二年半も続けた“私の町 吉備津”も、漸く書く材料が底を付いてきました。
最後に、吉備津彦命が生きていた時代は(紀元前200年頃?)どんな時代だったのでしょうか。それを覗いてみたいと思います。
そこで、まず、吉備津彦命の父君について調べてみました。吉備津彦命は七代孝霊天皇の皇子です。
「日本王代一覧」【享和二年発行】によると、孝霊天皇の時勢について、次のように記録されております。
まず、近江の国の地が裂けて大きな湖ができ、更に駿河の国の富士山が始めてできると伝えられています。さらに、この帝の時は、中国では秦の始皇帝の時で、除福が蓬莱山の不死の薬を求めて日本に渡り来て富士山に留まると伝えられていると書かれています。
秦の始皇帝はBC220年に建国しています。
現代の時代区分からすると、この時代はまだ縄文時代です。それは兎も角として、まあ、天皇を中心にした歴史しか残っていませんが(古事記日本書紀紀)。
この時代の特長として、まず、挙げられるのか長寿社会であったということです。吉備津彦命の父君孝霊天皇は御歳128で崩御されています。ちなみに、初代神武天皇も127歳で崩御されています。
この時代の長寿について、今では考えられないような面白いことがいっぱいありますので、明日から4、5回に渡って連載したいと考えています。
最後に、吉備津彦命が生きていた時代は(紀元前200年頃?)どんな時代だったのでしょうか。それを覗いてみたいと思います。
そこで、まず、吉備津彦命の父君について調べてみました。吉備津彦命は七代孝霊天皇の皇子です。
「日本王代一覧」【享和二年発行】によると、孝霊天皇の時勢について、次のように記録されております。
まず、近江の国の地が裂けて大きな湖ができ、更に駿河の国の富士山が始めてできると伝えられています。さらに、この帝の時は、中国では秦の始皇帝の時で、除福が蓬莱山の不死の薬を求めて日本に渡り来て富士山に留まると伝えられていると書かれています。
秦の始皇帝はBC220年に建国しています。
現代の時代区分からすると、この時代はまだ縄文時代です。それは兎も角として、まあ、天皇を中心にした歴史しか残っていませんが(古事記日本書紀紀)。
この時代の特長として、まず、挙げられるのか長寿社会であったということです。吉備津彦命の父君孝霊天皇は御歳128で崩御されています。ちなみに、初代神武天皇も127歳で崩御されています。
この時代の長寿について、今では考えられないような面白いことがいっぱいありますので、明日から4、5回に渡って連載したいと考えています。
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