ネモフィラ(長居公園植物園より)
礼拝宣教 マタイ26章36-46節 受難節Ⅴ
宣教音声 https://drive.google.com/file/d/1M_ZoeVH0ePuFA1Rx-lGMBzXw531aFjB_/view?usp=drivesdk
「主イエスの祈り」
イエスさまは弟子たちと一緒にエルサレムのオリーブ山にあるゲッセマネといわれる所に来られます。そこにはたくさんのオリーブが生い茂っており、ゲッセマネには「油をしぼる所」という意味があるそうです。それは、イエスさまがここで霊と肉のはざまで苦悶し、血の涙と汗をしぼり出すような祈りをなさったという事を象徴的に物語っているように思えます。
イエスさまは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。この杯というのはすべての人に罪のあがないを得させるため、御自身が十字架にかけらえて無残な死を遂げられねばならないという父の神からお受けになった定めのことであります。
イエスさまはまず、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、願い求めて祈られます。その直後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とおっしゃるのですが。
けれども、まずご自分の苦悩と願いを率直に言い表され、そうせずにおれなかった一人の人間としてのイエスさまがそこにおられます。
本当に苦しくてつらい時は、それを「取りのけてください」と祈るほかない私たちです。まったき人となられたイエスさまのこの祈りは、うめきつつ祈るほかない私たちと共鳴するようにうめきいてくださる憐みの神のお姿に思えてなりません。
その祈りは、1度ならず2度、3度と繰り返されます。けれど2度目、3度目には「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、最初の「杯をわたしから過ぎ去らせてください」という祈りから明らかに変化が生じています。
罪に滅びるしかない人間に救いがもたらされるため、わたしがその杯を受ける以外ないのでしたら、あなたの御心が行われますように。そのようにゲッセマネでしぼり出すように祈りを重ねていく中で、遂にはご自分を御父に完全におゆだねになるのです。
この祈りの中で父なる神と一層深く向き合われ、御心を受けて行かれたことを知らされます。
「私の願いとしてはこうなのです」「私はこうして頂きたいのです」と私たちは祈ります。イエスさまもそのように祈られました。けれども祈りを重ねながら父なる神との関係性が深まられていく中、初めて「父の神にゆだねる」という事が起こされていきます。
その「ゆだねる」ということを通して、本来人の内にはない神の平安が与えられてくる。神のなさることに信頼する者とされていくのですね。
「わたしと共に目をさましていなさい」
さて、イエスさまは弟子たちに、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われます。そしてペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネという愛弟子3人だけを伴い行かれたますが、その時、イエスさまは悲しみもだえ始められます。
他の弟子たちにその姿を見せることを偲びなく思われたのでしょうか、わかりませんが。
そして、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃるのです。
このイエスさまのお言葉は大変衝撃的なものでした。
愛弟子たちはイエスさまを、来るべきユダヤを解放される、いずれは王となられるお方と大いに期待してきたのです。しかし彼らはこのゲッセマネにおいて、「わたしは死ぬばかりに悲しい」というお姿を見ると、イエスさまに対して抱いていた期待と理想があえなくしぼみ、意気消沈してしまったのではないでしょうか。
祈り終えたイエスさまが弟子たちのところに戻ってみると、彼らは眠っていたというのです。
以前にもお話しましたが。祈祷会の時にある方が、若い時通っていたある教会の牧師さんが大変大きな問題を抱えておられた時に、数名だけの祈りの場で「わたしは死にそう」とご自分の弱さを吐露されたそうです。その時、その方は「その牧師に対してがっかりした」というのです。「牧師は教会で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。けれど、その後この方が今日の箇所を読まれて、イエスさまでさえも「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたということを知った時、「牧師であれ、だれであれ、一人の人間として苦悩し、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁ」と考え直されたそうです。
問題を抱え、そのしんどさの中で「一緒に祈っていてほしい」といえる関係。どんな時もとりなし祈り合える霊の交わり。わたしたちは、この主イエスにある共に足を洗い合う兄弟姉妹として招かれているのです。
イエスさまはペトロに言われます。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」
マルコやルカの福音書にも同じように「目を覚ましていなさい」と語られているのでありますが。このマタイの福音書だけは、「わたしと共に目を覚ましていなさい」と記されています。それはイエスさまがご自分の願いや苦しみを「わたしと共にして」祈ってほしいと呼びかけられているように思います。
しかしまた同時に、ここには後に残されていく弟子たちへの愛と配慮がにじみ出ています。イエスさまは3度(みたび)祈られますが、そのつど弟子たちの様子を見に戻って行かれるのですね。
十字架の苦難と死後、残された弟子たちには多くの苦難、試みが襲うことをすでにイエスさまはご存じでした。彼らが苦難と試みの中で、イエスさまご自身血の汗と涙で祈られたことを想い起こしつつ、「わたしと共に」父なる神の御心に生きるようにと、イエスさまは願われたのですね。
この時イエスさまのお傍に愛弟子のシモン・ペトロがおりましたが。その同じ26章の中で、ペトロに「はっきり言っておく、あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と、イエスさまはペトロの離反を予告されているんです。ペトロはそれに対して「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言うのです。
ところが実際イエスさまが捕えられると、ペトロは後を追っては行きますが、次々におまえはイエスの弟子ではないのかと尋ねられると。「いいえ、そんな人は知りません」と、三度イエスさまのことを否認してしまうのです。
ペテロは「三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたとあります。
彼は自分の不甲斐なさと罪責の念に苛まれるのです。又、他の弟子たちも同様でした。
しかし、その後復活なさったイエスさまは再びペトロや他の弟子たちにお姿を現され、彼らは立ち上がり、聖霊の降臨と共に神の救いの福音を証しする者とされていくのです。
激しい迫害と困難の中、「わたしと共に目を覚ましていなさい」とのイエスさまのお言葉に応えつつ、共に祈り合い、励まし合って主の御業に邁進していったのではないでしょうか。
先々週、主の来臨に備える10人のおとめのたとえ話を礼拝で読みましたが。花婿の到着が遅れたことで10人のおとめたち全員が寝入ってしまいました。心は燃えていても、肉体は弱いということです。自分の決心や決意というのはもろいものです。それでも5人のおとめたちには備えの油がありました。今日はゲッセマネ、「油しぼり」の場でのお話ですが。
父なる神の御心に信頼しつつも、人としての苦しみの中で血の汗と涙をしぼり出しながら祈られたイエスさま。私たちも又、困難や問題の中、苦しみや悩みの中で、主イエスのお姿を思い起こし主と共に祈るときに、聖霊の油に満たされ神の御心に歩むように導かれることと信じます。
主イエスの御受難を覚えて歩むレントにあって、「わたしと共に目を覚まして祈っていなさい」とのお言葉に支えられ、応えつつ今週もそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。
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