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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

幼子、乳飲み子の口によって

2025-03-16 12:10:53 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ21章1~17節 

七日の旅路を守られ、こうして導かれて主の御前で礼拝を捧げられます恵みを感謝します。私事で恐縮ですが、先週の火曜日午後に事務室で仕事をしていた時に座っていた椅子から落ちてどうやら後のテーブルに後頭部をぶつけてしまいもうろうとしていました。その時に連れ合いから電話があり受話器をとった私は「ここどこ?」と答えたそうですが。その後救急者で病院の最寄りの病院の救命救急科に運んでもらいいろんな検査を受けた結果、病名は外傷性くも膜下出血であるということでした。けれどその後は不思議と守られ、一日入院した後、何と退院することができました。ほんとうに唯、神に感謝するほかなかったです。また、連れ合いにも感謝でした。還暦を過ぎてから年齢とともに体が以前のようには無理ができなくなってきていますが。しかしそういう中、今日も礼拝に集うことができ、宣教にも立つことができましたこと。唯、感謝です。

受難節・レントの第3週を迎えました。今日は先ほど読まれました主イエスの宮清めの箇所から御言に聞いていきます。
主イエスはいよいよこの21章でエルサレムに入場されます。それは勝利者ダビデが王として迎えられたようなものではなく、十字架の苦難へと向かう道でありました。
この箇所はマルコ、ルカ、そしてヨハネとすべての福音書に記されています。それほど主イエスのエルサレム入場と神殿の宮きよめは弟子たちに強いインパクトを与える出来事だったのです。  中でも9節の「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、群衆が賛美している場面は、この主イエスこそ神の救いのご計画を成し遂げる救い主である、というメッセージです。このホサナは、「神よ、救ってください」という意味で、救い主を待ち望んできた民の叫びであり、切なる祈りなのです。

まず、主イエスはエルサレムに入城されるために子ロバをお用いになられました。王として勇ましく格好のよい軍馬ではなく、ろば、しかも子ろばにお乗りになられるのです。
旅行者の旅の便宜のために用い、また荷を運ぶためにも用いていたろば。さらに農耕にも用いられていました。
自らの勇ましさを誇示するためなら軍馬を用いるでしょう。けれど主イエスはエルサレム入場というここ一番の時に、軍事力や権力と関わりのない、人々の日常生活に欠かせないろば、地道に奉仕し、働くろば、それも未熟で小さく弱々しい子ロバに乗ってエルサレムに入場なさるのです。
預言者ゼカリヤの書9章9節には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられし者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」とありますが。マタイ福音書はこの救いの王、メシアの到来の預言の言葉をアッシリア、バビロン、ギリシャ、そしてローマなどの大国の支配のもとで翻弄され、打ちひしがれてきたエルサレムの人々のために、救いの王である主が来られた。その旧約で預言されてきたメシヤ、救い主である王は、「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って来る」とあるように、主イエスは「柔和な王として荷を負うろばの子に乗って」おいでになられるのです。

「柔和」を国語辞典で調べますと、「性質や態度がやわらかであること」と解説があります。けれども聖書の「柔和」には、たとえば詩編37:11に「貧しい人々は地を継ぐ」というその貧しさ、打ちひしがれている有様、という意味があります。それは唯、神の救いを深く待ち望むほかない人たちです。主イエスはそのような唯、助けを求め、祈るほかない人たちの痛みと苦しみ、悲しみと嘆きを自らも知っておられるお方です。そのお方が、救いと解放をもたらす「柔和な王」としておいでくださったのです。

ところがです。10節「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」とあります。
ここを読むと、子ろばに乗ってエルサレムに入場されたイエスさまに対して、2通りの人たちがいたことがわかります。一方は、子ろばに乗る主イエスをほめたたえていた群衆たちです。彼らは世にあって貧しく、小さく、低くされていた人たちでありましたが。主イエスの神の国の福音といやしと解放を受け、主イエスについてきた人たちでした。もう一方は、エルサレムの都に住む多くの人たちでした。その生活はローマの支配下にあっても、まあ保証されており、ある意味その居心地の良さが揺るがされることを不安に思う人たちも多くいたのです。そのため、子ろばに乗った主イエスとそれを喜びながら従って来た群衆を見て、その心は穏やかではなかったのでしょう。
「救い」とは何でしょうか。それが起こった時、実現した時、「ああ救われた」という実感を持つ。それが救いです。でも、助けが必要でないと思っている人にその救いは実感できないのです。

それから、主イエスは子ろばから降りられると、神殿の境内に入りました。(当時のヘロデ王の時代の神殿の絵図を週報の表に添付していますのでご覧下さい)
まず、大勢の人が見える境内(A外庭)は、ユダヤ人以外の異邦人も入れ、多くの礼拝者でにぎわっています。そこには神への献げものとなる動物が売られ、又捧げものをするための両替所が見えます。しかしだれもが自由に出入りできたのはこの外庭まで、その奥の中庭(B)には異邦人や子供や障がい者は入れません。だから異邦人の私たちはみな外庭までですね。またユダヤ人でも献げ物ができる人しか入ることができません。そしてさらに、その奥は至聖所(C)があります。そこで焼き尽くす捧げものが献げられ、罪のゆるしの宣言を受けるのです。そこには神殿に仕える祭司たちがおり、ユダヤ人としての条件の整った男性しか入ることができなかったのです。女性は中庭まででした。
さて、神殿の外庭に入られてその様子をご覧になれた主イエスは、12節「そこで売り買いしていた人びとを皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と怒りをあらわにされました。神に心から助けと救を求めて来ている人たちが、締め出され、蔑ろしにされていることに、主イエスは激しい義憤を表されたのです。主イエスがここまで公然と激しく行動なさったという記事は公生涯においてここしかありません。それは、主イエスが柔和の王であるがゆえに、神の憐れみと慈しみを損なうようなことには厳しく臨まれたことを伝えております。
神殿入り口の広場、境内には犠牲の捧げものの動物を持ってくることが難しい遠方からの巡礼者もいました。長旅からの危険や苦労をしてやっと神殿まで辿り着いたのです。それが両替するのも大変な手数料を要求され、又捧げる動物はとても高い値がつけられていました。心底神の助け、救いに与りたいと願う人たちが食い物にされていたのです。両替人らはその心から神の前に出ることを願い、祈願したいという人の思いをむさぼっていた実態を主イエスは見抜かれたのです。しかもその神殿を取り仕切っていたユダヤの祭司や律法学者たちはそれを容認し、そういったやり取りでにぎわっている境内の有様を神殿の繁栄と捉えていたのです。
「神を愛し、隣人を自分のように愛する」という律法の心は損なわれ、本心から神の救いを願い、求める人たちの信心、その純粋な柔和な者の祈りを商売の道具にするような悪魔的力が渦巻いている神殿は、「神の祈りの家」からほど遠いものでした。
ユダヤの宗教的指導者はじめ、商売人、またエルサレムの都の多くの者たちの心は鈍り、人を分け隔てしていたのです。主イエスはそのような人たちに「目を覚ませ」と強く呼びかけたのです。
私たちはどうでしょう。人がたくさんいること。整った設備、教養ある言葉、活動が盛んなこと。
それも良いかも知れませんが。今日のエピソードから、主イエスは何に憤り、憂い、又何を望まれているかを問いかけています。お帰りになられてからも今日の御言を黙想し、反芻してみましょう。

さて、14節以降の記事はマタイの福音書にしか記されていないものです。ここに重要なメッセージがあります。
「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスのなさった不思議な業を見、境内で子供たちが叫んで、「ダビデの子ホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子に、あなたの賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入場された時、「ダビデの子ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、叫んだ群衆は主イエスを慕い、エルサレムまで従って来た人たちでした。主イエスとの出会いによって砕かれた心に救いを見出した人たちが、この方こそ「神の救い」と都エルサレムへの入場を祝ったのです。
それを聞きつけた目の見えない人や足の不自由な人たちが、主イエスのそばに寄って来ました。そして彼らはいやされるのです。
すると、それを見ていた子どもたちが、「ダビデの子、ホサナ(主よ、どうか、救ってください)」と、主イエスに叫んだというのですね。
何ということでしょうか。子どもたちは主イエスのなさったことに神の愛といつくしみ、その救いを見て、「神の救い、主よ、どうか救ってください」と叫び出すのです。子どもの感受性は時に大人がドキッとするくらい鋭いものです。子どもたちは神の救いがどんな方から来たのかを、曇りのない眼で一瞬見抜いたのでしょう。

本日の宣教題を「幼子、乳飲み子の口によって」と題をつけさせて頂きました。
詩編8編2-3節には、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちているでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」と歌われています。幼子がいつも親を探し、求め、乳飲み子が乳を慕い求めるように、「神よ、あなたを求めます。神よ、どうか救ってください」と、いかなる時にも、主を呼び求める者であり続けたいですね。
私たちもまた、その幼子、乳飲み子のような霊性をもって主に求め、柔和なイエスさまに倣う者として歩んでまいりましょう。祈ります。
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