LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を探ります。

Flic Story

2017-04-16 | THE 70'S CINEMA
本日午後9時からのスター・チャンネルでは『フリック・ストーリー』が放映されます。

刑事を演じるのは『リスボン特急』に続いて2回目となりますが、独善的なコールマン刑事に比べて、人情派で犯罪者にも共感を持つ警察官を演じています。
公務員であるサラリーマンとして、上司の顔を横目に見ながらも常に自身の信念に基づいて行動する主人公はドロンさんにぴったりのはまり役です。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BIG GUNS (3)

2017-01-23 | THE 70'S CINEMA

フランス盤DVDライナー・ノーツより後半をご紹介します。

----------------------------------------------------------

野心的で大胆なプロデューサーであるアラン・ドロンは『ビッグ・ガン』の撮影を
イタリア以外の国で撮影することにためらいはなかった。
もちろん撮影の容易さを考えればパリで行うのが常識だが、
彼はリアリズムを追及するためにハンブルグやコペンハーゲンでキャメラの前に立った。
そんな時、あいにくある“組織”が圧力を加えてきたこともあった。
このようなジャンルの映画は何かとお金が必要になるのが常だった。
しかしそんなことはどうでもよかった。
アラン・ドロンは俳優として完全主義者であり、プロデューサーとして情熱の人であった。

--------------------中略-------------------------------------

1973年の時点でアラン・ドロンは最高というわけではなくとも
ヨーロッパの大スターたちの中の一人であった。
それゆえ彼と対等に渡り合える俳優を探すのは難しかった。
しかしながらプロデューサーとしてのドロンはいつもそのキャスティングで成功を収めていた。
今回彼はイタリアの若き女優カルラ・グラヴィーナを相手役に抜擢した。
赤い髪の彼女は当時イタリアで急速に国際的な成功を収めていた。
彼女はジャン・ルイ・トランティニアン(『刑事キャレラ10+1の追撃』)
ジャン・ポール・ベルモンド(『相続人』)、
ダスティン・ホフマン(『アルフレード・アルフレード』)
らと既に共演していた。
いずれアラン・ドロンとも共演することは当然予想されていたことであった。
“ヴィットリオ・ガスマンと共演して以来私は大スターたちとばかり共演してきたわ。
間違いなく今の私は運のいい女優よ。”
撮影時彼女はやや皮肉っぽくこう語った。
彼女のこれまで共演した男優たちの中でも、アラン・ドロンは男の中の男であった。
彼ら二人は俳優としての才能ばかりでなく人間としての信頼関係も築けていたに違いない。

同じようにロジェ・アナンはフランスのボス役に選ばれた。
彼はこの役のおかげで7年後に“大いなる許し(未公開)”で主役を演じるようになる。

リチャード・コンテはその逆である。
彼は1年前に“ゴッド・ファーザー”でドン・ブラジーニ役を演じており、
この『ビッグ・ガン』でもマフィアのボスを見事に演じている。

プロデューサーとしてのアラン・ドロンはこの『ビッグ・ガン』という作品が
フランスとイタリアの国境を分けずに両国でヒットするであろうことは予想していた。
さらに彼は新しい試みとして全ての撮影を二回に分けて行うことを
監督のドッチオ・テッサリと一緒に決めた。
最初はフランス語で、そして2回目は英語で行った。
このようにすることでアラン・ドロンはこの作品をイギリスやアメリカに配給することが可能だと確信した。
それらの国の観客は字幕スーパーやアフレコなどの映画は見ないことを承知していたからだ。

---------------------------------------------------------------

最後の文章で「撮影が2回行われた」と書かれていますが、
DVDを観る限り、俳優の口の動きを見ていると英語を話しているようなので、
最終的に英語版が公開され、フランス語盤はドロン本人のアフレコのようです。
しかもドロンの英語は本人の声ではないので、
わざわざ別の声優がドロンの英語をアフレコしたようです。
どういう事情か分かりませんが英語圏での成功の為に、
完璧を期して敢えてそうしたのかもしれません。

アラン・ドロンはこの作品の前に『高校教師』『スコルピオ』『暗殺者のメロディ』と
本国フランス以外の国に敢えて自分の身を置いた作品を続けて発表していますが
いずれの作品も優秀な出来栄えであり、この時期、彼の「挑戦」は大成功したといえるでしょう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BIG GUNS (2)

2017-01-23 | THE 70'S CINEMA

フランス盤DVDライナー・ノーツより抜粋をご紹介します。

----------------------------------------------------------

“シシリー島にふたたび訪れての撮影はとても楽しい。
ここはルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』を撮影したのと同じ場所で、
あれからもう10年が経ったんだ。”
1973年『ビッグ・ガン』撮影中のアラン・ドロンが語った。
彼はまたこの作品の共同プロデューサーも兼ねていた。

シシリー島では重要な場面が撮影されている。
彼が演じるトニー・アルゼンタはマフィアの組織に所属する殺し屋であるが、
また故郷の一市民でもある。

この物語は従来からあるこの類の犯罪ドラマの典型を引き継いでいる。

“トニー・アルゼンタの役はとても気に入っている。
彼は仕事の手際がよく厳しい人間ではあるけれども、
逆にシシリーの人たちと同じように気が優しく寂しがり屋でもある。
ドロンはこう語った。

シラキューズから20キロ以内の距離にある
3000人ほどの住人しか住んでいない小さな村Motamがこのロケの舞台である。
監督のドッチオ・テッサリは大半の野外撮影をこの村で行った。

とりわけ印象的なシーンは、映画のラストでトニー・アルゼンタが卑怯にも
信頼していた友人のルーカスから撃たれる場面である。
これは16世紀の装飾が施されたイエズス会の教会の前の広場が使われた。
この撮影の許可を得るのに地元の司祭との交渉に長い時間を要することはなかった。

なぜなら彼はアラン・ドロンのファンだったからだ。

したがって物語のテーマが暴力的なものであり
教会の原理、主義とは大きな隔たりがあったにもかかわらず
神父は何の問題も無く撮影許可を下ろしてくれたのだった。

そればかりではなく神父は結婚式のシーンで教会の内装を
そっくりそのままスタジオに再現することも許可を与えてくれた。

シシリー島でこのような恩恵を受けた俳優はアラン・ドロン以外にはいなかった。

Comment (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BIG GUNS (1)

2017-01-22 | THE 70'S CINEMA

2006年1月8日記事の画像と文章をリニューアルしました。

------------------------------------------------------------

2017年の1月からスター・チャンネルで始まった『アラン・ドロンがいっぱい』ですが、現在この『ビッグ・ガン』が放映されています。

ドロンさんの全盛期といえる70年代中盤に単身イタリアに渡って撮影した作品ですが、80年代までは日曜洋画劇場などでよくリピート放映され、日本のファンにとってはかなりなじみの深いドロンさんの代表作として知られている作品です。

(後年、彼の日本未公開作の2作品がこの題名にあやかって『復讐の~』『必殺~』などと、いかにもこの作品とのシリーズ作品であるかのように引用されたことはちょっと日本人のファンとして恥ずかしいところです。)

アデル・プロがフランス側の製作として関与していますが、スタッフ、キャストともにこれまでのドロンさんの作品には馴染みのないメンバーばかりで、彼のフィルモ・グラフィーの中ではかなり異色の作品といえます。

唯一ギャングのボスを演じた

とはいえドロンの役柄は“常に忙しく動き回る男”で、
かつ“表と裏の二つの顔を持つ男”といういつもの18番のキャラクターであり、
ストーリーにもメルヴィル作品のように首をかしげるような展開はなく
非常によくできた構成から成り立っている作品です。
この作品でドロンは両手で拳銃を自由に操ることができるスナイパーを演じていますが、
これは『レッド・サン』での左利きの特訓の成果なのでしょう。

日本で発売されているDVDはイタリア語と英語の吹替え盤ですが、いずれもドロン本人の声ではなく、
最近フランス盤DVDでドロン本人のフランス語の台詞を聞いて初めてこの作品を違和感なく観る事ができました。

Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LE PROFESSEUR (4)

2016-03-21 | THE 70'S CINEMA
『アラン・ドロン映画祭』いよいよ今週末の開催となりました。

『高校教師』を大画面で大音響に包まれて鑑賞できる機会は非常に貴重です。
皆様まだまだ席に余裕はあるようですので、ファンの方々同士お誘いあわせの上奮ってご参加ください。

今回も前回の続きで2008年の記事のリニューアルです。

-----------------------------------------------------------

1972年、ジャン・ピエール・メルヴィルとの『リスボン特急』の撮影を不完全燃焼のまま終えたアラン・ドロンは『高校教師』の撮影のために意気揚揚とイタリアに向かい2月から3月までをそこで過ごした。

それはドロンにとって自身が初めて成功した地への帰還でもあった。
撮影現場では1960年に『若者のすべて』で共演したレナート・サルバトーリや、アラン・カヴァリエ監督作の『さすらいの狼』で共演したレア・マッサリも一緒であった。

ドロンとズルリーニとの関係はフランス本国で映画が公開されるときに発生したいくつかの誤解によって暗雲が立ち込めることになる。
フランス版の公開題名が「Le Professeur」と変えられたこと、そしていくつかのシーンがカットされたことに対してズルリーニ監督はプロデューサーのアラン・ドロンを非難した。

ヴァレリオ・ズルリーニから(記者に)送られてきた手紙が紹介された当時の新聞記事にはこう書かれている。

『私は(イタリア公開用の)オリジナル版をようやく完成させたが、その後は自分で自分の作品を守ることができなくなり気分を害している。
フランスで公開されたフランス語バージョンを観てみると、映画の内容がほとんど理解不能なものになってしまっていた。
約15分ものシーンがカットされているために、レア・マッサリが演じた役柄の人物像が理解不能なものになっている。
またラスト・シークエンスで描かれた荘厳さも著しく異なったものになってしまっている。
すべての精神的なかかわりというものが手荒にかき消されてしまっているのだ。
これではフランスの観客に2年間私が費やしてきたこの映画への努力を理解してもらえるとは到底思えない。』

フランスでは百万人以上の観客を動員しイタリアでも成功を収めたにもかかわらず、アラン・ドロンは『高校教師』は失敗作だったと感じている。
彼がイメージチェンジを図ろうとするといつも観客は拒絶するのだとこの映画はまたしても彼に感じさせることになるであろう。

「『もういちど愛して』が失敗したとき、私には何も新しいものをもたらすことはなかった。
『高校教師』『パリの灯は遠く』もまたしかりで、私は自分が何をしてきたのかはよくわかっているさ。」

-----------------------------------------------------------

DELON DÉÇU

Le tournage d'Un Flic s'étant terminé en demi-teinte avec Jean-Pierre Melville, Alain Delon est ravi de partir pour l'Italie et d'y rester de février à mars 1972 pour Le Professeur.

C'est également une sorte de retour aux sources et aux films d'auteur qui avaient fait ses premiers succès.
Il retrouve d'ailleurs Renato Salvalori qu'il a connu sur Rocco et ses frères en 1960 et Lea Massari, sa partenaire dans L'Insoumis d'Alain Cavalier en 1964.

Sa collaboration avec Zurlini sera néanmoins quelque peu ternie par une mésentente survenue à la sortie du film dans l'hexagone.
Outre le titre français du film, le réalisateur reproche à Alain Delon d'avoir opéré des coupures.

En témoigne cet article du journal Combat:
“Valerio Zurlini explique dans une lettre que, sérieusement malade après avoir terminé la version originale, il n'a pu défendre son film.
Après avoir vu la version présentée en France, il considère que son film est méconnaissable :
15 minutes environ de coupures, le personage interprété par Lea Massari devenu incompréhensible, la signification de la sequence finale complètement renversée, toutes les implications spirituelles du film brutalement effacées.
Dans ces conditions, écrit-il, je ne comprends pas ce que le public français a pu voir et saisir de mon travail de deux années.”

Malgré plus d'un million d'entrées en France et un succès en Italie, Alain Delon considérera la sortie du Professeur comme un échec et ce film lui laissera une profonde blessure personnelle avec la conviction que le public le rejette lorsqu'il tente de changer d'image :
“Quand Doucement les basses a été un bide, ça ne m'a rien fait.
Le Professeur, Monsieur Klein, oui, parce que je savais tout ce que j'y avais donné.”

-----------------------------------------------------------------

最後のドロンさんがこの作品を失敗に思っていた、という記述は何年頃の取材によるものかが記載されていませんでしたが、当時と今とではドロンさんの心境もかなり変化したことが窺い知れます。

問題のカットされたシーンについては、どこまでドロンさんの意思が入っていたかは定かではありません。
ズルリーニ監督がドロンさんを非難しているのは少し早計だったのではないかと個人的には思います。

ただ改めてフランス語版とイタリア語版を見直してみますと、ズルリーニ監督の指摘は残念ながら当たっていると言わざるを得ません。
フランス語版の唯一の優れている点といえば、ドロンさん本人が話すフランス語が聴けることかもしれません。

今週末の上映はフランス語版ではなくイタリア語版と聞いておりますので完全版の上映ということになります。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LE PROFESSEUR (3)

2016-03-15 | THE 70'S CINEMA
前回の続きです。

-------------------------------------------------------

『高校教師』は、アラン・ドロンにとって彼がそれまでいつも演じてきた氷のようなクールな役柄から脱却しようとした最初の試みの作品であった。
ドロンはヴィスコンティを介して既にズルリーニのことは知ってはいたが、もともとマルチェロ・マストロヤンニを想定して書かれたこの役を演じることにためらうことは少しもなかった。

「この役は初めマストロヤンニが演じるはずだったんだ。でもマストロヤンニは役が気に入らなかったのか、それともスケジュールが合わなかったのか理由はわからないが、結局ズルリーニは私のところにオファーしにローマまでやってきたんだ。
そのとき私は『暗殺者のメロディ』を撮影中だったんだが、私は彼の依頼を初めは少し疑心暗鬼に感じていたので、いったん家に帰ってから脚本をよく読んでみた。
午前3時までいっきに読み終えて私はこれをやるべきだと、すぐさま決意したんだ。」

アラン・ドロンはこの作品にとても熱意を持って臨み、彼の制作会社であるアデル・プロダクションで資本参加をすることまで決断した。
彼はいつも演じてきた刑事やヤクザとは異なる役作りに大いに励み、教養のみを頼りに自身の人生を傍観者のようにしか見ようとしない絶望的な貴族を演じた。

「『高校教師』は何よりも二つの理由で大いに楽しませてもらっているよ。
私はこの作品でギャングスターの役柄から抜け出して、カミユの『異邦人』の主人公のようなキャラクターを演じることができている。
『異邦人』出演のオファーは残念ながらいろいろ考えた末に断ったんだけどカミユは私の好きな作家だよ。
『高校教師』の主人公もまた世の中から取り残された“異邦人”だし、こういうテーマに私は常に魅せられ続けてきたんだ。」

ドロンはさらにこの映画で新しい容姿を見せてくれている。
古いコートを着つづけ、背筋を曲げ、煮え切らない態度で歩き回る。ドロンはこんなくたびれた外見を作ることに喜びを感じていた。

「この人物の外見を創造する作業はとても素敵な経験だ。
無精ひげをはやし、歩き方は小またで、だぶだぶのローデンのコートを着て、始終タバコをくわえている。
外見はこんな姿でもロマンチックな佇まいを常に保っていて映画の雰囲気を壊すことはない。
まるで人々から愛されたジェラール・フィリップが主演した映画のようだよ。」

-----------------------------------------------------------

UN ROLE à CONTRE-EMPLOI POUR DELON

Le Professeur est la première tentative de Delon pour rompre avec les rôles qu'il incarne habituellement et écorner un peu son côté “papier glacé”.
Le comédien. qui connaissait déjà Valerio Zurlini par l'entremise de Visconti, n'a pas hésité une seule seconde à endosser ce rôle destiné à l'origine à Marcello Mastroianni:
" C'est Mastroianni qui devait le faire, il ne voulait pas ou ne pouvait pas, et Zurlini est venu me le proposer à Rome quand je tournais Trotsky.
J'étais un peu méfiant d'abord, je suis rentré chez moi pour lire le script.
Je l'ai fini à trois heures du matin et j'ai su tout de suite que j'allais le faire.

Alain Delon est tellement enthousiaste qu'il décide de cofinancer le long métrage via sa société Adel Productions.
Il s'attelle ensuite à la construction de son personnage qui est à l'opposé de ses habituels rôles de flics ou de truands.
Il campe un aristocrate désespéré dont la culture est le seul refuge et qui assiste comme un spectateur à sa propre vie :
“Le Professeur me plaît à deux titres surtout : j'y sors des personnages de gangsters et je retrouve là quelque chose du caractère de L'Étranger, que j'ai refusé de tourner toute réflexion faite, bien que le héros, ou anti-héros. de Camus me passionne.
Le professeur est aussi un "étranger" dans le monde: thème qui m'a toujours séduit et soutenu " .

L'acteur a adopté, pour l'occasion, une nouvelle silhouette.
Mal rasé, vêtu d'un vieux pardessus qu'il ne quitte jamais, le dos voûté et la démarche hésitante, Delon a pris visiblement beaucoup de plaisir à cette composition :
“Moi je trouve sans modestie, que la composition du personage était formidable, mais le reste, la barbe, les pieds un peu à l'intérieur, le loden trop grand, la cigarette, ça casse pas l'image, c'est romantique, c'est un peu l'école Gérard Philippe, celui qu'on a envie de prendre dans ses bras.

---------------------------------------------------------------------------
Comments (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LE PROFESSEUR (2)

2016-03-14 | THE 70'S CINEMA
フランス版DVDアシェット・コレクションズのライナー・ノーツからこの作品の興味深いエピソードをご紹介します。

-------------------------------------------------------------

【ロマンチックで絶望的】

アラン・ドロンはヴァレリオ・ズルリーニ監督作『高校教師』の中でそれまで身に着けてきていた重い甲冑を脱ぎすてた。
それまで演じてきた刑事やヤクザとは大きくかけ離れ、アラン・ドロンは一人の女学生の魅力の虜になる教師の役を演じているのだ。

【相続人】

『高校教師』のストーリーは、ヴァレリオ・ズルリーニという長い期間に亘って成熟してきた作家としての一つの到達点であった。
彼はアフリカ大陸で起こった過去の2つの出来事を回顧し、その地に赴任したイタリアの貴族のファミリーの冒険劇を描こうとしたのである。
彼の頭の中には巨大なイタリアのファミリーがアフリカで運命を切り開いていく物語のアイデアがまず初めに浮かんだ。

第1のエピソードは1896年、アドゥーアの戦いに参加したイタリア人の主人公が、戦争終結後もアフリカにそのまま残り、そこに小さな個人的な帝国を築くというストーリーである。

第2のエピソードは1935年から1936年にかけてイタリアがエチオピアを支配していた時期のもので、エチオピア人の反抗による最初の動乱を描いたものであった。

第3のエピソードは、ファミリーの最後の末裔がエリトリアで死亡した自分の叔父の遺産を集める長い旅の道のりを描くもので、この亡き叔父というのはファミリーの中でも絶対的な権力を持つ人物であった。
そしてこの最後の末裔はアフリカに住むことを拒絶した。なぜなら彼は今やもう根無し草の人間であったからだ。
彼が自分の過去を探っていく旅は、正に彼の記憶を辿る旅であり、完全に変わってしまっていた彼の良心を呼び起こすものとなった。

この最後の第3のエピソード、これこそが“La Prima notte di quiete”(イタリア版の原題=「静寂の最初の夜」)であった。

ズルリーニはこの全てのエピソードを映像化することは断念せざるをえなかったが、ダニエル・ドミニチ出生に関する要素をいくつかほのめかすことによって、この最終エピソードを映画化するだけでも十分に満足であった。

ただドミニチがモガディッシュで勉学を学んだことを劇中で観客が知ったとしても、彼が貴族の末裔であることをはっきりと理解できるまでには映画の最後のシーンまで待たなければならない。

宗教的で芸術的な出展を詰め込んで『高校教師』は“文学映画”としての資質を間違いなく備えている。
監督は2つの古典文学を映画の中に隠喩的に使用した。

ひとつめはゲーテの格言から、イタリア版の題名となった“La Prima notte di quiete”で“死は最初の静寂の夜だ”を意味する。

二人目の作家はスタンダールで、彼の小説の題名“Vanina Vanini”から映画に出てくるヒロインの名前をヴァニーナとした。
さらに貴族と庶民のカップルという設定もこの小説のストーリーから連想させるものであったのだ。

-------------------------------------------------------------

Romantique et désespéré.

Alain Delon tombe l'armure dans Le Professeur sous la direction de Valerio Zurlini.
Bien loin des personnages de flic ou de truand qu'il interprète souvent, Alain Delon incarne ici un professeur particulièrement sensible au charme d'une de ses étudiantes.

L'HÉRITlER

L'histoire du Professeur est le résultat d'une longue maturation de Valerio Zurlini.
Le réalisateur s'était rendu par le passé à deux reprises sur le continent africain et voulait initialement retracer les aventures d'une famille aristocratique installée de l'autre côté de la Méditerranée:

“Il me vint alors à l'idée de raconter l'histoire d'une grande famille italienne qui va chercher son destin en Afrique :
le premier épisode se serait situé en 1896 avec un protagoniste qui participait à la campagne militaire d'Adoua, qui se fixait en Afrique et qui y fondait un petit empire personnel;

le second episode, qui se passait en 1935-1936 au moment de l'occupation italienne de l'Êthiopie et de la naissance des premiers ferments de révolte des Éthiopiens, avait pour protagoniste un personnage qui pouvait être théoriquement le père de Daniele Dominici de La Prima notte di quiete;

le troisième épisode était le long voyage que le dernier héritier de la famille faisait en Erythrée pour recueillir l'héritage d'un oncle décédé, ultime représentant de la puissance familiale,
Ce dernier héritier refuse de se fixer en Afrique parce que désormais c'est un déraciné.
Ce voyage dans le passé devient un voyage dans sa mémoire et dans sa conscience complètement changée.
Le final de cette troisième partie, c'est La Prima natte di quiete.

Les moyens faisant défaut à Zurllnl pour mettre en scène toute cette epopee, il se contente de ce final, ne gardant que quelques éléments suggérant les origines de Daniele Dominici.
Si l'on apprend qu'il a enseigné à Mogadiscio, il faut attendre l'issue du film pour comprendre qu’il appartient à une famille aristocratique.

Truffé de références religieuses et artistiques, Le Professeur fut qualifié à juste titre à sa sortie de “film littéraire”.
Le réalisateur y fait allusion principalement à deux auteurs classiques.
Le premier est Goethe à qui il emprunte un vers pour le titre italien La Prima notte di quiete, ce qui signifie “la mort est la première nuit tranquille”.
Le second écrivain est Stendhal, dont la nouvelle Vanina Vanini lui a inspiré le nom de la jeune Vanina et le couple aristocrate /roturier.

------------------------------------------------------------------------

映画の中ではドロンさん演じる主人公の過去が断片的に描写されていて、いささかわかりにくい場面が何度か出てきます。
しかしこの映画の原作がもともと3世代にわたる大河ドラマの最終章である、ということを理解して見直しますと、なるほどと感じさせられます。
古くは『エデンの東』、最近では『スター・ウォーズ』などと同じように、この『高校教師』も原作のもっともドラマチックな部分が映画化された作品なのでした。
Comments (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LE PROFESSEUR (1)

2016-03-13 | THE 70'S CINEMA
開催まであと2週間余りとなりました3月26日(土曜日)のアラン・ドロン映画祭にて午前11時より上映される『高校教師』を今回から4回に分けて取り上げます。

(2008年3月3日の過去記事の内容を画像含めてリニューアルしました。)

この作品はアラン・ドロンさんが2007年に電撃来日してご出演されたテレビ番組「SMAPXSMAP」の中で、ご自身が選ぶベスト5作品の最後の1本にあげていらっしゃいます。

本作は1972年のドロンさんが37歳の人気絶頂の頃の作品で、60年代後半ハリウッドからフランスへ帰国以降、既に素晴らしい作品群(あえてもうここでは書く必要はないですね。)に主演しつづけており、並みの人間であれば、この達成感に満足して少しばかり休養しようとするところなのでしょうが、我等がドロンさんはさらなる飛躍を期して新しい分野の作品に挑戦し、結果として(興行面は別として)これが大成功することとなりました。

イタリアの小都市であるリミニを舞台とした本作は、この街の佇まいが準主役と言ってもいいほど重要なファクターとなっており、荒れた海と潮風にさらされている港や曇った街並みは、主人公の孤独と陰鬱な心の内面を映し出す心象風景となって観客の目に焼きついてきます。

ドロンさん扮する主人公ダニエレ・ドミニチは、地元の高名な貴族の家系の末裔であるにもかかわらず、過去に起こした“ある事件”が原因で生家から離れ、教師をしながら夜毎ギャンブルで金を使い果たし、家に帰ってくれば愛人と堂々と電話で連絡を取り合っている"やさぐれた"妻がいる、というかなり複雑な環境に置かれた人間ですが、この人物をドロンさんが演じると実に奥深い哀愁に満ちた人物になるから不思議です。正にこれこそがスターの輝きというものなのでしょう。

臨時教師として赴任した高校で運命的に巡り合った女学生(とは言っても日本では大学生と同じ年代のようです。)との恋愛に苦悩するドロンさんの姿というのは、それまでのフィルムノワールや犯罪映画で見慣れてきたニヒルでクールなドロンさんとはまた違った魅力があり、その愛する女性と金持ちの愛人がクラブで抱き合って踊っているところを黙って見ているダニエレが瞳の中にうっすらと涙をにじませる場面は、ドロンさんがそれまで見せたことのなかった演技です。

またこの映画では2006年の『007カジノ・ロワイヤル』でも印象的な演技を披露したジャンカルロ・ジャンニーニが珍しくドロンさんと共演しています。彼の演じる役柄はドロンさん演じる主人公ダニエレに対してややホモセクシャルな感情を持って接しているように感じさせますが、ダニエレは彼のそういった気持ちを気付きつつも、それをさらりとかわして、あくまで友情として受け入れています。このあたり、それまでフランスのフィルムノワールで男と男の友情を重んじた世界に身を置いてきたアラン・ドロンの面目躍如といったところで、どろどろの愛憎が渦巻く本作の中にあって、唯一すがすがしい気分にさせてくれる部分です。

学校の壁にかけられている絵画に一瞬まなざしを投げかけたり、愛する女性の金持ちの愛人宅の悪趣味な装飾物に無言で非難の視線を投げかけたり、随所に彼が名家の出身であるところを暗に匂わせる演出とそれに答えるドロンさんの演技にも注目してください。前述のジャン・カルロ・ジャンニーニが『イノセント』で、恋人役のソニア・ペトロヴァが『ルードヴィッヒ』でこの後ヴィスコンティ映画に出演することや、同じく友人役のレナート・サルバトーリと『若者のすべて』で共演していることなども考えあわせますと、このドロンさんの元貴族を思わせる演技はどこかルキノ・ヴィスコンティの影というものを感じ取ることができます。

余談になりますが、私が大学3回生のとき、受講中の学生全員に自己紹介文を書かせて、また突然シェークスピアの詩を朗読しながら教室内を歩き出したりする強烈な個性の英文学の教授の講義を受けていました。その当時は何とも不可思議な気分でこの講義を受けていたものでしたが、数年後この映画を初めて見たとき、「ははーん、あの教授はこの映画のドロンさんのまねをしていたのだな。」ということに気づき、その時始めてこの個性的な教授に親近感を覚えたものでした。

メイナード・ファーガソンのトランペットの演奏が耳に焼き付いて離れないこの映画のサントラCDにつきましてはこちらでご紹介していますのでご覧ください。
『Le Professeur』
Comments (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LES SEINS DE GLACE (1974)

2013-01-31 | THE 70'S CINEMA
1974年にアラン・ドロンさんが客演という形で出演された「愛人関係」をご紹介します。

1955年にアメリカの推理作家リチャード・マシスンが発表してほぼ20年後に、
製作者のレイモン・ダノンが原作の映画化権を取得し、彼は友人のドロンさんに出演をオファーします。
依頼を受けたドロンさんは
「OK、ただしこの作品はミレイユとの共演じゃないと駄目だ。」
と回答するものの、ミレイユには一切の相談はなく、
それを聞いた彼女はプレッシャーを感じながらも
「きっとアランは二人の共演の機会を探していたんだと思いました。」
と後に取材に答えています。

製作者のダノンはこれを承諾し、
それまでのイメージとは正反対のこの役柄にミレイユは挑んでいくことになりました。
そして彼女と13作品の演出を手がけていたジョルジュ・ロートネルにダノンは監督を依頼します。

「1973年12月1日に全てが決まりました。
私は原作を読んでいませんでした。一晩で原作を読み上げ、次の日には脚本の台詞を覚えていきました。」

ジョルジュ・ロートネルはそれまでコメディーの監督として知られていたが、
興行的に成功した作品に恵まれておらず、今回のようなスリラー作品を監督することは挑戦でした。

ミレイユはこう語っています。
「彼は長い間ためらっていました。人間ドラマは彼の得意分野ではなかったのです。
しかし私がこのようなファム・ファタールな役柄を演じるなら彼に演出をまかせたいと希望していることを彼は知っていました。
だからこのリスクから逃げる、などということは私が許しませんでした。
それで彼はようやく撮影に飛び込んで、ホリデー・シーズンを休むことなく取り組んでくれたのです。」

一方の監督のジョルジュ・ロートネルはこの原作本が嫌いで、
弟と一緒にかなりの部分を変更してしまった、と告白しています。
舞台がカリフォルニアからリビエラに変わったことや、作品に人間ドラマの色合いを付け足したと語っています。

--------------------------------------------------------------------------------------

これまでこの作品については上記の通りミレイユ・ダルクが主演でドロンさんは脇役、
という固定観念を持っていた為、私自身あまり重きをおいていなかったのですが、
改めてこの作品を見返しますと、脇に回っていながらも、ドロンさんの演技は完全に場をさらっています。

当時38歳という弁護士の役にしては若年齢であったにも関わらず、これが実に様になっていますし、
時折見せるダークな表情も印象的。

ミレイユ演じる女主人公に見せる異常ともいえるほどの愛情の注ぎ方も
当時の二人の実生活のことをよく知る観客たちにとってあまり不自然に写らないから不思議です。

ラストシーンは後の北野武監督作品『Hana-bi』のラストシーンにも受け継がれているように感じますが、
本作は銃声が1発だけなので、その後ドロンさんは自首していったのか、という見方もできないではありません。

何はともあれ、70年代のドロンさんの良さを味わえる作品としてもっともっと評価してもらいたい、これは至極の一品です。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

UN FLIC (2)

2012-04-18 | THE 70'S CINEMA
主演スターと、監督との間にいくつかの意見の衝突があったにもかかわらず、
『リスボン特急』は究極のメルビル映画であることに変わりはなかった。
残念ながら撮影終了直後にメルヴィルは亡くなってしまったが。

『リスボン特急』の原題「あるデカ」: このタイトルはプロジェクトの独創性を表している。
今回初めて、メルビルはカメラを警官に向けている。
また、アラン・ドロンは、初めて法律を守る側の人間を演じている。
そして彼は非常に魅力的な警官となっている。

メルビルはすでに自身が監督する犯罪映画を悲劇の領域にまで発展させてきていた。
『サムライ』と『仁義』において、スター(=アラン・ドロン)は氷のように冷たく、
また名誉というものに導かれた絶望的な無法者をくっきりと描き出していた。
メルヴィルがドロンに対して行った要求や、厳しい態度、あるいはビジョンといったものを通じて、
ドロンはメルヴィルが自分の二人の師匠であるヴィスコンティやクレマンと同じレベルであると感じていた。

1971年の初頭、ステットソン帽を被った男(=メルヴィル)は彼の新規プロジェクト"Nuit sur la cité"について俳優(=ドロン)に初めて話した。
そして彼に対して警官を演じたいか、それとも犯罪者を演じたいか選択する余地を与えた。
ドロンにとって当時はまだ自分がギャングスターとして有名だったので、刑事を演じるというのは彼にとっても挑戦であった。
ただし彼はまだそのときエドワード・コールマン刑事の役が最終的には脇役的なものになることを知らされてはいなかった。

にもかかわらずアラン・ドロンは刑事の役に目を付けた。
「私は、警官役の方を選んだんだ。またいつものギャング役を演じることによって非難されることのないよう、体制側の役を選んだのさ。」
この劇的な逆転はあったものの「警官であれギャングであれ、名前が違うだけ」で、
とにかく「サムライ」との区別をつけるためアランドロンは体重を五キロ増やして自身のキャラクターを物語に同化させたのだ。

ギャングの役を演じる俳優は、メルヴィルがアメリカのハリウッドからリチャードクレンナを呼び寄せた。
彼が『暗くなるまで待って』においてオードリーヘップバーン演じる盲目の女性を襲う悪役を演じたことが監督の目にとまっていたのだ。

またこの作品の新しい要素として、トリュフォーの“突然炎のごとく”のヒロインのような極めて重要な役柄の女性が存在した。
その女性とは彼の妻のフローで、彼女が頑なに女性を拒絶しようとする夫の世界を批判する、というアイデアがメルビルの頭の中に浮かんだのだ。

メルヴィルはこう告白する。
“私はエロチックな映画が嫌いで、本能的に女性の役の存在に考えさせられてしまうんだ。
私は『リスボン特急』の中で、こういう自分の考え方に対して戦った。
そして私は最終的にカトリーヌ・ドヌーブ演じる役を核としてその周囲で全ての物語が構成されていくようにしたんだ。" 

他のキャストについては、メルビルはフランスの映画からポール・クローシェやアンドレ・プッス 、
イタリアからリッカルド・クッチョーラ(彼はドロンとは『ボルサリーノ2』で共演している。)、
そしてアメリカからはマイケルコンラッドがメルヴィルによって集められた。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------


Malgré quelques petites dissensions entre la star et son metteur en scène,
UN FLIC n'en reste pas moins une œuvre remarquable et d'autant plus émouvante qu'elle demeure l'ultime film de Melville, décédé peu après la sortie.

Un Flic :  le titre stigmatise l'originalité du projet.
Pour la première fois, Melville centre sa caméra sur un policier.
Pour la première fois aussi, Alain Delon va interpréter un représentant de la loi.
Lui qui a si souvent interprété de séduisantes canailles devient un flic,

Melville déjà l'avait fait changer de registre en tirant sa criminalité vers la tragédie.
Dans Le Samouraï ou Le Cercle Rouge, la star campait des hors-la-loi froids et désespérés, allant à leur perte animée par un sens certain de l'honneur.
L'exigence, la rigueur et la vision melvillienne ont bluffé Delon en ces deux occasions, au point qu'il cite son nouveau pygmalion au même rang que ses maîtres Visconti ou Clément.

Quand, au début de l'année 1971, l'homme au Stetson évoque pour la première fois son nouveau projet
-alors baptisé Nuit sur la cité -à l'acteur il lui laisse pourtant le choix :veut-il interpréter un flic ou un voyou ? 
Il ne cache pas que pour lui aussi, célèbre pour ses portraits de gangsters en gabardine, axer le récit sur la police est un défi. 
On ne sait pas si le role du commissaire Édouard Coleman est alors aussi discret que dans le montage final.

Toujours est-il que c'est celui sur lequel Alain Delon jette son dévolu.
“J'ai choisi le flic pour que l'on ne m'accuse pas, une fois de plus, de jouer toujours les gouapes ou les voyous. 
Cette fois-ci, je suis de l'autre côté de la barricade'.”
Et de balayer l'ajustement dramatique occasionné par ce revirement : “flic ou gangster, seule l'appellation change.” 
En tout cas, afin de marquer clairement la distinction avec le Samouraï, Alain Delon se leste de cinq kilos supplémentaires, histoire de donner de l'étoffe au personnage.

Pour tenir le rôle du voyou, cet amoureux d'Hollywood qu'est Melville fait appel à l'Américain Richard Crenna,
alors auréolé de sa performance de méchant dans Seule dans la nuit où il persécutait une jeune aveugle jouée par Audrey Hepburn.

Un des éléments inédits est aussi la présence d'un rôle féminin tout à fait crucial, censé apporter à ce polar un élément à la ≪Jules et Jim ».
C'est sa femme, Flo, qui lui en avait soufflé l'idée en fustigeant la tenace misogynie de l'univers de son mari à la lecture du scenario.
“Cela tient, confie-t-il alors, à ce que je déteste le cinéma érotique et qu'instinctivement la présence d'une femme m'y fait penser.
J'ai lutté contre cette réaction dans Un Flic et j 'ai au demier moment glissé le rôle de Catherine Deneuve autour de laquelle finalement toute l'histoire s'organise'.”

Pour le reste de la distribution, Melville sollicite des valeurs sûres du cinema français (Paul Crauchet André Pousse),
italien (Riccardo Cucciolla que Delon recroisera sur Borsalino & co) et américain (Michael Conrad).

--------------------------------------------------------------------------------------------------

ドロンさんが初めて刑事役に取り組んだ『リスボン特急』のフランス版DVDのライナーノーツの一部です。

すでにご存知の方も多い情報ですが、ここでドロンさんは体重を5キロ増やして撮影に臨んだことが書かれています。
近年のテレビドラマ『アラン・ドロンの刑事物語』でもドロンさんはウェイトを増やしていましたが
このときの役作りのことがひょっとして頭にあったのでしょうか。

結局この作品での自分の役柄の処遇について不満を持ち、ドロンさんはメルヴィル監督との決別を迎えることになるわけですが、
そのあたりのエピソードについては、また別の機会でご紹介したいと思います。

Un flic (1972)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MORT D'UN POURRI (5)

2011-07-10 | THE 70'S CINEMA
『チェイサー』の監督ジョルジュ・ロートネルの
この作品に関するインタビューを翻訳しましたのでお届けします。

------------------------------------------------------------------

"この作品は殺人事件やミステリーが絡んだアクション映画だ。
そこには良い人間と悪い人間たちとの間に起こるスリラーもある。
一方で非常に普通の人間に近い登場人物たちが活躍する自然主義的なフィルムでもある。
私はラフ・バレの小説の世界を忠実にスクリーンに映し出そうと思った。
また私はドロンにいつも彼が演じる人物とは異なる役柄を演じてもらいたかった。
私は彼に警官になってほしくないし、ギャング役も望まなかった。
「コンドル」でのロバート・レッドフォードのように、運命のいたずらによってさまざまな攻撃を受けるが、
それを一方で何とか切り抜けようとする、ドロンが演じるのはそんな役柄にしたかった。

ドロンは、このスクリプトを気に入ってくれていた。
他のみんなと同じような服装で"日常生活での紳士"を映画の中で演じるのを彼は喜んでいたし、とてもリラックスしていた。
だが彼が自分のお気に入りのディオールの衣装を忘れることもまたそう容易ではなかった。
いくつかの抗議もあったが、もちろん、彼は最終的に私を信頼してくれていた。
私はプロデューサーとしてのドロンに直面すると緊張することはあったが、監督と俳優として彼と接するときはそんな必要はなかった。

私たちはしばしば、なぜ主人公ががこういう行動をとるのかという理由を正さなければならなかった。
私たちは、脚本に書き込まれたレベルを超えてはいけなかったし、
脚本が設定したシチュエーションに映像を乗せなければならなかった。

そのようにして脚本に書かれていたモンパルナス駅のシーンだったが、ドロンはかつてそこに足を踏み入れたことがなかった。
ドロンは駅の改札口で何度も撮影を繰り返して自分が注目を浴びすぎるのを極端に恐れていた。
そこで私たちは綿密な計画を立てた。
私たちが"アクション!"と言うと、ドロンは彼の頭の中で自分の計画通りに演技を行い、
一回でその場面を撮り終えたのだった。 "

"しかしながら二つの場面で、私たちは衝突した。

私たちはドロンとステファンヌ・オードランが一緒に車の中にいるシーンを午前中に撮影しなければならなかった。
アランは私の計画に疑問をなげかけてきた。
私はパリの街角で撮影することを彼に語った。
彼は人気のないブローニュの森の近くの通りで撮影すればいいではないかと言った。
私はノーと言い、リヴォリ通りで撮影をすると言った。
彼はうめき出した。.
私たちは、リヴォリ通りから撮影を開始した。
パレロワイヤルの庭園内には公園があり、アランが車から降りると、
そこに来ていた日本人の観光客の団体とばったり鉢合わせしてしまった。
全員が彼のファンだ!
彼らは、ドロンの写真を撮りに群らがった!
彼は怒ってしまった。

私たちは彼を車の中に避難させた。
私たちは、ブロックの周りに移動して撮影を再開した。
私たちは録音した台詞を聞くために戻ったが、そこで私たちはドロンが撮影の合間に言ったことを聞く。
スピーカーから聞こえてきたのは、リヴォリ通りを歩くすべての通行人の目の前で、私はドロンによってバカモノ呼ばわりされていたのだ。

私たちの2度目のけんかは、より深刻なものだった。
しかもかなり愚かなものだった.. 。
彼は犬への愛情が厚く、撮影中であっても、常に彼のかかとのそばに置いていた。
犬の名前はジャドーで、大きくて怖い犬だった。
私は彼の撮影車に行ったとき、ドロンは私にこう言った。
「ジョルジュ、入りたまえ。怖がらなくてもいいさ。
でも両手はポケットに入れておいたほうがいいぜ...」

ある日、私たちはドロンとミシェル・オーモンの会話の撮影を行った。
ミシェルは、犬を怖がっていた。
カメラマンにとっては、さらに悪いことに、撮影不能に陥ってしまった。
二人の俳優の間で、その犬のしっぽが常にそこに写ってしまうからだ。
私は犬をよそへ追い払おうとした。
するとドロンが私に何か言う、私がまたそれに言い返す。
我々は、互いに興奮した。
そしてドラマが起こった。彼が帰ってしまった.のだ。

ミレイユ・ダルクから翌日の朝に電話がかかってくる。
「ジョルジュ、あの騒ぎはいったい何なの?二人とも子供のようだわ。
あなたたちお互いに愚かすぎます。何やってるのかしら!」
結局大笑いでこのけんかは終わったんだ..."

-------------------------------------------------------------

“C'est un film d'action, avec du mouvement, des meurtres, une énigme.
Un film policier avec des bons et des méchants.
Un film naturaliste aussi, avec des personnages très proches du commun des mortels.
J'avais vraiment envie de porter à l'écran le roman de Raf Vallet (alias Jean Laborde, voir encadré ci-contre).
J'avais également envie de tourner avec Delon en lui apportant un role different de ses personages habituels.
Je ne le voulais pas flic.
Je ne le voulais pas gangster.
Je voulais qu'il soit pris dans un engrenage terrible,qu'il subisse tous les coups du sort , tout en essayant de faire face, un peu comme Robert Redford dans Les Trois Jours du condor.

Delon a aimé le scénario.
Il lui plaisait de devenir pour un film un “monsieur de tous les jours ",habillé comme tout le monde, décontracté au possible.
Pour la garde-robe, n'a pas été facile de lui faire oublier son cher Dior.
Après quelques protestations bien sûr, il a fini par me faire confiance.
J'avais un peu peur de me retrouver face au Delon producteur, mais ce dernier n'avait d'exigences qu'en tant qu'acteur.

On devait souvent justifier pourquoi on lui faisait faire ceci ou cela.
On ne le dirige qu'au niveau de l'écriture.
Il faut l'embarquer dans des situations où il sera canalisé.

Ainsi la scène de la gare Montparnasse: Delon n'y avait jamais mis les pieds.
Comme il craignait que des répétitions dans le hall attirent trop l'attention, je lui avais fait un plan avec des repères.
Lorsque l'on a dit “Moteur !.”
Delon est parti avec son plan dans la tête et a fait tout son parcours en une seule prise. "

"A deux reprises, cependant, nous nous sommes heurtés.

On devait aller faire le matin une vue de voiture travelling où Delon conduisait avec Stéphane Audran.
Alain me demande où l'on va.
Je lui dis qu'on tourney dans les rues de Paris.
Il me demande pourquoi pas au bois de Boulogne dans une rue déserte.
Je dis non, on va tourner rue de Rivoli, en pleine circulation.
Il commence à râler,..
On part rue de Rivoli.
On se gare dans les jardins du Palais Royal. 
Alain sort de la voiture et tombe sur un car de Japonais. 
Tous des fans!
Ils se ruent sur lui, séance de photos!
Il était énervé.

On le met dans la voiture.
On commence à tourner en faisant le tour du pâté de maisons.
On avait un retour de son pour entendre les dialogues, mais on entendait aussi ce qu'il disait entre les prises.
Et là, dans un haut-parleur, rue de Rivoli, devant tous les passants, je me faisais traiter de con par Delon.

On a eu une deuxième fàcherie, plus grave.
Pour un truc idiot.. .
Il avait une passion pour son chien, constamment sur ses talons, même sur le plateau.
Il s'appelait Jada, c'était une terreur, un malinois.
Quand j'entrais dans sa caravane.
Delon me disait :”Entrez Georges, n'ayez pas peur, mais gardez vos mains dans vos poches...”

Un jour, on tournait un dialogue entre Delon et Michel Aumont.
Michel avait peur du chien.
Quant au cadreur, histoire de lout arranger, il ne pouvait pas tourner.
Entre les deux acteurs, il y avait toujours la queue du chien qui bouqeait…
J'essaye de faire dégager le chien.
Delon me dit un truc, je lui réponds, etc.
On était survoltés.
Et puis ça a été le drame. il est parti ...

Le lendemain matin, coup de fil de Mireille Darc :
“Georges, mais qu'est-ce que c'est qu e ça ?
Vous êtes deux mômes tous les deux, vous êtes aussi stupide l'un que l'autre, y'a rien à faire!”
Ça c'est malgré tout terminé dans les rires...”


*Ces textes sont de "ALAIN DELON COLLECTION" par Hachette*
Comments (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MORT D'UN POURRI チェイサー(4)

2007-10-08 | THE 70'S CINEMA
フランス盤DVDのライナーノーツに、
この作品の製作にまつわる裏話が書かれていましたのでご紹介します。

------------------------------------------------------------------------

ジョルジュ・ロートネル監督の証言。

“確かあれは『Le Crocodile』という題名であったと思うが、
ルイ・ド・フュネスが主演する新作映画の企画に、
脚本家のミシャル・オーディアールと共に参加して、
二人で脚本を書き始めたときから物事が悪い方向に向かいだしていた。
当初私たちはプロデューサーが破産の危機に瀕しているなどとは全く予期していなかったんだ。
ルイ・ド・フュネスは私たちが書いた脚本を気に入らないと拒否しつづけ、
挙句の果てに私たちを雇ったプロデューサーが仕事を放り出して逃げてしまったのだ。

製作スタッフの一員であったという理由から私は法廷に呼ばれ、
自分の行ってきた仕事について説明しなければならなくなった。
私が裁判官の前に出廷したちょうどそのときに、
何とアラン・ドロンの顧問弁護士であるモアチという人物が突然法廷に入ってきて、
裁判官の耳元で二言三言ささやいたんだ。
そして瞬く間に私はこの破産した会社との関係から開放されたのだった。

この突然のどんでん返しの出来事から数時間後、
私はアラン・ドロンの事務所に招かれ、
映画『チェイサー』の企画に携わるようになっていた。
オーディアールもこの作品のプレ・プロダクションの後半にだけ参加した。”

---------------------------------------------------------------------

“もしこの作品が成功しなかったら、
私は俳優の仕事も映画製作の仕事もこれを最後にやめるつもりだ。”
アラン・ドロンは親しい記者にこう漏らしていた。
現実にこの作品への出資は半分しか集まっておらず彼は深刻な事態にあった。
彼はこれまでのキャリアで初めて資金難に陥っていたのだ。
実際この直前に主演した4作品では30万人の観客さえ集めることはできなかった。
それゆえアラン・ドロンは製作資金を全て自らの力で調達しなければいけなかった。

“『パリの灯は遠く』は『友よ静かに死ね』程度の観客動員しか達成できず、
『アルマゲドン』や『プレステージ』にいたっては大失敗だった。”
ドロンはこう“France Soir”誌に説明している。
“今度の『チェイサー』では私は新しい役柄を演じている。
筋書きもよくできているし、
何よりもたくさんの素晴らしい俳優たちに囲まれて演技をするのは今回が初めてだ。
これは大変居心地のいい経験であるけれども、それにかかるコストも膨大さ。
この『チェイサー』が成功するか失敗するかは多くのことに左右されるだろう。”

ドロンはこの映画のテーマである「腐敗」に大きく心を動かされた。
“私たちは今世紀に起こった、政治の「腐敗」だけでなく
あらゆる出来事に関しての「腐敗」について議論を交し合ったんだ。
そして正直であること、勇気を持つことこそが
「腐敗」に対処する最も有効なものだという結論に至ったんだ。
もっともそれらは現代では失われようとしているけれどね。”
ドロンはこういう観点に立って考えてみると
この映画は万人に受け入れられるものにはならないであろうと認識していた。
だが一か八か彼はよりリスクの少ないこの企画に乗り出したのであった。

“撮影の間中ずっとアランは資金的な苦悩に心を蝕まれていた。”
ジョルジュ・ロートネルはこう述懐する。
“彼は問題に直面すると突然かんしゃくを起こすんだ。
そうなると私はその暗雲が消え去っていくのを待つしかなくなるんだ。”
“その苦悩と言うのは主にプロデューサー・ドロンにとってのものではあったが、
俳優ドロンというのも必ずしも扱いやすい俳優というわけではなかった。”
そしてドロンが現場に来たときには全ての準備が整っている必要があった。
ロートネルはこう語った。
“撮影の合間に長い待ち時間があったりすると彼はいらだってしまうんだ。
「これは何だ?準備ができていないなら私がここに来る必要なんかないじゃないか。
私には無駄に過ごす時間なんて無いんだ!」ってね。”
“確かにドロンは直感的な俳優で、全ての力を1回の演技に集中させるタイプなんだ。
なので共演する俳優たちの演技がまだ不十分だなと感じるときは
私は彼らとだけでリハーサルをし、
彼らの演技の熱が高まったときに初めてドロンを呼ぶようにしたんだ。”

-----------------------------------------------------------------------
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BORSALINO (4)

2007-08-08 | THE 70'S CINEMA
計3回に亘って関連書籍からの抜粋をご紹介してきました。

改めてこの『ボルサリーノ』という作品について考察してみますと、
主人公、ロック・シフレディとフランソワ・カペラの生き方が
現実のドロンさんとジャン・ポール・ベルモンド二人の人生に
オーバーラップするようなところが多々あり、
見るたびに興味が尽きません。

特にベルモンドについてはこの『ボルサリーノ』を契機として
70年代から80年代は怒涛のヒット作品を連発していき、
もうこれで十分といったところで映画界から身を引いて
80年代後半から舞台の世界に飛び込んでいきます。
(『シラノ・ド・ベルジュラック』など)
それはまるでマルセイユの王様となったことに満足し
新たな未開の地へと旅立とうとしたフランソワ・カペラのようです。
幸い現実のベルモンドはカペラのようにはならず、
今もって健在であり、映画にも復帰のニュースも流れてきているのは
大変嬉しく思います。

一方のドロンさんはと言えば、
残念ながらこの『ボルサリーノ』の観客動員数を超えるような
メガヒット作品にはその後恵まれていません。(2007年現在)
しかしベルモンドが自分の得意分野の俳優業のみに身をおいて
その実力を発揮し続けていたのとは対照的に、
ドロンさんの方はプロデューサーとして映画作品全体の支配に注力し続け、
自ら大きなリスクを背負った生き方を選択していきます。
またそればかりでは満足することはできず、
映画以外のビジネスの世界にも進出するという、
これもまたロック・シフレディのような生き様を具現化していきます。

ドロンさんは頭の中でいつもベルモンドの姿を追いかけながらも、
常に違う土俵で、異なる観点で、大衆に満足を与える生き方を選択したのです。
そんなドロンさんにとって、ベルモンドが映画の世界から離れ舞台の世界に行ってしまったことは、
まるでカペラに去られたロックと同じ孤独感をもたらしたのであろうと推察します。
その数年後、ベルモンドの後を追うようにドロンさん自身も舞台の世界に復帰したことは
彼の孤独感を紛らわせる為でもあったのではないでしょうか。
その証拠にシアター・マリニーのドロンさんの舞台の楽屋の入り口のドアには
パリマッチ誌の記事で撮影されたベルモンドとのツーショット写真が貼られていたのです。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BORSALINO (3)

2007-08-07 | THE 70'S CINEMA
本記事の内容及び拡大画像にはネタバレを含みますので
映画を未だご覧になっていない方はスルーしてください。
この作品はどうしてもあのラストに言及しないわけにはいかないものですから
どうぞお許し下さい。

----------------------------------------------------------------

二人が新しい“マルセイユの王様”となった正にその時、
ロック・シフレディにとっては全てが始まりにすぎなかったが、
一方フランソワ・カペラにとっては全てが終わりとなってしまった。
野心家(=ロック)は全ての権力を自らの支配下に治めることができると確信した。
享楽家(=カペラ)は新たに自分の興味が持てる未開の地を探そうとした。
片方は街に君臨しようとし、もう片方は街を飛び出そうとした。
なぜならもうそこには自分の望むことは残っていなかったからだ。
そしてそれは彼に死という結末をもたらしたのだ。

驚くのは『ボルサリーノ』の二人の主人公のキャラクターを見たとき、
アラン・ドロン本人の個性がそのまま役に合致しているのに対し、
ジャン・ポール・ベルモンドのそれは本人の個性と全くかけ離れていることである。
例外として一致しているのは、
彼の人をからかうようなウィットのセンスと常にリラックスした物腰ぐらいである。

これはアラン・ドロンがこの企画の発案者であり、
全てを取り仕切っていたことを思い起こせば必然の結果であろう。
彼は役柄の個性をいかに自分自身に投影することができるかをコントロールできる立場にいた。

一方のベルモンドの方は脚本に書かれたこの役を忌み嫌っていた。
たとえ脚本家たちがカペラという人物をベルモンド本人に似せて書いていたにもかかわらずだ。
脚本を書いたクロード・ソーテやジャック・ドレーは
以前ベルモンドと一緒に仕事をしていたので、
彼の真の人間性よりも、観客が彼に対して持つイメージを優先させていたのは確かであった。

『ボルサリーノ』撮影中、二人のスターは
それぞれが自分の“徒党”と一緒にすごすことを好んではいたが、
それでもお互いに仲良くすごすことができた。
そして俳優として彼らは互いにその違いを見せ付けることに腐心したのであった。

そのことを共演女優のカトリーヌ・ルーベルが彼女の自伝の中で証言している。
“私はアランのことがとても好きです。彼は紳士でした。
一方ベルモンドはジョークばかり言ってました。
恐らく彼はドロンよりも演技力はあったと思いますが、やや自己中心的でした。
ジャン・ポールと一緒のときは私たちはいつもふざけていて、
誰かが止めに来ないと撮影が進まない状態にありました。”

このようにドロンとベルモンドは映画の中のキャラクターと同じように
撮影中の姿勢でも異なったスタンスで望んでいたのだ。

------------------------------------------------------------------
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BORSALINO (2)

2007-07-19 | THE 70'S CINEMA
前回の続きです。

-------------------------------------------------------------

『ボルサリーノ』はアメリカン・タッチのギャング映画であり、
当時このような分野では『シシリアン』や『さらば友よ』などにおける演技で
アラン・ドロンの方がより輝いていた。
一方のジャン・ポール・ベルモンドは『ある晴れた朝突然に』の主演で失敗して以来、
このようなジャンルの作品への出演はなかった。

二人のスターは『ボルサリーノ』の撮影中、いつも互いにいがみ合っていた、
などという記事をよく見るが、それは全くの誤りである。
彼らの「けんか」は撮影終了後の期間のみに起こったに過ぎない。
しかもそれはあくまで契約上の問題であって、長引くことなく和解した。
当時二人は互いに攻撃し合い、そして二人とも失敗していたので
新聞社が強力に仲裁に入ったのであった。

“二人がけんかしたのは事実だよ。”1977年にドロンは告白した。
“でもそれは決して映画の宣伝行為でもないし、
ましてや二人の気まぐれからのものでもなかった。
あれは私のミステイクによるところが大きかったんだ。
あるいはあの映画で私がプロデューサーでもあったということに対する
ジャン・ポールの無理解にも原因はあった。
つまり契約条項に関して二人の認識が違っていたということなんだ。
決して気まぐれなけんかなどではなく、それなりの理由があった。
ある日私たちは話し合って和解したんだ。
もうこのような愚かなことに時間を費やすことはやめようって。”
(Cine Revue誌 1977年11月28日号)

『ボルサリーノ』はもともとアラン・ドロンの発案により
実在したマルセイユの有名な二人のギャングの人生を描こうとしたものだった。
そしてドロンは企画当初からベルモンドを共演者として想定していた。
しかしプロジェクトが進行する途上で、
物語のモデルとなる二人のギャングたちの関係者たちからの圧力が加わり、
ドロンは史実のリアリティーを追求することは断念することになった。
そして企画そのものはフィクションへと移項し、
主人公二人のキャラクターは名前を変えて、
フランソワ・カペラとロック・シフレディとなったのだ。
ロックの名前は映画のスタッフであるマネージャーの名前から取ったもので、
映画の成功とともにその名前も知れ渡ることになった。

--------------------------------------------------------------------

次回に続きます。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする