ies. At the time, there was French cinema, German cinema, Italian cinema, etc.
Now, there is no such a thing as national cinema, there're film directors like Besson, Polyanski, Lisa Azuelos in France, and others.
Now, there are many female film directors, and it's very good. In my time, there were no women.
I would love to make a film with a female director. Preferably with Azuelos.

Q:あなたは以前、映画はもう死んだ、と発言されました。映画がもっとも生き生きとした時代はいつでしょうか?
AD:60年代から70年代だ。当時はフランスの映画、ドイツの映画、イタリアの映画、というものがあった。
今はもうそんな国家を象徴するようなものはなくなってしまっている。
あるのはフランスではベッソン、ポランスキー、Lisa Azuelos や他の人たちのように映画作家の時代だ。
現代ではたくさんの女性監督たちがいる。そして皆優秀だ。私の時代には女性監督はいなかった。
私は女性監督とぜひ一緒に映画を作りたいと思っている。特にLisa Azuelosが好きだな。

Q.: Do you regret about any proposals that you refused ?
AD: I never accepted a film because I did not have anything to eat.
I was lucky to have such carrier with exceptional people who gave and taught me everything, with incontestable masters as Clement, Melville, Losey, Visconti.
I never made a film for money. I had a chance to choose.
In my carrier of 80 films, I may have made a couple of mistakes.
But I don't regret anything, I'm proud of everything I've done.

Q:これまで断わってきた作品の中で後悔しているものはありますか?
AD:私は今まで自分自身が興味をもてない作品の仕事を受けたことはない。
だからクレマン、メルヴィル、ロージー、ヴィスコンティといった紛れもない巨匠たちと一緒に仕事をして自分自身のキャリアを築けたことはとても運がよかったと思う。
私は彼らからあらゆるものを与えてもらい、そして導いてもらえたんだ。
私はお金儲けの為に映画を作ったことはない。私は作品を選ぶことが出来た。
私のキャリアの80作品のうち2,3の失敗作はあったかもしれない。
でも私は後悔はしていない。自分の全ての仕事に誇りを持っているよ。

Q. Is there any project that you wanted, but never made?
AD: Yes, I wanted to play with Brando.
I said to Marlon: I want to be a maitre d'hotel, I would enter into your room with a tray and say "Sir, your dinner is served"
We knew each other well, I had had a chance to help when he had problems with his daughter.
Marlon meant a lot to me, playing with him in a film was my dream, now it's too late.

Q:あなたが望んだにも関わらず実現しなかった企画はありますか?
AD:はい、私はマーロン・ブランドと一緒に仕事をしたかった。
マーロンに昔こう言ったことがある。
「私はホテルの給仕の役をやりたいんです。私はあなたの部屋にトレーを持って入ってきて、こう言います。“お客様、ディナーの用意ができました。”」
私たちは互いによく知っていた。彼が自分の娘のことで問題が起こったとき彼を助ける機会があったんだ。
マーロンは私にとって大事な人だった。彼と一緒に映画で共演することが私の夢だったよ。今となってはもう遅いけれどね。

Q: Yet, you said no to Hollywood at the time?
AD: Yes, because I met a very smart and capable director who explained that I should have started my carrier in France., and not in Hollywood.
His name was Yves Allegret.
I made with him my first film "Quand la femme s'en mele" I played with famous actors Edwige Feuillere, Jean Servais, Bernard Blier.
So, he was right: I started in France, and when I became more known, Hollywood invited me in 1964, and I made some films there.

Q:あなたはデビュー当時ハリウッドに行くことは拒否していましたよね?
AD:うん、当時私はとても優秀な監督に出会っていて、彼は私のキャリアはハリウッドではなく、フランスから始めるべきだと言ってくれたんだ。
彼の名はイヴ・アレグレだ。
私は彼と一緒にデビュー作の「女が事件にからむ時」を撮ったんだ。
この作品でエドウィージュ・フィエール、ジャン・セルヴァ、ベルナール・ブリエといった有名な俳優たちと共演した。
だから彼は正しかったよ。
私はフランスでデビューし、やがて有名になってから1964年にハリウッドから招待をうけるようになったんだ。
そこで私は何本か作品を作ることになった。

Q: Do you have a favourite scene?
AD: Not really.
The scene which deeply moved me, for different reasons, is the last scene with Gabin in "Two men in town".
I go towards the guillotine, I turn and look back at Gabin, and he looks at me. That was extraordinary moment

Q:あなた自身のお気に入りのシーンはありますか?
AD:そんなにはないかな。
お気に入りということではなく違う意味で私が深く感動させられるのは『暗黒街のふたり』のギャバンとのラスト・シーンだよ。
私がギロチンに向かって歩いていく。そして振り返るとギャバンがいて、彼も私のほうを見る。あれは非常に特別な瞬間だよ。

Q: Can you remember your first line?
AD: No, it was the scene in the film "Quand le femme s'en mele".
I remember the words of my partner, Sophie Daumier.
I come out of a pastry shop and get into a convertible car MG, with a cake in hand, she is waiting for me in the car.
She says: if only my girlfriends from the high school could see me! I don't remember my reply.

Q:あなたが初めてしゃべった台詞を覚えていますか?
AD:いいや、それは「女が事件にからむ時」だということ以外は覚えていないよ。
私が覚えているのは共演したソフィー・ドーミエの言葉だけさ。
私がケーキ屋から飛び出してきてケーキを手に持ったままMGのコンバーチブルに乗るんだ。
すると彼女がそれを待っていてこう言うんだ。「学校ではみんなが私を見ているだけで十分なのよ」。
私はそれにどう答えたかは覚えていない。

Q: Nowadays, what would you say to a 20 year old Delon?
AD: Today I'd say: get into football or tennis, but not cinema!

G:二十歳のドロンに今何をいいたいですか?
AD:今ならこう言うだろうね。サッカーかテニスの選手を目指せ!映画俳優は駄目だぞ、ってね。

Q: What would make you make a new film?
AD: Nothing. A good scenario. As Gabin used to say: to make a good movie, one needs a good scenario, the rest is easy.

Q:あなたが新作を撮る条件は何ですか?
AD:いいシナリオかどうか、それ以外は何もないよ。
ギャバンが昔こう言っていた。いい映画が出来るのはいいシナリオかどうかだ、それ以外はたいしたことないんだ、ってね。

Q: What was the biggest lie ever written about you?
AD: They wrote and said so many things, I don't remember.

Q:これまでいろいろとあなたについて書かれてきましたが、もっとも大きなウソは何でしょうか?
AD:マスコミたちはあまりにもたくさんいろいろなことを書いてきたけど、もう覚えていないよ。

Q: And the most beautiful truth?
AD: Out of modesty, I prefer not to tell."

Q:ではもっとも美しい真実は何だったでしょうか?
AD:そういうことを言うのは控えさせてもらうよ。何も言わないほうがいいんだ。
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L’Occupation intime

2011-09-25 | INTERVIEW
アラン・ドロンさんの最新の活動は娘のアヌーシュカとともにナレーションを担当したドキュメンタリー映画“L’Occupation intime”です。
以下のサイトに二人のコメントが紹介されていましたのでお届けいたします。

http://www.francesoir.fr/people-tv/alain-delon-raconte-l-occupation-140502.html

関連映像はこちらです。
http://videos.tf1.fr/infos/2011/alain-delon-quelle-chance-on-a-de-vivre-en-2011-6726604.html

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"私はショックを受けました!
私は1935年に生まれたのでこの時代のことはよく知っていました。
戦争中たくさんの子供たちと同じように私は田舎に疎開していたのですから。"

明らかに興奮した口調ではあったが、アラン・ドロンは、それ以上の言葉はなかった。

彼と娘のアヌーシュカは、1940年から1945年の間ドイツの占領下にあったフランスの暗い習慣にスポットを当てたドキュメンタリー“L’Occupation intime”(=親密な占領)のナレーションを担当した。
これはドイツの占領下に撮影された映像から攻勢された衝撃の映画である。

"私がとても困惑させられたのは、まるでバカンスの映像を観ているような錯覚に陥ることです"
アヌーシュカ・ドロンは言う

Isabelle Clarke と Daniel Costelleが監督した、このプロジェクトは、若い人たちの意識を高め、いくつかの真実を復元することを目指している。
"これらの映像を世に出すためには、ここに出てくるドイツ軍兵士たちとその相続人たちの死を待たなければなりませんでした"。
と彼らは説明する
その結果、怒りを鎮めることができた。
屈託のない、フレンドリーなドイツ軍兵士の間に揺れ動いたフランス人の何人かは深い関係に陥っていた。
しかし、"禁じられた愛"もまた存在していた。
ドイツ兵の父とフランス人の母を持つ歌手Gerard Lenormanはじめ何人かの証人はとても感情的にそのことを伝えている。

"幸せな今の時代"

"この映画を観たフランス人たちはみな自分たちが今日いかに幸せであるかをますます実感するでしょう。"
とアランドロンが言います。

"もちろん、私は学校で第二次世界大戦について学びましたが、
この作品ですべての映像を観たあとでは、別の次元のような印象を受けます。非常に難しいことです。"
アヌーシュカもこう言及します。

イヴェット・ルボン、ダニエル・ダリュー、フェルナンデルやサシャ・ギトリーなどのアーティストたちはこの期間中も自分たちの活動を続けました。
この点でアランドロンがこう付け加えます。
"私は彼らの立場ならどうしていたかはわからない。
彼らはドイツ軍の共犯として非難されていたが、私はそれは間違っていると思う!
私自身が彼らを非難することはできないでしょう。
あの時代を生きて確認するしかありません。 "

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« Je suis bouleversé ! Je suis né en 1935 et j’ai connu cette période.
Pendant la guerre, comme beaucoup d’enfants, on m’a planqué à la campagne. »
L’émotion palpable, Alain Delon n’en dira pas plus.
L’acteur et sa fille Anouchka sont les voix off de L’Occupation intime, documentaire qui met en lumière les sombres mœurs de la France occupée, entre 1940 et 1945.
Un film choc, basé sur des images inédites produites par l’occupant allemand.
« Ce qui est troublant, c’est qu’on a parfois l’impression qu’il s’agit de films de vacances », commente Anouchka Delon.

Réalisé par Isabelle Clarke et Daniel Costelle, ce projet ambitionne d’éveiller la conscience des plus jeunes et de rétablir quelques vérités.
« Il a fallu attendre la mort des soldats allemands et de leurs héritiers pour que ces images nous parviennent », expliquent-ils.
Le résultat est désarmant.
Oscillant entre des soldats allemands insouciants et cordiaux et certains Français qui s’encanaillent.
Mais « l’amour interdit » a aussi pu exister.
Plusieurs témoins le racontent, dont le chanteur Gérard Lenorman, très émouvant lorsqu’il évoque son père soldat allemand et sa mère française.

"Heureux aujourd’hui"

« Ce film devrait passer dans tous les cinémas pour montrer aux Français qu’ils sont heureux aujourd’hui », reprend Alain Delon.
« Bien sûr, j’ai étudié la Seconde Guerre Mondiale à l’école, mais là, de voir toutes ces images, ça prend une autre dimension. C’est très dur », renchérit Anouchka.
Des artistes comme Yvette Lebon, Danièle Darrieux, Fernandel ou Sacha Guitry ont continué à travailler pendant cette période.
A ce sujet Alain Delon ajoute : « Je ne sais pas ce que j’aurais fait à leur place.
On les accuse d’avoir été des collaborateurs, mais je crois que c’est faux !
Je ne me permettrais pas les juger. Il faut avoir vécu cette période pour savoir. »
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Coup de feu dans son appartement à Genève: Alain Delon réagit

2011-07-03 | INTERVIEW
今回のアラン・ファビアンの事件に対してインタビューに答えるドロンさんの記事を翻訳しました。

http://www.lematin.ch/faits-divers/coup-de-feu-dans-son-appartement-geneve-alain-delon-reagit

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アランドロンさん、あなたはジュネーブの自宅での昨夜の事件をどう思われますか?

(彼は明らかに動揺しながら、車の中から答えます。)
今の時点で知っていることは私の息子が発砲したのではないということだけです。
彼らは、改造銃を扱ったようですが、私がその銃が何か、どこのものかわかりません。
私はジュネーブに戻ります。そこで私は多くのことを知らないと話します。
息子は私の知らないところで私たちが休日を過ごすために出発する前夜に、
彼の友人と共謀して私の自宅で、私の愛、私の信頼を欺いたのです。
その結果このように警察から電話がかかってきました。私はとても悲しいです。

あなたは、このアパートの中に銃を所持していたのですか?

いいえ、私はジュネーブには武器を持っていませんが、2丁か3丁そこにあったと聞いています。
しかし、それらの銃が私の家(フランスのDouchy)から持ち出されることは不可能ではありません。

今回の事件はなぜ起こったか説明することができますか?

暴力的なビデオゲームやFacebookなどインターネットを通じて私たちの子供たちはいつもバーチャルな世界に住んでいます。
これは本当に深刻なことです。
私の子供のころはそんなことはまったく知りませんでした。(首をすくめながら)
20年後に子供たちはいったいどうなるのでしょう?
そのとき、彼らは突然現実の世界に巻きこまれていきます。
幸いなことに、犠牲になったこの少女は、生死には影響ないようです...(ため息まじりに。)
フランスで何が起こっているかを見てください。学校の外で子供が殺されています。
それは恐怖です!この残虐行為の目的は、裏で何か取引がなされているのです。
私たちは常に子供たちのための責任がありますが、社会にもあります。

あなたは他の子供の父親とは全くちがいますね。あなたには常に銃のイメージがつきまといます。

確かにそうです。ですので、私の息子(アランファビアンと長男アンソニー)は映画を見て信じてしまいます。
"パパだ、これはパパなんだ!"と。アンソニーは以前3ヶ月間刑務所に入りました。
私は自分の職業として銃を扱ってきたというだけの違いで、アンソニーも、私と同じようにただ銃を触っただけです。
彼は後でそれを学びました。
私は、スクリーン上の架空の人物です。私の息子は、そのイメージを持って育ったのです。
私は時々15、16または17歳まで、彼らに私の映画を見せないよう戦ってきました。
アラン-ファビアンは"ル・ジタン"や"チェイサー"、"シシリアン"を15回も見ていました。
彼らにとって、スーパーヤクザやスーパーコップはパパなのです!
親は子供たちの成長に責任がありますが、私が私自身でいること、それ自体が私の失敗であるとは思っていません。

あなたの息子はまだスイスで学校に通っているのでしょうか?

ル・ロゼにはもう通っていませんが、コレージュ・デュ・レマンに通っています。
来年、彼は最終学級になります。
私たちは二日後にビアリッツ近く、GUETHARYに向かいます。
明日の朝(注:今日の朝)、彼は裁判所に出頭します。
彼とは警察で面会できるようです。

あなたはどこで夜を過ごすのですか?

まだわかりません。私は家には帰るでしょう。
きっと警察が部屋中を捜索しているでしょうから、着いたら大変な状態になっているでしょうね。
しかし、私の弁護士は部屋には行かないよう私に助言してくれています。
なので最悪の場合、私はホテルに滞在することになるでしょう。

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Alain Delon comment réagissez-vous aux événements qui se sont déroulés hier soir chez vous à Genève?

(Il répond depuis sa voiture, visiblement perturbé.)
Tout ce que je sais à ce stade, c’est que mon fils n’a pas tiré.
Ils ont trifouillé, manipulé une arme, je ne sais quoi et le coup est parti.
Je rejoins Genève au moment où je vous parle et je n’en sais pas plus.
Mon fils a trompé mon amour et ma confiance en organisant, à mon insu, une soirée chez moi avec ses copains, à la veille de notre départ en vacances.
Résultat, je reçois un coup de téléphone de la police. Je suis très triste.

Aviez-vous des armes à feu dans cet appartement?

Non. Je n’ai aucune arme à Genève. Il y en avait 2 ou 3 paraît-il.
Mais il n’est pas impossible qu’elles aient été prises dans ma maison de campagne (ndlr: à Douchy en France).

Comment expliquez-vous ce qui s’est passé?

Avec les jeux vidéo ultraviolents, Facebook, Internet et tout le reste, nos enfants vivent en permanence dans le virtuel.
C’est vachement grave. Moi, je n’ai pas connu ça. (Horrifié.)
Qu’est-ce que ça va donner dans vingt ans? Ensuite, ils sont brutalement rattrapés par la réalité.
Heureusement que cette jeune fille n’est pas passée de vie à trépas… ( Il marque une pause.)
Regardez ce qui se passe en France, cette enfant tuée à la sortie de l’école.
C’est une horreur! La finalité de cet abrutissement, c’est le commerce.
On est toujours responsables de ses gosses, mais la société l’est aussi.

Vous n’êtes pas un père comme les autres. On vous associe forcément aux armes à feu.

Evidemment. Alors, mes fils ( ndlr: Alain-Fabien et Anthony l’aîné) se croient au cinéma.
«Papa ceci, papa cela!» Anthony, à une certaine époque, avait fait 3 mois de prison.
La différence, c’est que moi, j’exerce un métier. Anthony fait le même, il l’a appris par la suite.
Je suis un personnage de fiction à l’écran. Mes fils ont grandi avec cette image-là.
J’ai parfois attendu 15, 16 ou 17 ans et je me suis battu avant qu’ils ne puissent voir certains de mes films.
Alain-Fabien a dû regarder 15 fois «Le clan des Siciliens», «Le Gitan» ou «Mort d’un pourri».
Pour eux, le supervoyou ou le superflic, c’est papa!
Les parents portent leur part de responsabilité, mais ce n’est tout même pas de ma faute si je suis ce que je suis.

Votre fils est-il toujours scolarisé en Suisse?

Il n’est plus au Rosey, mais au Collège du Léman, à Versoix.
L’an prochain, il entre en terminale. Dans deux jours nous devions partir à Guéthary, près de Biarritz.
Demain matin ( ndlr: ce matin) , il sera présenté au juge. En attendant, il est à la disposition de la police.

Où allez-vous passer la nuit?

Je ne sais pas. Je vais rentrer chez moi.
Je risque de trouver mon salon dans un drôle d’état en arrivant, la police qui a fait son travail a fouillé partout.
Mais je m’y attends. Mon avocat m’a déconseillé d’y aller.
Au pire, j’irai dormir à l’hôtel.
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LE FIGARO TV MAGAZINE octobre 2010 (3)

2010-11-28 | INTERVIEW
今回は共演女優のローリーのインタビューの翻訳です。

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"アランは、私たちがスーパースターと聞いて想像するような人物とはほど遠い人です。
最初、私の周りの誰もがこう言いました。
"ああ!なんということでしょう。ドロンと共演するなんて。
きっとあなたとけんかになるでしょうね。彼は簡単なタイプではないわよ .. "と。

そして私は一人のジェントルマンに出会いました。
彼は絶対的な魅力を持って、思いやりがあって、包容力のある人でした。
撮影が始まると彼は私を呼んで新しいことを教えてくださり、いろいろなアドバイスをしてくださいました。
そしてすぐに食堂で一緒にランチを取る間柄になりました..
一言で言えば、彼はまるで父親のような人でした。
人々が想像するような傲慢なスーパースターでは決してありませんでした。"

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こうやってドロンさんと一緒に仕事をした経験のある人たちの話は、
どんな評論家の意見やジャーナリストの言葉よりも説得力があって大変興味深いです。
彼らの言葉の中からドロンさんの本当の姿というものが浮き彫りになってきます。

そしてそうやってドロンさんと一緒に仕事をすることができた人たちをとてもうらやましく思ってしまうのは
決して私だけではないことでしょう。
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LE FIGARO TV MAGAZINE octobre 2010 (2)

2010-11-26 | INTERVIEW
前回のインタビューの続きです。

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あなたは他のスターたちよりも早くからテレビに主演されました。なぜでしょうか?

テレビは映画とは違うんだ。はるかに速いペースで作品を作っていく。
私は少し懐かしい気持ちでよく思い出すんだが、昔の時代を代表する俳優たち、
例えばギャバンはテレビのような速いペースの撮影に慣れることができなかったんだよ。
映画のセットでの私たちの仕事のやり方はとても異っていた。
私は早く仕事を終わらせることが好きなタイプなので、テレビにはすぐに適応することができたんだ。
だけど23日間、映画の撮影にかかりきることもいやではなかったけどね。

舞台はいつから始まるのですか?

何日か後には、私は「典型的な一日」のリハーサルを開始するよ。
Éric Assousが私の娘と私の為に書いてくれた父と娘の関係についてのドラマチックなストーリーで、
私の偉大な友人だったジャン=クロード・ブリアリーの劇場Bouffes-Parisiensで1月からスタートする予定だ。
私はブリアリーに敬意を表して、娘の初めての舞台に彼の劇場を選んだんだよ。

あなたが心底打ち込んでいたプロジェクトですね?

この舞台が実現できるなんて言葉がないくらい幸せなことだよ。
私の娘と一緒に舞台に立って演技をするなんてね。
これが終わったらもう全ての仕事をやめてもいいと思っているよ...

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このインタビューの直後に舞台の監督の降板の報道があり、
その後は新しい演出家が起用されたようですので、果たして予定通りに開演されるかどうか見守りたいところですが、
それにしてもドロンさんの口からまるでこれが最後の仕事のような発言があるのは少し寂しい気持ちになります。
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LE FIGARO TV MAGAZINE octobre 2010 (1)

2010-11-25 | INTERVIEW
ドロンさんの最新のテレビドラマ"Un maride trop"が特集された"LE FIGARO TV MAGAZINE"をご紹介します。
ドロンさんの役柄は主人公の結婚相手の父親役で、服装からもエグゼクティブな階級にいる人物のようです。

以下ドロンさんのインタビューの要約です。

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ヒロイン役のローリーについて

ローリーは"何か"を持っている女優だ。派手ではないが、美しく親しみやすい。
現代の若手女優の中では比較的まれなことだけれども人格もりっぱだよ。
私たち二人のシーンの中で特に印象に残っているんだが、非常に彼女の存在感を感じたんだ。
彼女は自分の今の職業を愛し、この道を歩み続けるのに必要なことを好きになっている。
そして彼女は俳優としての長いキャリアを築いていくのに必要なすべての資質を持っているよ。
私はそんな彼女がとても好きだ。

他の共演俳優たちについて

二人の青年を演じたAlexander Varga とPhilippe Basたちも素晴らしかった。
Alexanderは私の息子の役を演じたが、非常に才能豊かで美しい。
いろいろな役を演じることができる本物の俳優だ。

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L'HOMMAGE D'ALAIN DELON A JACQUES DERAY

2010-09-01 | INTERVIEW
『太陽が知っている』の監督ジャック・ドレー(写真中央)は2003年の8月に74歳でお亡くなりになっていますが、
直後のパリマッチ誌にアラン・ドロンさんが彼に追悼の意を込めてインタビューに答えている記事を先日入手しました。

ドロンさんとジャック・ドレー監督とは9本の作品でコンビを組んでおり、
最も気心の知れた間柄であったことはつとに有名ですが、
具体的にドロンさんの口からドレー監督について詳しく語っているインタビューにお目にかかったのは今回が初めてでした。

監督と俳優の理想的な関係についても詳しく言及したドロンさんの言葉も大変興味深く感じられましたので
全文を翻訳してみました。以下に原文と共にご紹介いたします。

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Paris Match;Avec sa formation d'acteur, Jacques Deray avait-il une façon particulière de vous diriger?
Alain Delon; Oui, absolument! Les meilleurs cinéastes sont ceux qui ont touché eux-mêmes à la fragilité de l'acteur.
Les autres ne peuvent pas comprendre nos angoisses, notre vulnérabilité, notre hypersensibilité.
Deray n'était pas seulement réalisateur et metteur en scène, il était un vrai directeur d'acteurs.
Il comprenait intimement ce qu'est la "machine acteur".
Il savait la difficulté d'émouvoir, de faire pleurer, de faire rire, de sortir ses tripes, de donner ce qu'on a de plus profond en soi.
Sa façon de nous diriger était plus sensible, plus personnelle, plus intime.
Jamais, par exemple, il ne cherchait, comme d'autres metteurs en scène, à nous déstabiliser.

P.M. Il disait aimer les grands acteurs, il leur trouvait une magie ...
A.D. Il était un amoureux passionné des acteurs. "Sans eux, on n'a pas de film", estimait-il.

P.M. Vous avez tourné neuf films ensemble...
A.D. C'est énorme, c'est une vie!
Il faut savoir qu'autrefois les tournages duraient trois, quatre mois.
Tourner "Borsalino" a dû prendre seize semaines!
C'étaient des tranches de vie !
D'intenses périodes d'existence en communauté.
On était devenu amis. Lui parti, ce sont des époques qui défilent, très différentes :
les années 60, les années 70, les années 80. C'est un morceau de moi qui fout le camp.

P.M. Quel genre de personnage était-il sur un tournage?
A.D. C'était un homme très doux, délicat, attentionné. Sous ses airs bougons, il était chaleureux.
Je le revois, sa cigarette au bec, je lui disais: "Arrête de fumer, t'es en train de te foutre en l'air !"
Il rigolait.Il déjeunait avec l'équipe.
Sur un plateau, comme il savait exactement ce qu'il voulait, travailler avec lui était d'une facilité ...
Il créait une harmonie, on tournait dans la joie.
Il était heureux, toujours de bonne humeur, convaincu – à juste titre! - d'exercer "le plus beau métier du monde".
D'ailleurs, je ne l'ai jamais vu s'énerver, encore moins piquer une colère ...

P.M. Comment se situe "La piscine" dans votre souvenir?
A.D. C'est notre premier film ensemble, en 1965, le film de ses grands débuts.
Moi, j'avais déjà une belle carrière avec Visconti ("Rocco et ses frères", "Le guépard"), René Clément ("Plein soleil"), Verneuil ("Mélodie en sous-sol") ...
De Jacques Deray, j'avais vu "Du rififi à Tokyo" avec Charles Vanel, et quand on m'a proposé ce cinéaste pour tourner ce scénario, j'ai dit "O.k., pas de problème";
j'ai imposé Romy contre les producteurs (qui voulaient d'abord Monica Vitti, puis Angie Dickinson).
Pour moi, "La piscine" est son chef-d'oeuvre; et pour nous, les acteurs, une expérience unique ...
Romy, Maurice (Ronet, N.d.l.r.) ... Je suis le dernier survivant. .. Plus jamais je ne pourrais revoir ce film ...

P.M. Vous avez été le producteur de beaucoup de ses films, y avait-il des tensions sur le budget entre vous?
A.D. J'ai produit quasiment tous les films que j'ai tournés avec lui, et je peux vous dire qu'il n'y a jamais eu le moindre désaccord entre nous.
Il ne jetait pas l'argent par les fenêtres.
Mais, de mon côté, je connaissais les exigences pécuniaires d'un bon film noir.

P.M. Les titres de ses films sonnent encore formidablement aujourd'hui
- "Flic Story", "Trois hommes à abattre", "Doucement les basses"... -, vous les trouviez ensemble?
A.D. Non, les titres, je les trouvais tout seul.
"Borsa!ino", par exemple, personne n'y croyait, je l'ai imposé.
Quant à "Flic Story" - il y aurait aussi "Parole de flic", "Pour la peau d'un flic" ... -
c'était parce que je m'étais aperçu que, dans un titre, le mot "flic" me portait chance !

P.M. Vous avez été son producteur et l'acteur qui l'a le plus inspiré;
quant à lui, il vous a poussé à vous essayer à la mise en scène...
A.D. Oui, je jouais, je produisais, je savais que je ne serais pas auteur.
Alors, dans les années 80, il m'a incité à faire de la réalisation.
Je lui dois mes deux films, "Pour la peau d'un flic" et "Le battant".

P.M. Quand lui avez-vous parlé pour la dernière fois?
A.D. Après la diffusion récente à la télé d'un film de lui, je lui ai téléphoné : "Quelle belle soirée on a passée! Merci!"
Ça lui a fait plaisir. Je regrette de ne pas l'avoir revu dans ses derniers moments: c'est ma faute.
J'ai voulu savoir comment il était parti.
Je l'ai demandé à sa compagne: "Dans un baiser", m'a-t-elle répondu. Ça m'a bouleversé.

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パリマッチ誌(以下PM);俳優を指導するという意味でジャック・ドレー監督は何か特別なやり方であなたに接していたのでしょうか?

アラン・ドロン(以下AD);はい、全くそうです!最高の監督というのは、俳優の弱さに自分自身を向きあわせることができる人たちです。
他の監督たちは私たち俳優の不安や弱さや感受性を理解することができていません。
ドレーは単に映画を撮る監督というのではなく、俳優にとっての本当の監督でした。
彼は"機械仕掛けのような俳優”がどんなものかを深く理解していました。
彼は、俳優を動かせたり、泣かせたり、笑わせたり、自分の内面を外に出させたり、
そこに深みをもたせることがどれほど難しいかを知っていました。
彼の演出方法は、我々俳優とより感性を深めあって、より個人的に親密になることでした。
彼は、例えば他の監督たちのように、私たちを不安定な気持ちには決してさせませんでした。

PM;彼は大物俳優が好きだと言っていました。彼らには魔法を発見すると...

AD;彼は俳優というものを情熱的に愛する人でした。 "俳優たちがいなければ、映画は存在しないんだ"と彼は考えていたのです。

P.M;あなたは彼と一緒に9本もの映画を撮っていますね...

AD;すごいことですね。こんな人生っていうのもあるんです!
昔は映画の撮影といえば3、4ヶ月間続いたんです。『ボルサリーノ』の撮影も16週間かかりました!
その期間というのは人生の断片といえます!共通の目的を持った存在同士が過ごす激しい期間でした。
そこで私たちは友達になりました。彼が逝ってしまって、彼との日々が次々とよみがえってきます。
とても他とは違った日々でした。60年代、70年代、80年代。過ぎ去ってしまった私の人生の一部です。

PM;彼は撮影中はどのような人でしたか?

AD;彼は非常に優しい男で、敏感で思いやりのある人でした。外見はいつも不機嫌そうに見えますが、温かい人でした。
彼がいつも口にタバコを咥えていたのを覚えています。私は彼にこう言いました:"タバコは止めろよ。体を壊しちまうぜ!" 
彼は笑っていました。彼は自分の撮影チームと一緒に昼食を取りました。
撮影中、彼は自分の求めるものを詳細に頭に描いていました。ですので彼と一緒に仕事をすることはとても楽でした。
彼は調和を創造し、それが喜びに変わっていきました。
彼は幸せそうで、常に明るく、当然のことですが、"世界で最も美しい仕事をする"ことに自信を持っていました。
それに、私は彼が興奮してカンシャクを起こすような姿を見たことがありませんでした...

PM;『太陽が知っている』はあなたの記憶の中でどのような作品ですか?

AD;あの作品は私たちが初めて一緒に撮った1969年の作品です。
私はすでに、ヴィスコンティ(『若者のすべて』と『山猫』)、ルネ・クレマン(『太陽がいっぱい』)、
ヴェルヌイユ(『地下室のメロディー』)らとの作品で成功を収めていました。
ジャック・ドレー監督の作品は以前シャルル・バネルが主演した、”Du rifini à Tokyo”を見ていて、
彼から新しい映画のスクリプトをもらったとき私はすぐに"オーケー、問題ないよ。”と言いました。
私はロミーをプロデューサーたちに推薦しました。
彼らは当初モニカ・ビッティかアンジー・ディキンソンを希望していました。
私にとって『太陽が知っている』は彼の傑作であり、私たち俳優たちにとっても貴重な経験でした...
ロミー、モーリス・ロネ...私は最後の生存者となりました。 もう私はこの映画を見ることはないでしょう...

PM;あなたは彼が監督した多くの作品のプロデューサーでした。
彼とあなたの間には予算についてのプレッシャーはありませんでしたか?

AD;私は彼と一緒に撮影した映画のほぼすべての作品をプロデュースしてきましたが、
私たちの間で意見が割れたことは一度もありませんでした。
彼は窓から無駄にお金を投げ捨てるようなことは一切ありませんでした。
しかし、私の立場では良質なフィルムノワールを作るとなると予算の要求が多いことを知っていました。

PM;彼が監督した映画のタイトルは今日でも素晴らしいですね。
『フリック・ストーリー』『ポーカー・フェイス』『もういちど愛して』... あなたも彼と一緒に考えたのですか?

AD;いや、タイトルは、私一人で考えてきました。例えば『ボルサリーノ』も私が考えました。
みんな信じないのですが、私は映画のタイトルを考えることも仕事のひとつと自分に課してきたんです。
『フリック・ストーリー』について言いますと『復讐のビッグ・ガン』や『危険なささやき』(の原題)にも含まれている言葉
『FLIC=警官』をタイトルにいれるとラッキーな結果を私にもたらしてくれました!

PM;あなたは彼の映画の製作者であり、最もインスピレーションを与えた俳優ですね。
でも一方で彼はあなたに監督の仕事を勧めました...

AD;はい、私は俳優で、プロデューサーでしたが、演出をしようなどとは思ってもいませんでした。
その後、80年代に入ってから、彼は私に強く勧めてきたのです。
『危険なささやき』と『鷹』の2本のフィルムを演出できたのは彼のおかげです。

PM;彼と最後に話しをしたのはいつでしたか?
AD;彼が演出したテレビ映画が放映された夜、私はすぐ彼に電話してこう言いました。
「とても美しい夜を過ごさせてもらったよ!ありがとう!」とね。彼も満足そうでした。
彼の最後の瞬間に立ち会うことができなかったことをとても後悔しています。これは私の落ち度です。
私はどのように彼が逝ったのか知りたくて彼の奥様に尋ねました。すると彼女はこう答えました。
"キスをしながら彼は逝きました"と。私はとても動揺してしまいました。

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Visconti a guide ma vie (2)

2010-05-16 | INTERVIEW
前回の続きです。
最後のところでドロンさんの口から来年1月の舞台についての言及があります。

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LE FIGARO誌(以下LF)-ルキノ・ヴィスコンティについてはどうですか?

アラン・ドロン(以下AD)–強烈な個性とたくさんの教養を身につけ、さらに素晴らしい才能を持った方です。
ミラノの裕福な貴族の家系に生まれながらも、共産主義に対する共感を隠そうとしませんでした。
彼の『椿姫』や『ドン・カルロ』での演出を見れば、彼が普通の人にはない美的センスを持ち合わせていたことがわかります。
彼はパリでジャン・ルノワール監督の助手として『どん底』や『ピクニック』でデビューしたのです。

LF-彼はあなたにどのようなアドバイスをしたのでしょうか?

AD-何もありません。しかし彼は私に多くのものをもたらしてくれました。
私は彼のような偉大な監督がどうやって演出していたかをあなたに説明することはできません。
たとえばカラヤンが彼のミュージシャンの少しのミスも聞き逃さなかった、その秘密を語るのと同じようなものです。
ヴィスコンティはすべてを把握していました。彼の目に入らぬものはなかったのです。

LF-ルイ・ヴィトンのバッグのマークについての逸話がありますね...

AD-それは1960年代に彼のアパートに私が最初に訪問したときの話ですね。
部屋の中には【LV】とマークされたカバンがたくさん置いてありました。
今でも忘れもしません、私は彼にこう言ったのです。
"先生、あなたのお名前が書かれたカバンをお持ちとは何と素晴らしいことでしょう。"ってね。
彼は大笑いしました。私がそれをルイヴィトンのイニシャルなのを知っていてそう言ったからです。

LF-あなたは1958年ジャン=クロードブリアリと一緒にこのカンヌ映画祭でデビューを果たしました。
あなたはどのように今の祭典をご覧になっていますか?

AD-他の素晴らしい映画祭と同じように私はここには24時間しか滞在しません。なぜなら私は映画を作っていないからです。
私が最後に来たのはジャン=リュック・ゴダール監督作品の『ヌーヴェルヴァーグ』のときでした。
そのときの私はパレ・デ・フェスティヴァルに海から到着しました。
今私は娘と一緒にここの階段を登ることができて本当に興奮しています。
私の最大の幸福は、Eric Assous作の舞台『典型的な一日』を来年1月からbouffes parisiens において公演することで、
天国にいるジャン=クロード・ブリアリの心に答えることができることです。
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