礼拝宣教 ローマ12章1節~8節
先に「命どぅ宝の日を覚える」日としてのあかしの文章が読まれ、お祈りが捧げられました。
私たちは沖縄の抱えている問題を知ることで、それらが実は知らぬうちにも私の問題であり、大変身近な事として自分たちにも起こっている事に気づかされます。創造主より造られた人、あらゆる生き物、自然。その全被造物の「命こそ宝」と覚え、真の平和を求めてまいりましょう。
本日はローマの信徒への手紙12章1~8節より「キリストにつながって生きる」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の礼拝ではバプテスマにちなんだあかしをいただきました。お一人おひとりに救いの日々の初めがあり、今日もこうしてその恵みを覚える礼拝に与っています。教会はそのような個々人の信仰の励ましの場でありますが、同時にキリストのからだとして他者との関係性のなかで生き、生かされ、互いに祈り、とりなす場です。それは良い時ばかりでなく、むしろ問題や課題をも共に御言葉に聴き、祈り合う中でキリストの姿とされてゆくのです。
初代教会であったローマの教会にも様々な問題がありました。
ローマの教会の始まりについては定かではないですが、ローマ在住のユダヤ教徒が初めに福音を受け入れ、当初はユダヤ人クリスチャンがローマの教会の多くを占めていたようです。ところが異邦人にも福音が受け入れられ、パウロがこの手紙を書いた時には異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンより多くなっていました。そこでユダヤ人クリスチャンたちを見下したりすることもあったようです。ユダヤ人クリスチャンの中にはユダヤの慣習を重視しした生活を続ける人や、それを異邦人クリスチャンに押し付けようとする者もいたため、信仰による救いに与った異邦人クリスチャンの中にもそんなユダヤ人クリスチャンをさげすむ人もいたようです。パウロはこうした問題が混在するローマの教会の信徒たちに向けて、キリスト者として生、その生き方について勧めの言
葉を書いたのが、この12章なのです。
こうした問題は形を変えて常に教会の中に潜在化してきました。 信仰が強そうに思える、又弱そうに思えるとか。何ができるか、できないかなどで人が重んじられたり軽んじられたりすることは、主イエスが語られ、行われたこととは異なるものでした。 クリスチャン、キリスト者は、唯神の憐みによって神の子、イエス・キリストが流された血により、救われています。そこには何の差別も分け隔てもありません。それは完全に神の賜物です。どのような人も例外なく、この唯神の憐れみ、ご慈愛によって価値ある存在とされているのです。
それは12章1節でパウロが「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と述べているとおりです。
イエス・キリストを通して示された救いのゆえに、まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたがなす(霊的)礼拝です」と、勧めがなされています。
捧げるということは、自分のしたいように、思い通りに生きるのではなく、神さまがどう願い望まれているのか、その御心を思い、自分を差し出すようにすることです。パウロはそれこそ礼拝だと言うのです。それは毎週日曜日に捧げています主日礼拝だけをさすのではなく、キリスト者の生の全領域において自分を捧げることが霊的礼拝なのです。それは私たちの具体的な生き方と結びついているという事です。
週に一度の主日の礼拝は、そういった日常を生きるための信仰の給油所、霊的な油を頂く場いうことができるでしょう。そういう意味で主の日の礼拝と信仰の交わりは義務ではなく、主の恵みに与っている自分自身が神の前にどう生きていくか、という指針を得るうえで大切なのです。
パウロは2節で次のようにも勧めます。 「この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
真の神が神とされ、人が真の人とされるところに幸いがあると聖書は伝えていますが、世にあってはそれに反し、神の御心を思わず、人を損なわせる罪の力が渦巻いています。情報の波に押し流され、一体何が正しいのか、偽りや間違いなのか混乱するようなこの社会で、自分を確かに生きるにはどうしたらいいでしょう。
この手紙を書いたパウロもかつては人一倍学問を積み重ね、熱心に律法を学び実践しました。が、その自負とおごりから、神に仕えるつもりが偏狭で排他的な自分の作り出した正義感で他者を裁き、激しく迫害する者でした。皮肉なことに、正しくあらねばという熱心も、信仰で救われるという知識も、生きておられる神さまとの出会い、心新たに変えていただくのでなければ虚しいのです。
パウロがキリストと出会い変えられたように、世に倣い、自分の価値観に捕らわれた人生から、キリストのお言葉とそのお姿をとおして心を新たにされ、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、パウロは勧めるのです。
パウロは又、3節で「わたしたちに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて(別の訳では尺度とありますが)、慎み深く評価すべきです」と言っています。 まあ計るというと人と比較するようにもとれますが。人を基準とするのではなく、神によるところ、イエス・キリストによるところの基準であります。そこから自らを「慎み深く評価する」ことができるのです。そういう一人ひとりがキリストの教会においては、「キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いにキリストの体の部分なのです」とパウロは言います。それはちょうど人の体が手は手、足は足とそれぞれの機能をもってなしているように「すべての部分が同じ働きをしていない。」そのことが重要なのです。
パウロはコリントの信徒への手紙12章においても、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの(教会の)場合も同様である」と述べています。
ローマの教会と同様コリントの教会も問題が起こっていました。いわばキリストの体なる教会が病んでいる状況に陥っていたのです。ある人たちは自分に与えられた賜物や立場を誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人は無視され、見下されるような事が生じていたのですから大変です。
以前にもお話しましたが。随分昔に一般教養の生理学の講義で学んだことを拾い書きしたメモ紙を聖書にはさんでいるのですが。
私たち人間の体には表皮細胞(皮膚等)があり、その数は成人で50兆個、新生児でも2兆個。それも2週間に1度の割合でそれらの細胞は死に新しいものが生まれるということが繰り返されているそうです。肉眼では見えない表皮細胞によって私たちの体と命が保たれています。又、私たちの体には運動器系、呼吸器系、神経器系、感覚器系、循環器系、消化器系などの様々な器官が備わっていますが。それが個別にではなく、互いに補い合い連携しながら各々の役割を果たすことで、体の健やかが保たれています。
様々な病は、体内の1部の器官だけに負担がかかり、偏った働きをしたため、他の器官との連携がうまくできなくなった際に生じると言われます。ですから、それぞれの働きを補い合い、連携していくということが体にとってはすごく大切なことなんですね。
さらに、私たちの体内には常に1分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。考えもおよびませんが、血液もまた細胞や各器官と同様、体を健やかに保つうえで大切な働きをしています。それは、あらゆる感染や悪い菌から体を守り、抵抗力の役割をなします。血液の白血球や赤血球は最も小さな部分といえますが、その小さなところがもし病気になり、機能しなくなると大変です。体のすべての器官との連携がうまくいかなくなり、体全体が崩れていくことにもなりかねません。このように考えると、体の中で最も小さく見えるような細胞や血球が保たれてこそ、他の器官も潤滑に機能し、ひいては私たちが眼で見たり、耳で聞いたり、鼻でにおいをかいだり、手や足をつかって作業や活動することができているということです。
私はこの「一つのからだと多くの部分」のところを読むとき、ひとり一人に違いや個性があるからこそゆたかであり、そこにキリストにある救いの福音の奥深さに気づかされるからであります。ほんとうにそれは私たちの身近なものとして感じ取ることができるわけです。
6節以降では「それぞれに与えられた賜物」について言及されています。
それは預言の賜物、奉仕の賜物。教える人、勧める人、施しをする人、指導する人など記されていますが。他にも様々あるのではないでしょうか。祈りについての賜物、音楽やいやしの賜物もあれば、笑顔一つで神の愛と救いを証しする方もおられます。ご長寿でいらっしゃることも又、賜物であり神の恵みのゆたかさをお教えてくださいます。大事なのはパウロが記しているとおり、互いを尊重し、それぞれの賜物に応じて、それぞれのあり方で内に外に励み務め、惜しまず快く行うことであります。そうした互いを喜び合える、それがキリストのからだなる教会のゆたかさであり、あかしとなっていくのです。
教会といえども人による集まりでありますから、そこには問題やいろんな意見の相違や対立も時には起こり得ます。そこでキリストにつながる私たちはどう生きるか。神の憐みによって、唯イエス・キリストにあがなわれ、罪赦されて神の救いに生かされている私たち一人ひとりであり、共にキリストにつながって一つの体なる教会とされている私たちです。キリストの教えとみ言葉に聴き、共に聴き、語り合い、さらに祈り合いながら常に主のみ心が何であるかを求めて歩んでいくことが、神の望まれる礼拝であることを今日の聖書から聴いてまいりました。
キリストにつながって日々を生きるその人生には、共にキリストのからだである貴重なお一人おひとりが賜物として与えられているその恵みを感謝します。キリストのからだなる教会が立てあげていくよう祈り求め、歩んでいきましょう。
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