私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

十四日年越

2008-01-14 10:54:03 | Weblog
 これも昔々のお話になって、人々の間から忘れ去られてしまい、全くの過去のものとなってしまっているようですが、ほんの50年ぐらい前までは、この地方でも当たり前の行事として各家ごとで行われていました。
 十五日は、昔流に言えば「小正月」です。その前日は、正月に飾りつけた注連縄などを取り払う「十四日年越」です。この日は大晦日と同じように、又、年越しそばなどを食べていました。
 十五日の朝には「小豆粥」(明日紹介します)を食べ、また、「骨正月」といって、正月に使った鰤の骨などのあら(脯しおもの)に大根や大豆を入れて、糟汁などを作って食べる習慣もありました。この汁に入れた「おおねぎ」の白い部分が甘くて大変美味しかったと、覚えています。この日を境にして正月行事はすべて終了します。
 「若けえもんにゃあ、正月気分をにいて(「抜く」と言う言葉の方言)、ほんごしゅうをいれてもらわにゃあ(本腰を入れて仕事をしてもらはなくては)」
 と、親たちをして言わしめた日でもあったのです。
 
 なお、昭和の初め頃ですが、輪飾りや注連縄などのお飾りをつけた所は、まず、玄関、床の間、神棚、仏壇、おどくうさま(竈の神)、井戸、牛小屋などの小屋、くわなど農具、風呂は勿論便所にまで。また、お墓、祖先神、田畑にあるどんな神がいるのか分らないような小さな焼き物で出来た祠(それぞれの家で分担があったように思われます)これがまあ4~5所、そのほか観音・太子堂などの祠にも、堤防の上にあったお地蔵さん、今では水も何もなくなっている石組みだけが残っているような昔誰かが使っていた古ぼけた井戸、椋や榎のような大木にまでにも備え付けた記憶があります。これら取り付けに行くのは子供の仕事でしたので、年末の30日には、結構、子供達も朝から大張きりで働いていたように記憶しています。特に、自分の家の田圃が遠くにある子は大変だったよでした。
 それら年末の30日に取り付けたお飾りを取り外しに駆けずり回るのも、又、子供達の役目でした。でも、明日の「とんど」があるので、毎年張り切ってやっていたようでした。
 だから、お飾りといっても、近年のようにたった一つか二つではなく、大変沢山の数と種類があったようです。神棚、玄関などの出入り口等その種類も掲げる場所ごとに特色がありそれぞれに違っていたようでした。そんなの沢山の飾りが近所隣5~6軒一緒で川原に出て焼くのですから、それはそれは大変な量になったように思えます。それこそ小山のようになっていて、子供心に「ぎょうさんあるなー」と感心した事を覚えています。
 その火に翳した小ぶりの橡の木の二股の枝の間に挟みこんだ3つも4つもの大きな真ん丸なお鏡餅が、立ち上るとんどの炎の中で真っ黒くすすけることなく、段々と焼け上がる大人の人達の仕草を見るのも、また、「とんど」の日の楽しさでもありました。 焼きあがったとんどもちを家に持ち帰り、神に捧げた後で、皆で頂きます。心をわくわくさせながら、その時の到るまで、じっと食べたいのを我慢しながらを「待つ」という時間を子供達に自然に会得させてくれていました。「待てば海路の日和あり」ということを、社会がみんなして身をもって教えてくれていました。このような社会のしきたりを、常識というものを、子供達に理屈ではなしに、実戦を通して教えてくれた先生が何処にでも転がっるようにしていたのではと思います。
 それなど皆、昔は、今から50年ほど前までは、神が、我々の身近な生活の中に何時もいたからこそ出来たのではと思います。今は、そんな神が、第一我々の生活の中からいなくなり消えてしまって、それに比例して、社会の教育力が低下しているように思われます。