礼拝宣教 イザヤ9章1-6節 待降節Ⅱ
本日は「闇の中に輝く光」と題し、御言葉に聞いていきます。
ヨハネ福音書1章9節(口語訳)には、「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と、救い主、イエス・キリストがまことの光であることが記されています。
そのお方が世に来られました。
光は私たちが生活するうえで必要なものです。街灯の光は夜の闇路を照らし安心して歩けます。何より神がお造りになった太陽は言うまでもありません。今の冬場の寒い時期に陽の光は心も体も温かくしてくれます。又、その光には私たちの糧となる食物を成長させる力があります。そして植物も海藻も光を受け大気を再生してくれています。そのように光は私たちの生活にかかせないものでありますが。
しかしイエス・キリストはただの光でなく、「まことの光」としてお生まれくださいました。
それは私たちの暗い心を明るくし、冷たい心を温かくし、つかれ、なえた心を命の力をよみがえらせる光、私たちの救い主としてこの私たちのもとにお生まれ下さったのです。
先ほど読みましたイザヤ書でありますが、これは「まことの光」としておいでくださった救い主、イエス・キリストの誕生に関する預言であります。
私たちは自分の誕生について誕生した後で知る以外ありませんが。この救い主、イエス・キリストの場合は、生まれてからではなく、お生まれになるずっとずっと前に預言されていたのです。
イエスさまはただ何の前触れもなく、突然生まれたのではなく、その性別、お生まれになる場所、その救い主としてのご性質についてはあらかじめ預言者たちを通して知らされていました。
さて、その預言者の一人であったイザヤの時代ですが。イスラエルは北王国と南ユダ王国とに分かれました。その北王国でも南王国でも王と民は金や銀、木や石で人が造った像にひれ伏し拝み、その心はまことの神から遠く離れていたのです。
北王国も南大国も決して大きな国ではありませんでした。自らの国を守るために周りの大国、大きな軍事力をもつ国と同盟を結び、生き残ろうとします。
しかし、それは自分たちの祖父たちが依り頼み、救いと祝福を受けてきたまことの神に対する不信にほかなりませんでした。
そこで神の預言者たちが王と民に遣わされます。
「まことの神に立ち帰って、神の御心を知り、それを守り行うように。大国の王や軍事力によりすがるのではなく、自分たちの救いの神こそ、依り頼むように」と、預言者たちは伝えるのです。
そうして、「神を畏れ敬い、従うのでなければ神の裁きの前に、もはや立つことが出来ない、国が滅ぶ」ということを繰り返し警告したのです。
しかし、王や民は預言者の言葉に耳をかすことなく世の力に依存し、結局北王国イスラエルはアッシリア帝国に占領されて滅んでしまいます。
南ユダ王国の民も、これを見て、いつ敵が攻めてくるかわからず、おびえながら暮らしていたのです。
本日の箇所の前の8章21-23節のところに次のように書かれています。
「彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩。暗闇と追放。そのような神無き世界で、今,苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」。
それは、将来の希望を見出すことが困難だから闇、暗黒と言うのではなく、神でないものを神としてよりすがり、まことの神を拒み、見出せない。それが闇、暗黒だ、というのです。
そのような中、イザヤを通して語られたのが、今日の聖書の言葉です。
9章1節に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。
神無き世界、神の御心を知ろうともしない世界、社会は真っ暗なトンネルの中を行くようなもの、進んでも進んでも先が見えません。
しかし、その真っ暗な闇であったところに、「光が輝いた」。なおその光は、神の権威によって立てられる、そのお方によってもたらされます。
5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。
彼によって人びとは、神に背を向けた虚しい暗闇の人生から、「神が共におられる」という希望の光の中を歩む者とされるのです。
この救い主の誕生の預言は、遠いイスラエルの当時の人々だけに与えられたのではありません。後の時代に生きるすべての国々、すべての人びとに与えられているのです。
そのお方は、9章1節の前に記されているように、ガリラヤからその活動を始められます。そして12章4-6節にはこのように記されています。
「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ」。
それは言うまでもありません。私たちの救い主、イエス・キリストであり、私たちも現に、このお方によって大いなる光を見出しているのです。
今、世界各地において、又私たちを取りまく社会は、大変な困難な時代を迎えていると言えます。イザヤの時代と同様、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と離散の中で、どんなに多くの人が助けを求めておられることでしょうか。
大切なのことは5節以降で、死の陰の地に住む者を暗闇より救い出して下さるそのお方がどのような方であるが、記されています。
まず、「権威が彼の肩にある」とありますが。この権威とは、すべてを司り、統治することのできる権限のことです。これは地上のものからではなく、神に由来するものです。
私たちが主によって救われ神のものとされたのは、この方の権限によるものであります。
そして、このお方には4つ称号が与えられています。
まず、「驚くべき指導者」。これは英語訳聖書では「Wonderful counselor」、驚くべきカウンセラー・助言者とも訳されます。
神の御心を知り、神の言葉の知恵と知識をもって私たち一人ひとりに適宜適切なアドバイスをしてくださるお方であるのです。しかし、自分の力で生きていくことが出来る。自分の考えで十分だと思ううちは、それを素直に受け取ることがなかなかできません。
むしろ、自分自身の力の無さや弱さ、限界を知らされた時に、耳が開かれて神の知恵と知識をもっておられるお方の愛といつくしみに満ちた、そのアドバイスを聞くことが出来るのです。主は常に私たちに語りかけて下さり、私たちが心の扉を開くのを待っておられます。
また、そのお方は、「力ある神」と呼ばれます。
これは先に「権威が彼の肩にある」とありましたように、この世のことどもすべてを司り、統治することのできる権限をもつ神と一つであられる、一体であられるということです。それは又、この世の力とは全く異なる天の力です。創世記の、無から有をつくり、絶望を希望へ、闇を光に変えるダイナミックな力であります。
さらに、その名は「永遠の父」と呼ばれます。
それは親が子を守るように、いや、それどころか「たとえ父母があなたを忘れようとも、わたしは決して忘れることはない。わたしはあなたを手のひらに刻みつけるように愛する」と主が仰せになるように、どこまでも保護し、弁護し、守られるお方であるという事です。
四つ目の名は、「平和の君」と呼ばれるとあります。
平和はヘブライ語で「シャローム」ですが。それは、日常で私たちが言葉や文章で挨拶を交す、「お元気ですか」「お元気でね」と同様の意味もあります。同時にそれは、神の平安、平和があるようにという祈り、とりなしであります。神の主権のもとで互いの平安を祈り合う関係の中に平和の君は共におられます。
又、平和の王ではなく平和の君となっているのも、世の権力や武力とは異なる神の子としての権威を物語っているように思え、うれしくされます。
御子イエス・キリストは、「ひとりのみどりご」として私たちと同じ肉をとってお生まれくださいました。地上において神の国を伝え、病人や困難を抱える人、差別され抑圧されている人、さらには罪人とされる人と食卓を共にして神の国の到来を告げ、その平和を共になさいました。最期は十字架の苦難と死をもって、暗闇に住む者であった私たちの救いのあがないを遂げられました。
さらに私たちが信じ、主と共に永久のいのちに至るように、三日目に復活をとおして救いが確かなことを現わして下さったのです。
私たちの真の平和、平安は、このイエス・キリストがわたしの救いをすでに成し遂げて下さったという事を認め、いつも共にいて下さる主の言葉に聞き、祈り、主に倣い従うところに臨みます。
最後に6節、ここのところを改訂版の新共同訳でお読みいたします。
「その主権は増し、平和には終りがない。ダビデの王座と王国は公正と正義によって立てられ、支えられる。今より、とこしえに」。
国連本部の入り口には、イザヤ書2章4節の「彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との言葉が刻まれていることをご存じの方もいらっしゃるでしょう。でも、絵に描かれた餅のように今の世界に目に見える形で効果がないように思えるかもしれませんが。
その2章4節の国連本部に刻まれていない前の部分にはこうあります。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」。
実はこの言葉が重要なのです。人や国々の思惑や利権が絡んだ都合のよい裁きではない、まことの神、主の「裁き」、その「戒め」によって世界に平和が造り出されていくのです。そのためには人間的な良心だけに頼るのは十分でなく、平和の君である主の教えと戒めに聞き従うことが大切であり、それこそ人の本分なのです。
本日はまことの光として来られた、救い主、イエス・キリストに関する預言の言葉から聞いてきました。まさに、まことの光としてお生まれになられた主、救いのみ業を成し遂げて下さった主の4つの称号から、すべての人にとりましてこれほどまでにゆたかなご性質についてひもといてまいりました。
最後に本日の救い主の預言と救いの実現は、6節の最後に書かれた「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」という言葉に、その確かさが証明されているということをお伝えして本日の宣教をとじさせていただきます。