礼拝宣教 マタイ25章1-13節 レントⅢ
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先日ある方が新聞の「折々のことば」というコラム欄を紹介してくださったのですが。そこに「仕事にとって重要なのは、仕事を邪魔してくれる要素だということ、との見出しでこんなことが書かれていました。
「近所に住む挿絵画家は、仕事をコンピューターでやるようになってひどく疲れやすくなった。筆を洗い鉛筆を削ることがないので、途中で息つくことも立ち止まることもない。だから友人の電話で仕事を中断させられると嬉しくなると。引き寄せたり遠ざけたり、加減を見たりと調子を変える、そんな隙の時間がないと、仕事自体が酸欠になる。」
なるほどなあと思いました。毎日追われる仕事や生活の手を止める。「あれもこれもやらなければ」という止まらない思考をストップさせる。思い煩うことさえもいったん荷を下ろす。わたしたちにとりましても、自分ではなかなかできないから、安息の日を呼びかけ合い、週に一度神の御前に時間を聖別する。こうして神の前に出て神を愛する兄弟姉妹と共に御言葉に聞き、救いの恵みを確認し、賛美してお互いを祝福する。この主日の礼拝に与ることで人間性、いやそれ以前のいのちの営みが回復されるんですね。今日という日を与えて下さった主を心から賛美します。
さて、本日は先ほど読まれましたマタイ25章1節~13節の「十人のおとめ」のたとえ話から、「目を覚ましていなさい」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
この「10人のおとめ」のたとえは、前の24章の人の子が来るという、主イエスの来臨、終末に如何に備えて今を生きるか、というお話の流れの中でキリスト者に語られているのです。
42節「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」44節「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は想いがけない時に来るからである」と記されているとおりです。
ユダヤの結婚式の風習として、夕暮れに花婿が花嫁の家に迎えに行きます。花婿が現れたら、待っていた花嫁の親しい友人たちはともし火を手にして出迎え、二人のために暗くなった道を照らしながら花嫁と一緒に花婿の行き、招かれた人たちと喜びの祝宴に与るのです。
このたとえにおいて婚礼は、キリストである花婿と花嫁である教会との間に交わされるものでありますが。10人のおとめは花嫁なる教会に呼び集められたキリスト者であります。私たちが如何に主の来臨の喜びの日に、花嫁に伴って花婿なるキリストをお迎えすることができるのか、という問いかけであります。
花婿と花嫁に伴う役目をもっていたその10人のおとめは、それぞれともし火を持って、花婿を出迎えるため花嫁の家のあたりで待っているのですが。花婿が来るのが遅れ、日も沈んだので10人とも皆、「眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。
おとめたちは緊張感や頑張りだけでは身がもたなくなり、賢いと言われた5人も眠り込んでしまった、というのはどこかほっといたしますけれども。まあそうしてみな寝入ってしまったわけです。
ともし火は10人のおとめたちが寝入っている間にも、その傍らでほのかに燃え続けていたんでありましょう。
ところが真夜中に、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。これは遂に来られた!という歓喜の叫びであるわけですが。その声を聞いた10人のおとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えるのです。
5人のおとめたちは、待っていましたと花婿を出迎え、花嫁と一緒に花婿の家に向かい、婚宴の席に入り祝宴にあずかります。
ところが、一方の5人のおとめたちは、花婿が来たという声で目が覚め、そこで初めてもう灯りをともす油がないということ気づき、慌てて買いに走りますが、時すでに遅し。
この違いは何でしょうか?それは実はたった一つだけです。
賢いおとめたちは、いつその時が来るかわからないので、油を絶やさないように準備しておこうと考えた。一方のおとめたちは、花婿は夕方には来るのだから油はこんなもんでいいでしょうと考えた。
すべての条件は同じです。用意しようとすればできた。お店はまだ開いていました。
決定的な違いは、唯、その時に向けて備えをしておこうという意志があったか、なかったかということにあります。
絶やさずにともし火を灯し続け、いざという時にそれをかかげ、花婿キリストを出迎え、花嫁と親戚ら共に喜び祝うために、欠かすことのできないともし火の油を常に切らすことがないように守ることが必要なのですね。
みな同じようにあかりを灯す燭台はもっていて、同じ場所、同じ時そこにいた。それは外から見ただけは分かりません。本人さえ分からなかったのです。遂に花婿が来たという声を聞いて、「あっ、これでは油が足りない」と気づくまでは・・・。
では、この油とは何でしょうか?
聖霊の油とか、あるいは信仰の油だとか。いろんなことが言われていますけれども。
みなさんは何だと思われますか?イエスさまはその答えとなることは何もおっしゃっていません。しかし、ここに一つだけそのヒントとなることが語られています。
それは、この油がその人それぞれのものであり、それは人に分けてあげたりすることはできないものだということです。
8節のところで「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』と言うと、賢いおとめたちは『分けてあげるほどありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』と答えた」とあります。ここを読みますと、賢い5人のおとめたちの答えは一見冷淡にさえ思えます。
「キリスト者ならちょっとくらい分けてあげたらいいのに、それが愛じゃないか」と思う方もおられるでしょう。
しかしここで語られていることは人情や親切といった次元ものではないのです。
それは、神と私、汝と我という確かな関係性なのです。この油は、他の人は代用できないんです。神と私という一対一の関係性によって得る油ですから、ほかの人に分けてあげることはできないのです。いや、そもそも分けようがないのです。
さて、このたとえ話の中で、花婿が遅れて到着した。しかしそれは真夜中であったというのは考えさせられます。10人のおとめたちにとっては、今か今かという期待がやがて、もうおいで下さってもいいのではという焦りに変わり、夜の冷え込みとともに闇が深まっていく中で不安や疲れが増し、ついには寝入ってしまうのです。
主を待ち望む教会の私たち信徒ひとり一人もまた、その時代その時代に起って来るさまざまな苦難や困難を覚える時、期待をもって祈るけれども未だ答えられず、というような闇が深まり行く現状の中で、もう祈りの言葉さえ見つからなくなることがあるかも知れません。
しかし、そういう状態の中にあっても、賢いおとめたちにはそれまで蓄えられてきた油が壺の中に満ちていた。花婿を迎え花嫁と婚礼の場に向かう分があったのです。
一方、ともし火は持っていたものの、壺に油を常備していなかったおとめたちは慌てて油を買いに行き、花婿の家に向かいますが、すでに戸が閉められていたんですね。
「ご主人様、開けてください」とおとめたちは言いますが、主人は「わたしはおまえたちのことを知らない」と言われてしまいます。
これはあまりに衝撃的で悲しい結末のように思えます。ハッピーエンドで「さあ、いいからお入りなさい」ではないんですね。しかもただ「だめ」というのでなく、「あなたたちを知らない」。私と関係がないというのです。
そこは確かに厳しいですが、主なる神さまとの関係性を日々覚え、如何に今を歩んでいるかがこの時、問われることになるんですね。
このお話はもちろん、そのたとえを聞いて来るべき時に備えているように、ということでイエスさまはお話になられたのです。ですから、このお話を受けた私たち自身が「目を覚ま」して生きてゆくとよいのです。主はそのことを願っておられます。
キリストの到来の日の約束に備え、油を絶やすことのないように新たに生きるようにと、主は願われ、日々私たちを招いておられるのです。
今日は「目を覚ましていなさい」という題でお話をしてきました。肉体が疲れて寝り込むようなことがあっても、ともし火の油が十分に備えられていた賢いおとめたち。闇も濃くなり、疲れてきて眠りに落ちてもそこには安らぎがあるのです。
コロナ禍によって1月中旬から1か月半再び教会に集っての礼拝と祈祷会が休止となりました。教会の門もいつも、いつまでも開かれるわけではなく、主(あるじ)なる神が時を数えておられること。今招かれていることがどれほど価値ある時間であるかということ。そのことを身をもって知らされています。
その間、油を絶やすことなくそれぞれで、又各家庭で礼拝が守られたことに感謝します。今日このように、天の国の婚礼の祝いの映(うつ)しともいえる礼拝の場が開かれることになりました。花婿なるキリストと花嫁なる主の教会の祝宴に与った油を絶やさなかったおとめたちのように、今週もここからそれぞれの備えを整えてまいりましょう。