私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

降る雪や明治は遠くなりにけり

2008-01-22 10:16:43 | Weblog
 久しぶりに吉備津も雪化粧をしました。踏めば直ぐ消えいりそうな淡い淡いこの地方特有のぼた雪です。電線に積もったその雪は風もないのに,己自身の重さに耐えかねたように「どさっ」と、突然に音を立て道に落ちてきて、肩をすぼめて登校している子供達の甲高い声を誘い出させてます。その子供達は、落ちた反動でなお激しく揺り動いている電線にも、「ほうほう」と声を出し合いながらしばらくそこに佇んで見上げていましたが、あっという間に道側に積もった雪の上を飛び跳ねながら、「ぽっぽっ」と白い息を吐きかけながら道を遠ざかります。

 そんな久しぶりの雪の景色を見ながら「雪の吉備津」でもと、カメラをぶら下げて、
 「この寒いのに物好きじゃなあ、転んで怪我でもしようものなら・・」
 と、冷ややかな家人の目を後ろにしながら家をでます。
 途中、出会う人ごとに互いに、
 「変なものが降りましたなー」
 と声かけをするのですが、そんなどの人も、勿論私もですが、その言葉とは裏腹に何かニコニコとこの雪を楽しんでいるかのようでもあります。踏みつける一歩一歩に、雪に触れる喜びでしょうか何か輝きのようなものが体全体に、足の先から頭のてっぺんにまで、伝わってくるようでもあります。
 
 雪の松並木を通り、神社の広場にでます。そこに立つ木堂の銅像も雪を被って、何かこれもまた楽しげに私の目には映ります。
 「そこから何が見えますか」
 と、たずねたい気になります。
 考えてみれば、もう平成20年です。この像が出来てからも随分と時間がたちました。だんだんと昭和も遠のいています。雪だからこそそんな思いを掻き立てるのでしょうか。

 草田男が、昭和五年頃だったと思いますが、「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠みました。雨でも雲でも夕焼けでもない、雪でなくてはならない何かを、必然みたいなものを見つけたから、この句が出来たのではと思います。そんな鋭い感性は私にはないのですが、今朝のこの雪に立って本堂の像を見ていたら何かこの草田男の句の持つ凄さというか大きさが、ぼんやりながら分るようでもありました。
 それから、神社にお参りし、回廊を通りシャターを切り切りしながら、雪の吉備津を歩きました。

 回廊に来てまたちょっと洒落てみました。お笑いください。

   屋根は伸び 雪に隠れて 白帯の          
             山に入り行く 宮の静けさ