私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

布袋和尚

2008-01-13 21:30:04 | Weblog
 七福神の中に布袋和尚が居ります。これって何でしょう。不思議な人です。この人だけが実在の人だそうです。唐の時代に実際に生きた人だそうです。常に大きな袋を携えて一生放浪生活をした乞食坊主であったと言う。どうして福神になったのか未だその訳は不明なのだそうですが、大きな布嚢を背負い、大黒様とその容貌が似て、常に笑みを浮べ飄々としてとらえどころのないどこか一般の人とはかけ離れたとてつもない大きな人物のように思われて馥郁たる香が立つごとくに見なされて福神に仕立てられたのではないかと思われます。
 何か得体の知れない現実にあるようなないようなボウとして実体をつかめないような寒山拾得のような人を、当時の江戸の人々が大いに好んでいたので、特に、布袋和尚を代表として選んで取り上げられたのではないかとも言われています。
 神様ですからそれでよかったのかもしれません。
 なお、この七福神で、日本人は戎様だけだというのも面白いですね。聖徳太子も誰も入っていないのです、何処までも実像のないおぼろげな虚像を七福神に仕立てた人の心が知りたいものです。 


 

吉備津神社の夷祭り

2008-01-12 11:07:33 | Weblog
 昨日まで、吉備津神社の戎宮では10日えびすのお祭りが行われ。「笹持って来い」という掛け声が聞こえておりました。
 このえびすさまと言えば「西宮の戎社」が、まず、頭に浮びます。それから、大阪今宮戎神社も、例の「ささもってこい」で知られていますが、このほか日本各地の大きな社寺境内に祭られているようです。
 厳島・石清水・東大寺・龍田・日吉・北野・鎌倉の鶴岡八幡宮・聖福寺・建仁寺門前の祠などがあり、平安の終わりごろから鎌倉にかけて、西宮の戎神を勧請(神様の分霊を他の地に祭る事)したと言われています。
 吉備津神社の「えびす宮」もやはり、これら各地にある戎の社と同じく平安の時代に勧請されたものと思われます。はっきりした証拠はないのですが吉備津では、栄西禅師(当時の吉備津神社の社家賀陽氏の子)が宋の国に留学する時、その船の舳に吉備津神社の戎宮の「えびす」の社額を掲げて行ったら、海も荒れることなく平穏に宋の国までたどり着く事が出来たと、言い伝えれています。もしそうであるなら、この時代に(平安の終わりから鎌倉の初めごろ)に吉備津神社にも「えびす宮」があったことになります。
 なお、元禄4年の吉備津宮の絵地図には、戎宮は出てはいません。
 どうしてこんなにも沢山の戎社が、日本各地に伝わったのかは定かではありませんが、平安の終わりごろから、この戎神の信仰が盛んになり、遠く西宮までお参りする手間を省いて、手軽に本宮まで参詣したつもりになる簡単な方法が各地の寺社に取り入れられたのではと考えられます。
 平安の終わりごろの「末法思想」の考えと関連があるのかどうかは分りませんが、身軽に自分達を守る福神が身近にいてほしかったのではなかったのかなと思います。それがたまたま「戎」という在来の日本の神になったのではと思われます。
 なお、元々この神は。大国主命であったと言われていますから、今みたいな商売の神様ではなく。戦いの神で悪を滅びしてくれる頼もしい神だったからではないでしょうか。何しろ大国主命の父は、あのヤマタノオロチを退治した素盞鳴尊ですもの。
 なお、このとき栄西と一緒に行ったされる弟の安覚もいました。当時、中国に留学するには、一人でも相当の費用が必要でもあったのですが、吉備津神社が、二人分もの大金を出せる裕福なお宮だったのは、母方の家も、当時一宮の吉備津宮のこれまた社家で、備前一体や吉備の穴海の海上権を支配していた、この地方の有力者でもあり、吉備の「穴海」の支配者でもあったように聞いています。財力は両親の家が共に出したのではと想像しています。

鏡開き

2008-01-11 17:06:15 | Weblog
 正月十一日は、いわゆる「かがみびらき」と言われる日だそうです。私の家では朝から小豆を水にかして(つけること)夜の小豆粥の用意をしています。
 15日の行事ではと、思い調べてみました。そんな古臭いものは今では殆ど廃れてしまってはいますが、昔はこの「小豆粥」の日は正月十五日で、鏡開きは十一日で区別されていたようです。
 鏡開きと言うのは、正月に、女は鏡台に、武士は具足に、商人は帳場にと、その家で一番大切な場所にそれぞれ鏡餅を供ええていたのを、十一日に下ろして切って食べていたのだそうでう。これがいわゆる「鏡開き」なのです。元々は武家での風習であったのが、元禄の頃より一般の家庭にも広まったと言う事です。
 餅を「キル」という言葉を嫌って、「キル」の代わりに「開く」と言う言葉が使われたと言う事です。
 それぞれの地方地方で違いがありますが、吉備地方では昔から注連縄を取るのは「14日年越し」とされ、十五日の「小正月」に左義長(さぎちょう=とんど)で焼き払っていました。古老の話しだと、この吉備地方でも、6日、14日、20日などに注連縄を取り外す事もあるようです。
 
 今年は、私は注連縄も早々と今日取り払い、日曜日に孫達と一緒に「とんど」をしようと思っています。まあ、こんな様に人の都合で日が色々に変わるのは「まあいいか」これでなくてはならないと言う法則みたいなものはないのではと、思いながら取り外しました。

寒行

2008-01-10 11:04:28 | Weblog
 毎年、吉備津の普賢院(真言宗)では、寒の入りの日(今年は6日)から1週間“普賢院の寒行”が行われます。午後7時から約1時間半、お堂の仏前に近隣の老若男女が集い読経三昧の勤行を行います。
 知らずして、兼好法師の
 「散乱の心ながらも縄床に座せば覚えずして禅定なるべし」
 の心を思います。
 ここで言う「禅定」とは、経を称え奉れば、何も思わないで「無我忘我」の中に引き込まれ、心がきれいになり、仏に近づことが出来る。言い換えると、極楽浄土の彼岸に到達できることだ、と、聞いています。
 特に、「南無大師遍照金剛」というくだりを100回も称える時など、そんな心持が強く感じられました。
 ただ、同じ「なむだいしへんじょうこんごう」と、何時終わるともなく何回も何回も、ただ、僧の声に合せるだけ、一切が「無」というか、そんな難しいことでなく、自分の声を出しているのかいないのかさえも分らないような、時々周りの人々の拝む「なむだいし」などと、いう声が耳に達し、「ああ今私も、仏の御前で、読経しているのだ」と、なんとなく思うだけ。言葉だけが無意識に打ち続けられ口を付いて、不思議なことなのですが、自然に出てきます。周りに点されている蝋燭の光のように、ゆらゆらと揺れるようにしておぼろげに、お堂全体が「なむだいしへんじょうこんごう」に包まれて、なんとも摩訶不思議な境地にしてくれます。「これぞ禅定か」と、心に横切ります。
 時々、本堂の奥にある不動明王の怪しげなる目がぎらりと、私に向く。
 至心に至ってない愚かなる己の心に恥じます。
 その時です。これこそ至心に読誦する人々の声に入り混じって、僧の打ち出す鐘の音が心地よく「ごーん」と軟らかくしかも静かなる明燈のように威厳に満ちて、お堂に純なるこれぞみ仏の声であるかのような響きます。

 1時間半の勤行でした。その後、しばらくの真西住職のお説教があって今日の寒行の終わです。明恵上人のお話を興味深くお聞きして、寒の夜風がピュウと吹き寄せ、通り過ぎるお参り帰りの人の線香の香が辺りに散らかるようにして流れてきます。なんだか大手を降りたいような心持に浸りながら、家路に着きました。
 

  
    寒の僧の 背中で誦ず 寒さかな
    寒の鐘 堂を流れて 人に生き    
    残り香を 夜寒に散らす 寒参り     亮

毘沙門さま

2008-01-09 11:45:31 | Weblog
 大黒夷の福神の次に挙げられるのが毘沙門さまです。
 聖武天皇の時代に、各国ごとに金光明四天王護国の寺として国分寺が建てられます。この金光明経を読誦すれば、または、この経を聞けば四天王がやってきてこれを護って、天下は安泰太平に、怨敵は退散し、飢饉疾疫も皆除去されて、長寿を保って、安楽を与えてくれると言うのである。
 この四天王のうち北の守り神が毘沙門天(多聞天)なのです。
(東大寺戒壇院の多聞天)
 元々この神は恐ろしい憤怒の形相をしておられる仏で、福神とはなりがたいような神ですが、7人の内、唯一の軍神(戦いの神)で、人々から貧乏神を退治をしてくれるありがたい神だとして福神の仲間入りしたものらしいのです。室町の頃が始まりだと言われていますが、七福神となったのは江戸になってからのことだそうです。
 
 まあ、考えてみれば、この七福神という福神は、人々の欲が作り出したその場限りのいい加減な作り話ではなかたのではないでしょうか。

夕陽に染まる

2008-01-08 15:16:46 | Weblog
 昨日7日は七草でした。
 誰かから頼まれたと言う事でもなく、毎年、孫を連れて「春の七草」を摘みに吉備津神社の近くの田圃の畦道を歩きます。寒に入ったとは思えないぐらいの今日の暖かさです。
 一歳7ヶ月の孫もヨチヨチと、それでも兄に負けないとでも思っているか、私の前を、及び腰ながら懸命に付いて行きます。
 保育園の孫は
 「せりなずなおぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ」
 と、口ずさみながら、その弟どころではありません、あちこちと畦道に、それこそ糸の切れたタコのごとくに、前後左右して奔放に飛び跳ねながら、七草を捜します。
 私はヨチヨチ坊やに歩を合せて、行くでもなく帰るでもなく、幼子達の行くままにつられて、初春の田中の小道を楽しみます。

 吉備津神社の松並木越しに、もう夕陽が西の山めがけて、ゆっくりと落ちていきます。列車もがたことと通り過ぎて、早春の吉備の野の夕方を彩ります。

 子らの行く 冬枯れ道の おちこちに 
           見えし七草 夕陽に染まる
 畦道の 端のおぎょうに 「あ あった」と
           幼子の微笑み 夕陽に染まる 
 よたよたと 畦道を行く 幼子の
           独立独歩 夕陽に染まる
 孫達の 一歩一歩に 歩を合わす
           じじいの白髪 夕陽に染まる
 通り過く 列車に向い ひたすらに
           両手振る孫 夕陽に染まる

大黒と夷二福神

2008-01-07 14:23:28 | Weblog
 一般に福神と言えば、日本人なら誰でも、まず、打出の小槌の「大国さま」と鯛釣りの「戎さま」を思い浮かべると思います。この他、毘沙門、弁天、福禄寿、寿老人、布袋和尚を合せて「七福神」として幸福を授けてくれる神として、江戸以降だと思いますが、みんなから尊ばれるようになったそうです。昭和の初め頃までは、このあたりでも、正月7日ぐらいの間に「七福神詣」をするのだ、と、いう話を古老から聞いた事もあります。それと「初詣」と、どんな関係があったのかなかったのかは分りませんが

 さて、
 この大黒さまと戎さまは、その生まれから言うと全然違った性質の神様のようです。
 大黒天というのはインドの生まれの神様で、特に食物の神・台所の神とし、古くから日本に仏教と一緒に入ってきて、像を造りお寺に飾られていました。(平安以前から)
 一方、夷神は、摂津の西宮の大国主西神社に祭られていた大国主命(大己貴ーおおなむちーだいこき)を呼んでいたのです。
 この大国ーダイコクや大己貴ーダイコキに近いものとして大黒にさせられたようです。さらに大黒天が何時も金嚢を手にしていることやわが国の大国様が兄達の持ち物を入れた大きな袋を肩に掛けていたという言い伝えが一緒になって、打出の小槌をもった福神「大黒さま」が作り出されたのだとも言われています。
 一方、夷様の方はというと、これも、元々は大国様であったのですが、それが何時の間にやら、そのお子である事代主命「三郎殿」に取って代わられたようです。
 大国さまがインドの大黒天になり大国=大黒として、福神として祭られるようになると、元々戎様であった大国は、そのお子様である三郎殿ー事代主命に成り代わって別な夷神として祭られるようになったということです。
 これらの神々が、最初に人々の信仰の対象になったのは平安の昔頃だったようですが、鎌倉室町を経て、その時代時代で、種々な形に変えられながら変遷して、現在のような姿になったのは江戸の中ごろからと言われています。
 
 尚、この他、この西宮の夷神がイザナギ・イザナミのお子様のヒルコだ、と言う説もあるようです。

敗者に謝る稀有な文化

2008-01-06 09:21:40 | Weblog
 今朝の朝刊に、『敗者に謝る稀有な文化』について、大森亮尚さんのお話が出ていました。
 この記事を読んで、「そうか、こう説明すればよかったのか」と思いました。

 昨日、小学二年と保育園の年長組の2人の孫を連れ、久しぶりにお山(吉備津彦命御陵)へお参りに行ってきました。明日から寒に入ります。「寒参り」と言う習慣が長く日本にはあったと言う事も教えたく、吉備の中山を縦走しました。御陵で二礼二拍して、吉備津彦神社を目指して、山道を、落葉をかさこそ、音を立てながら下ります。途中、『穴観音」、「タイボウの足跡」、「環状石」も見ながら。
 やがて、古墳の石室の上に建てある悲劇の大納言「成親」卿の供養塔が見えてきます。
 「どうしてここにも」
 と、いう質問を姉弟から受けながら、更に山道を下ります。
 お稲荷さんの祠もあり、それを通り越して直ぐ左に回った所にも4つの小さな祠が見えます。その中に、温羅神社がありました。
 目ざとくそれを見た孫達から、またまた、鋭い質問が飛び込んでおじじをびっくりさせます。
 「さっき聞いた温羅だが、鬼じゃろう。このあたりの人をいじめていた大変悪い鬼じゃろう。そんなに悪いことばあして、人をいじめていた鬼なのに、どうしてお宮さんをわざわざ作って、祭ってあるの」
 
 じじもたじたじです。
 「どうしてじゃろうかなー」
 と、ごまかして、足早に吉備津彦神社へ初詣、それから屋台のお店で飴玉を買い与えて一宮の駅から吉備線で吉備津駅まで帰りました。

 さて、今朝の新聞が、もし、昨日なら、そんなに無理をして1こ400円も出して高いあめを買い与えなくてもと、思いながら読みました。
 
 孫達との山歩きも結構疲れます。

宇賀神

2008-01-05 14:23:16 | Weblog
 わが国の福神と言えば、「宇賀神」が最初であったようですが、江戸に入ってから、人々の間にどうしてかは分らないのですが、大黒様、戎さま、弁天さま、布袋和尚などの七福神がその位置を取って代わってしまったようです。
 まず、今日は、わが国で昔から信仰されていた福神「宇賀神」について考えて見ます。
 
 吉備津宮の御手洗池(竜神池)の中にある真っ赤なお宮さんが吉備津神社の宇賀神社です。
 この宇賀神社は元禄四年に描かれた吉備津宮御絵図によると「弁才天」となっております。
 弁才天が、どうして宇賀神になったのかははっきりとはいえないのですが、弘法大師が授けたと言われている『大黒天神式』によると大黒天、大聖歓喜天、弁才天、荼吉尼 サエ神などの神を「宇賀神」と言ったとでています。それから、この弁才天は、インドでは水の神であったとも言われています。この2つから吉備津神社の御手洗池の中にお祭りされているから、江戸時代に入って「弁才天」と呼ばれたのではないでしょうか。
 これは私の憶測で、論拠も何もないのですが、もしかして、藤井高尚先生あたりが昔の資料でもお調べになって、江戸以前には「宇賀神」としてお祭りしてあったとして江戸の終わりごろより宇賀神社としてお祭りしたのでなないかと思われます。
 一方、また、この神が「昔の稲荷神社だ」ともその入り口に書いてありますが、これも、誰がそういったかとは分らないのですが、多分、これも高尚先生あたりから飛び出してきたのではとも思っています。
 というのも、「宇賀うが」という神様は古事記、日本書紀などのわが国の古い本にはその名前はありません。鎌倉時代の『塵袋』という本に、「福の神を宇賀という」と書いてあり、これが『宇賀』という字が書物に出た最初のようです。
 それ以前には「うが」という言葉は、古事記には「宇迦之御魂神」{書紀には倉稲魂(うがのみたま)}とあり、この神は食べ物を司る神であったようです。「うが」とか「うけ」という言葉で言われていました。この倉稲魂(うがのみたま)神が稲荷神だったのです。だから、「うが」が稲荷の神の元にもなるのです。
 要するに、この『宇賀神』は「五穀の神」「食物の神」であり、人間が生きていく上で一番大切なものを護ってくれる神様であり、人々にとっても一番の福の神であって福徳を授けてくれるありがたい神様に日本で最初になったのです。

 明日は「七福神」のうち、「大国さま」と「戎さま」について考えて見ます。

  雑煮と屠蘇

2008-01-04 14:39:13 | Weblog
 早正月4日です。
 屠蘇と雑煮があってこそ私の正月です。
 さて、この屠蘇は、厳密には大黄、白朮(びゃくじゅつ)桔梗、椒蜀(さんしょ)等の漢方薬を酒に入れて供されたそうですが、現代では、その土地土地の銘酒を正月用の屠蘇として使っているようです。中には金箔などを入れて特別な祝い酒として売り出している酒造会社もあるようです。
 この屠蘇ですが、この「屠」という字が『殺す』『ほうる』など祝い事に使うべからずとして、この屠という字の部首を「尸」のかわりに縁起の良い「一」を加えて「戸」を使ったこだわりある人もいると言う事です。
 昔は最初は年の小さい子供から飲み始めたと言われていますが、今は年寄りからと言う家も、全員同時に一緒にという家もあるようです。
 この屠蘇の付物として、かずのこ、ひらきまめ、ひらきごぼう、ごまめ(田作)、くわい、にしめなどがあります。近年では、国民の趣向が変化して、お重にも肉類も加えられるようになったそうです。
 
 正月三箇日の朝は必ず屠蘇を飲み、雑煮を食べていましたが、これも最近の傾向でしょうか、元日だけで、それで今年は終わりと言う家が、段々と多くなってきています。
 この雑煮に添えるものは芋、大根、菜、ごぼう、昆布、乾しあわび、いりこ、にんじんなどがあるようですが、ちなみに我家では、ほうれん草、にんじん、ごぼう、ゆりね、かまぼこ、ぶりです、餅は焼いたり煮たりして好みに応じしています。
 汁のだしには「いりこ」を普通は使いますが、昔は「乾し鮎」を使っていました。海岸近くに住む人は「乾しふぐ」を使うと聞いた事があります。これもおつな味が出ると言う事でしあた。勿論、味付けはお醤油でします。
 白味噌にアン入りお餅でと言う地方(香川)ところもあるようですし、丹波地方でも味噌で味付けをすると聞いています。

 料理の本などに正月料理について色々と書かれていますが、中に『山老』『海老』を使うとあります、海のほうは「えび」ですが、この『山老』とは一体なんでしょうか。
 誰かご存知のお方はおられないでしょうか。教えていただけないものでしょうか。

元日慶賀

2008-01-03 11:59:54 | Weblog
 貝原好古(益軒の甥)が書き表した「大和事始』という本によると、正月元日慶賀の祝い事をした最初は、神武天皇の時だと書かれています。
 「皇子(みこ)、太夫(まうちきみたち)、臣、連、伴造(とものみやつこ)、国造(にのみやつこ)を率いて賀正朝拝(としはじめのみかどのおがみ)す。」
 これが元日慶賀のわが国での最初だとあります。

 なお、この神武天皇は神話上の天皇ですが、その時代は、中国は周の恵王の時代です。(紀元前600年ごろ)

 その頃から日本でも正月の行事をしていたと言うのですが、今では、これは神話時代の話であってあまり信じられてはいません。なにしろ縄文の時代の話ですもの。
 「有職故実」(江馬務著)によると、朝廷では、元旦の寅刻、天皇が清涼殿東庭で天地、屬星(北斗七星)、山稜を拝む四方拝(下図)の御儀は、宇多天皇の寛平年間(890年)から始まったとあります。
 また、帝が百官の臣達の賀を受けると言うのは大化年間(647年頃)唐風の儀式を真似て始められたとあります。
 
 このような天皇家(朝廷)の行事が、民間に伝わり、今のように一般の家庭でも行われるようになったのかは、何時の時代かは、はっきりとは分らないのですが、大体、室町時代頃(応仁の乱後)からではなっかたかと思われています。

正月2日のとっておきの風景

2008-01-02 10:40:04 | Weblog
 朝から快晴の正月2日です。霜柱をがしゃごそと踏みながら、霜で凍てついた畑のほうれん草を取り入れます。
 畑の横の道を向こうから、朝の散歩でしょうか親子らしい如何にも仲のよさそうな4人連れの人が登ってきます。今しも吉備の中山から遅い真っ赤な太陽が昇っています。光の筋が幾重にも雲一つない冬空に伸びて、吉備の里に光のカーテンを撒き散らしています。
 「おはようございます」
 お父さんらしい人の声。慌てて私も、
 「おはようございます」
 続けて、お父さんと一緒していた小学2、3年ぐらいの男の子も挨拶して通り過ぎます。
 やや後れて坂道を上がってきたお母さんと小さな妹までもが、見知らぬ私に
 「おはようございます」
 可愛らしい声の
 「おはようございます」
 今登ったばかりの太陽のようにきらきらと輝いて、あたりに流れます。暖かい風が、すーと私の身体を駆け抜けていくような心地にさせてくれました。
 朝のあいさつが、朝のお日様のように、こんなにも暖かな心持ちにさせてくれるのかと、爽快な気分に浸たりながら、しばらく遠ざかる4人の後姿を見つめていました。
 
 吉備線の列車が音もなく駅に入ってきます。

 私の正月のとっておきの風景でした。

あけましておめでとうございます

2008-01-01 14:19:10 | Weblog
 平成20年の元旦です。
 元旦早々、闇の中、普賢院の除夜の鐘を直にと思い家をでました。寒波が身を切るような中、大勢の吉備津神社参拝者で、新設の県道は混雑を極めていました。
 駐車した車の中を繰るようにして、宇賀神社の太鼓橋を通り、普賢院へお参りします。
 真っ暗な鐘付き堂から、時おり「ゴーン」というなんともいえないようなはらわたを抉るようとしか言いがたい、重くて荘厳な響きが闇を貫いて耳に飛び込んできます。堂は真っ暗で、空のやや明るい中にぼんやりとシルエットを浮かび上がらせています。明かりも何もありません、僧の唱えるお経でしょうか、その辺り一帯に流れ、お山にも静かに静かに跳ね返っています。誠に清々しい元旦です。
 しばらくその荘厳なる闇の風景を楽しみ、大聖歓喜天のお堂から流れ来る読経にひきつけられるように、其処へと足を向けます。
 ここにも僧の読経の声が広い道内から流れます。
 時おり流れる鐘の音とこの読経の声と闇とを経緯として、不思議な織物を編んでいます。
    闇を縫う 空に錦の 除夜の鐘    亮




 しばらくその闇の景色を楽しんで、本堂に向かう。中にはここにも僧が又一人、なにやら沈黙のお経を称え奉っています。そのお堂に立ち入っていいのかどうかもわかりませんが、その入り口は開いて、石油ストーブも暖かそうに燃えています。
 私は、許しも請わずに、ずうずうしくこの黙読の僧の後ろへ控えさせて頂きました。
 相変わらず鐘は打ち続けられています。
 静寂の時間がしばらくたちます。蝋燭の僅かばかりの明かりがお堂の中を照らしています。もの皆寝静まる丑三つ時です。
 この本堂には、何時のまにやら僧が3人になり、沈黙を破って突然に読経が始まりました。
 時折り聞こえ来る鐘付き堂からの音は、この静かなる二人の僧侶の読経を打ち消しては、己が自身もまた時と共に動いて消え入りそうになって流れていきます
 高低のメリハリのある合唱の読経はなんだか別の世界にいるのではと言う錯覚を誘ってくれます。正座する苦しみも忘れさせてくれるほどです。
 闇とほのかな明かりと読経と諸仏像と天井が映し出す不思議な世界に入り込んでしまいました。
 
 そんな私の初詣ででした。

 なお、私の正月飾りをもう一つ