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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

インマヌエルの預言

2023-12-03 16:37:32 | メッセージ
 礼拝宣教 イザヤ7章1~14節 待降節 

本日から主イエス・キリストのご降誕を待ち望む・待降節・アドベントを迎え、1本目のキャンドルに火が灯りました。
世界の暦の紀元前、紀元後の境目は、イエス・キリストが生まれた時を基軸にしており、BCというのはBefore Christのことです。「キリストより前」ということです。ではADはどうでしょうか。Anno Domini(アノ ドミニ)というラテン語の略で、「主(神)の年」というものを指しております。まさにキリストがお生まれになった主(神)の年です。そのようにキリスト、神を基に世界の時が流れているということであります。今年は主の年2023年、つまりキリストがお生まれになった年から2023回目のクリスマスを迎えることになります。
このバプテスト大阪教会においては12月24日の午前中はクリスマス礼拝が行われ、Kさんのバプテスマ(侵礼)式も予定されています。どうぞ、祝福をお祈り下さい。又、同じ24日の夕方からは、キャンドルライトサービス(燭火礼拝)が行われます。どうか、お誘い合わせてご出席ください。毎年こうしたクリスマスの時節には、預言者イザヤを通して語られた御言が多く読まれます。そのキリストがお生まれになる遙か昔の預言の実現が、主の年以降を生きる私たちにとっての救い主、イエス・キリストであるからです。

さて、本日はイザヤ書7章1-14節が読まれました。主なる神が預言者を通して語られた「インマヌエル」の預言についての記事です。
先週は第二イザヤの時代の話しでしたが。この箇所は、それから遡ってまだバビロンの捕囚となる前の時代のことです。アラム(北部シリア)と北イスラエル王国(エフライム)が連合軍を作って南ユダ王国に攻め上ろうとした時のものです。その南ユダ王国において、この第一イザヤは神のお言葉を伝えたわけですが。
彼は1節にあるように、ユダの王ウジア、次いでヨタム王、その子アハズ王が統治していた紀元前736年~701年の35年の間、預言者として活動したのです。
このウジア王が統治していた時代のユダは高度成長を遂げ発展しますが、後のヨタム王、アハズ王の時代になると社会の階級化、格差社会、富める者の横暴、搾取によって困窮する人たちの問題等が起こっていきました。
ちょっと5章20節以降を読んで見たいと思います。(5:20-24)
それは、彼らが主の教えの戒めに背き続けてきたからであり、主はそのような南ユダ王国の状態を非常に憂いておられたのです。
そこでイザヤは預言者として主なる神から受けたお言葉を、指導者、又民に訴え続けますが。5章32節にあるように、「彼らは万軍の主の教えを拒み、聖なる方の言葉を侮った」のです。
南ユダ王国はそういった内政の問題を抱える中、遂に今日のアハズ王の時代にアラム(現シリア)と北イスラエル王国(エフライム)との同盟軍が、ユダの中心地エルサレムに遂に上って来るのです。しかしその時には攻撃を仕掛けることが出来なかった、ということであります。
その2つの同盟国軍の起こした事態に、南ユダのアハズ王の心も民の心も森の木々が強風にざわざわと揺れ動くように動揺します。

そんな中、主はイザヤとその息子シャール・ヤシュブをアハズのもとに遣わし、主のお言葉を伝えるようにされます。
それは、アハズ王に、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。信じなければ、確かにされない」というものでした。どんなに強そうな軍事力であれ、緻密な、あるいは大胆な敵の策略であれ、恐れることはない。ただ心を騒がせずあなたの主なる神に信頼しなさい、ということです。
ちなみに、主がイザヤに伴わせた息子のシャール・ヤシュブの名前には、「残れる者は帰り来たらん」という意味がありました。それは、多くの者が主なる神に背く中で、神に信頼するわずかな残りの者の希望が、その名前によって示されていたのです。そのメッセージを、主はアハズ王に伝えようとしていたのです。

本日の礼拝の招詞として、先にイザヤ書30章15節以降が読まれました。
「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」。
これは、「国」の危機的状況にあって動揺し、心を騒がせてしまう彼らに対して、彼らを常に救い導いて来られた主なるお方、神に立ち帰り、依り頼むことに確かな平安と力があることを、はっきりと示しているのです。
私どもも又、昨今の社会状況に加え、戦争や悪化する環境の問題など心配の材料は事欠きません。この時代に生きる私たちが、なおそこで何に望みをおき、だれに信頼して依り頼んで、生きていくのかが、この記事を通して南ユダの人たち同様、突きつけられているのです。

主は更にアハズに言われます。
10節「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方(ほう)に、あるいは高い天の方(ほう)に」。
主はアハズ王の信仰が、確信をもって強められるようにしるしを表そうとなさるのです。
ところが、アハズ王は、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と拒みます。この主を試すようなことはしないと言ったアハズは、一見、敬虔そうに見えますが。これはしるしを見ても信頼できないと言っているのと同じです。目先の連合軍を前に、彼はとにかく恐れ、心騒がせ、さらに強い軍事力を持つ巨大アッシリア帝国の力を頼みとすることを考えていました。アハズは主なる神に信頼するのではなく、世の力を誇る大国と軍事力を頼りにする道を選んでしまうのです。

13節、イザヤは言います。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足らず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」。
この「もどかしい思い」を改訂版の新共同訳は「煩わす」となっており、「聞け、ダビデの家、あなたたちは人間を煩わすだけでは足りず、わたしの神をも煩わすのか」と訳しています。どちらにしましても主なる神が、「どうしてわたしを信じようとしないのか」という切実な思いでいらっしゃることが伝わってきます。
虚しいものに依り頼み、さまよい、忙殺され、右往左往する彼らを放っておくことができない主なる神。主は熱情をもってその深い憐み、神自らがしるしをお与になる、とおっしゃるのです。

そのしるしとは、17節「おとめが身ごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ」というものです。
インマヌエルとは、「神が私たちと共にいます」という意味です。この「おとめ」又「男の子」ついては具体的には記されておりませんのでわかりません。しかしここで大事なことは、おとめや男の子が誰かという点にではなく、神自らが人の子の姿をもってしるしとされる。神が私たちと共にいますということを体現なさる、ということです。
12月号の聖書教育「聖書の学び36課」には、「戦争の混乱の中、若い女性が身ごもりやっとの思いで男の子を産みます。親は、混乱の中を小さな命を守りながら生き抜きます。土地が荒らされ、命が奪われる場面でも、そこに新しい命が生まれ出ます。その子に「インマヌエル(神が私たちと共におられる)と名付けます」と示唆にとんだ記述がありましたが。
主なる神は世の様々な煩いの中にある人間が神に信頼し、依り頼んで確かな救いと平安を得るために、神自ら人間の姿となって、お生まれくださる。それを「受肉」と申しますが。それは「神が人と共にいる」しるしです。こうしてインマヌエルなるお方としての栄光を顕わされるのです。

そのイザヤの時代からおおよそ700年後、神の御子・イエス・キリストが降誕されるのです。このようにして神のみ救い業は、主イエス・キリストの死と復活を通して実現され、全世界に今も顕されているのです。
争いと混乱の世は今も進行形ではありますが。究極的な主なる神の御救いは主イエス・キリストによって実現しております。
「光は闇の中で輝いている」(ヨハネ福音ネ1:5)。暗闇が深ければ深いだけ、神が共におられるという希望の光は闇を明るく照らし出し、神の信実と義は立てられていきます。

本日は「インマヌエルの預言」と題し、御言葉を聞いてきました。
今日の聖書の御言葉は、現実の厳しい時代と状況に恐れおののいていた南ユダの王のみならず、今、この世界、社会にあって生きる私たち一人ひとりに語りかけられています。
主がイザヤを通してお語りになった、「主に依り頼む以外に確かさはない」(10)「主に立ち帰って、静かにしているなら救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30:15)。この聖書のメッセージを素直に受け取って、今週もここから主にある希望を抱いて歩み出してまいりましょう。
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