私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

大黒と夷二福神

2008-01-07 14:23:28 | Weblog
 一般に福神と言えば、日本人なら誰でも、まず、打出の小槌の「大国さま」と鯛釣りの「戎さま」を思い浮かべると思います。この他、毘沙門、弁天、福禄寿、寿老人、布袋和尚を合せて「七福神」として幸福を授けてくれる神として、江戸以降だと思いますが、みんなから尊ばれるようになったそうです。昭和の初め頃までは、このあたりでも、正月7日ぐらいの間に「七福神詣」をするのだ、と、いう話を古老から聞いた事もあります。それと「初詣」と、どんな関係があったのかなかったのかは分りませんが

 さて、
 この大黒さまと戎さまは、その生まれから言うと全然違った性質の神様のようです。
 大黒天というのはインドの生まれの神様で、特に食物の神・台所の神とし、古くから日本に仏教と一緒に入ってきて、像を造りお寺に飾られていました。(平安以前から)
 一方、夷神は、摂津の西宮の大国主西神社に祭られていた大国主命(大己貴ーおおなむちーだいこき)を呼んでいたのです。
 この大国ーダイコクや大己貴ーダイコキに近いものとして大黒にさせられたようです。さらに大黒天が何時も金嚢を手にしていることやわが国の大国様が兄達の持ち物を入れた大きな袋を肩に掛けていたという言い伝えが一緒になって、打出の小槌をもった福神「大黒さま」が作り出されたのだとも言われています。
 一方、夷様の方はというと、これも、元々は大国様であったのですが、それが何時の間にやら、そのお子である事代主命「三郎殿」に取って代わられたようです。
 大国さまがインドの大黒天になり大国=大黒として、福神として祭られるようになると、元々戎様であった大国は、そのお子様である三郎殿ー事代主命に成り代わって別な夷神として祭られるようになったということです。
 これらの神々が、最初に人々の信仰の対象になったのは平安の昔頃だったようですが、鎌倉室町を経て、その時代時代で、種々な形に変えられながら変遷して、現在のような姿になったのは江戸の中ごろからと言われています。
 
 尚、この他、この西宮の夷神がイザナギ・イザナミのお子様のヒルコだ、と言う説もあるようです。