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すべての人の救い

2023-06-04 14:27:12 | メッセージ
礼拝宣教  ローマ10章1-13節  
 
 パウロはユダヤ人以外の人たち(異邦人)に神の救いを伝える使徒でした。しかし一方で「兄弟たち、わたしは彼ら(ユダヤ人)が救われることを、心から願い、彼らのために祈っています」と述べているように、同胞の民であるユダヤ人たちが救われることを切に願っていました。
パウロはそのユダヤ人たちに対して「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではなりません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」と述べます。
「自分の義」を立てようと律法を守ることは熱心でしたが、「神の義」、キリスト、神が与えて下さる義が認識できない、それを受け損ねていると言うのです。
ただ「熱心」であれば神に喜ばれるということではなく、何に基づいて熱心であるか。又、何を熱心に求めていくか。正しい認識に基づくか。そのことが大切なのです。「正しい認識」とは、まさにイエス・キリストの十字架の贖いを通してもたらされた「神の義」、神の愛と恵みなのです。

 ユダヤ人の多くは律法の掟を守ることに対して確かに熱心でありましたが、自分たちは特別に神から律法を与えられた選民だという強い意識や他とは違うといった優越性をもっていました。ただ熱心に細かな規定までも守り、行えば義人となって救われるという認識があったのです。彼らは「自分の義」を立てようと熱心でしたが、一方で律法を持たないかった人、律法を知らない人をみくだし、裁くようなことをしていたのです。旧約聖書の箴言16章18-19節に「高ぶりは滅びに先だち、誇る心は倒れにさきだつ。へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」(口語訳)とあるように、「高ぶり」は神の忌み嫌われることです。
パウロも以前は熱心なユダヤ教徒としてそのように生きた人でした。
パウロはその自分の姿を顧みつつ、彼らユダヤ人も「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わない」、どうか「神の義」、神の救いを受け取ってほしいと願うのです。
この熱心はどこからくるのか。人より立派になって、偉くなって自分の正しさを示すためではなかろうか。又、自分の正しさの基準で人を裁いたり、みくだしたりして自分は神の側に近いように思っていないか。「正しい認識」が必要です。又、逆に自分は人より劣っている、足りない。人一倍努力して励まねばならない、と不安や心配で頑張っているなら、それは正しい認識とは言えません。「神の義」、その憐みと愛を受け取り、平安、感謝、喜びからあふれてなされていく、それが正しい認識であります。
礼拝も、祈りも、捧げものもそうです。礼拝を守らねば救われないというのではなく、礼拝は救いの確認、救いの神への感謝と賛美、応答、それは平安と喜びであるからです。私の祈りも、私の人生も私がではなく、神がこうしてくださった、という神のお取り扱いを信じることから、実に私たちの信仰は始まっていくのです。自分の精進や苦行が神を動かすということではなく、神が働かれ、導いてくださる。これが私たちの信仰の認識であります。実はそこに律法本来の「神への愛」「隣人愛」が実りとしてもたらされてくるでしょう。

 パウロは4節で次のように述べます。これは、新共同訳改訂版でお読みします。
「キリストは律法の終りであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」。
今使用している聖書では「キリストは律法の目標であり」となっていますが、これよい訳でありません。「律法の終り」「集大成」。それがイエス・キリスト、なのです。
なぜなら、律法を付与されたユダヤ人をはじめ、人間の行いによって救われないすべての人に代わって、神の御独り子・イエス・キリストが唯一、律法を完成されたお方であるからです。それは、比類のない愛によって完成されています。律法の精神は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい」。又「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」の2本柱によってなっているといわれていますが。この律法本来の精神をイエス・キリストは体現し完成なさったのです。
律法の遵守と行いによって救われる時代は終り、イエス・キリストの信じる者は義とされ、救われる神の義が成った。完成した。こうして福音の時代が始まり今日にまで至っているのです。

 この「信仰による義」について、パウロは6節以降旧約聖書の言葉を引用しながら次のように述べます。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことになりかねません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」。
だれが天国に入るのか?だれが地獄に行くか?主イエスが十字架にかけられた時、右と左に2人の罪人が同じように十字架にかけられていました。一方の罪人は主イエスを罵り続けました。もう一方の罪人はその人に向けて「自分たちが十字架にかけられるのは当然だ、だがこの方は何も悪いことはしていない」と諫めました。そして十字架のイエスに向けて「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのです。確かに主イエスはその人に「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいる」とおっしゃいました。では、彼は天の国に入り、もう一人の人はそのまま地獄に落ちたのか?それは私たちにはわかりません。なぜなら裁きは人ではなく神のものであるからです。ただ一つはっきりしていることは、キリストがすべての人の救いのため、とりなし、祈られつつ、その身をもってあがないの業を成し遂げられたという、その事実です。

 ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記されています。
キリストによってすべての人に、万人に神の救いは向けられているのです。
「だれが天に上るか」、天国に入るか。「だれが底なしの淵に下るか」、地獄に行くかなどと自分も、又人に対しても裁くようなことは、キリストを通して実現された「神の義」その救いを台無にしてしまうことになりかねないのです。

 さて、そこでパウロは、この「神の救い」について8節以降で次のように述べます。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これも旧約聖書にある言葉ですが。それをパウロは「口でイエスは主であると公に言い表わし、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして救われるのです」と、それがキリストにおける新たな時代の正しい認識であるというのです。                       
救いは何か遠いところにあるのではなく、キリストを信じた今、それを口で言い表わした、この時に、救われている。その自覚的信仰と表明が、キリストの救いにある生活とそのあかしの人生につながっていくのです。
確かに口と申しましても、様々な事情でそれが困難な方もいらっしゃるでしょう。先日水野源三さんの動画を家族で観てとても心が熱くされました。水野源三さんについて今日の巻頭言に掲載させていただきました。目と口以外は動かせなくなり、死にたい、死にたいと繰り返すばかりの毎日に、聖書との出会いが与えられ、徐々に心が開かれて、イエスさまの救いを信じます。その救いの喜びと希望に満たされるその思いを、彼は詩(うた)に表すのですが。口はきけないため母親と50音をまばたきで1文字1文字ひろいながら詩にしました。それはやがて詩集、まさに神のみ名をほめたたえる賛歌となって多くの人に知られることになるのです。水野源三さんは9歳の発病以来47歳で天に召されるまで家の奥の6畳間から1度も外へ出ることは叶わなかったそうです。けれどキリストの御救いは泉となって湧きあふれ、世界の至るところでそのあかしが多くの人にキリストとの出会いをもたらし続けているのです。                 
今日の聖書にも、「『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は誰でも救われる』のです。」アーメン。
ユダヤ人だけが聞いていたみ言葉は、今や万民にとっての祝福のみ言葉となりました。
 それは、「すべての人に同じ主がおられ」るからです。主は十字架の死をもって罪を贖い、復活のいのちをお与えになることができるお方です。すべての人に神との和解、真の平安(平和)をもたらされるイエス・キリスト。このお方にある信仰によって私たちは分け隔てなく、神の祝福のうちに救いの道を歩むことができるのです。
まさに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント2章2節)なのです。キリストの救いをあかしし、福音を伝えていく事が困難な時代と言えるかも知れません。しかしどうでしょうか。
2000年前に十字架の死と復活を経て、天に昇られ、聖霊のお働きによって今も変ることなく、主は救いを起こし、福音は確かに私たちのもとに届き、世界の至るところに持ち運ばれています。として降臨くださった主は、今も生き、お働きくださっておられます。
すべての人に、この素晴しい神の救いが届けられますように。この希望の福音をたずさえ、主の救いのあかし人とされてまいりましょう。
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