私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

頼山陽と吉備津 2 高尚の手紙の山陽

2008-01-24 11:00:50 | Weblog
 藤井高尚先生の歌集に、
   
 みな月十日のひに頼襄がとひ来りければ
     あはだ山 あわれみとせに なりにけり
              高屋のまとゐ きのふと思うに

 と、出ています。
 これからも分るように、高尚先生と頼山陽とは入魂の仲であったという。
 なお、この歌についてですが、その背景はよく分りません。ここにある「あはだやま」も、何処にある山なのか、なにかの枕詞なのか、それとも誰かの号なのか。
 「高屋」も何処の高屋か分りません。ここで誰かと膝を突き合わせて話し合った「まとゐ」したことが昨日のように思われる、というぐらいの意味だと思いますが。高屋と言うのは井原市の高屋かもしれません。菅茶山の「廉塾」が神辺にあり、そこで、山陽は一年ほど教えています。
 推定しますと「あわれみとせに」と言う詞から、誰かが亡くなって3年が経過したのだろうと言う事は想像がつくのです。
 この誰かというのは、山陽の父春水だったという事も考えられます。もしそうだとするなら、この歌が詠まれたのは。父春水の死は文化13年ですので、文政2年の夏だということになります。
 この文政2年、山陽は、春、母と吉野の桜を楽しみ、夏、母を送って広島に帰っています。高尚先生を訪ねたのは、この時ではと推測されます。又この文政2年には、高尚先生撰文の雪舟碑文も書いています。これもこのときの書ではと思われます。
 
 まあそれは兎に角として、山陽がこの吉備津と深い関わりがあったことは確かです。