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真理のことば

2020-11-22 15:54:14 | メッセージ

 主日礼拝宣教 コヘレトの言葉12章9-14節

 

先週私は母の納骨のために小倉に帰省しておりました。礼拝宣教のご奉仕をN先生に、又お証をSさんにしていただき感謝いたします。本日は宣教の後にMさんより当教会への入会の表明がなされます。又、ずっと祈りに覚えておりましたKさんが入会決心へ導かれました。これからクリスマスに向けて準備会をしてまいります。どうかお祈り下さい。

そしてさらに、信仰の確信と決心へ導かれましたOさん。6月21日ご自分の誕生日の日に礼拝に初めてご出席なさいましたが。その後は他の教会にも行かれたそうですが、11月1日不思議とこの大阪教会の礼拝に戻ってこられたということです。現在は信仰入門のクラスを開始しました。どうかお祈り下さい。もうお一人は、先週の午前の祈祷会にいらしたCさんという方です。インターネットをあたって初めて教会に足を運ばれたのがこの教会だそうです。この方は御自分で聖書を持っておられ聖書を一人で通読されたそうです。その後人づてにキリスト教のことを聞く機会があり、教会に一度行きたいとの思いが起こされて訪ねて来られたのが先週水曜日の祈祷会だったのです。大変勇気がいったと思うのですが。その祈祷会後メールで、「はじめての教会で少し緊張していたのですが、みなさん温かく迎えてくださったので嬉しかったです。またぜひ伺わせていただきます」と、うれしいことばを頂きました。Oさん、そしてCさん、ともにキリスト教について人づたえに以前から聞いていた福音の種が、いろいろな出来事を経て今芽吹きはじめたのではないでしょうか。

「すべてに時があり、神のなさることは時に適って美しい」とコヘレトの言葉にありますが、その通りですね。そしてそこには聖霊のお働きを覚えます。なぜならお二人はともに聖書を開き、ともに祈り合うキリストの教会と主にある兄弟姉妹の必要性を感じたからです。聖霊は個人の救いにとどまらず、キリストの証人、あかし人として立てておられます。御言葉の広さ深さを体験していくためには一人では無理です。他者との出会いと主にある学び合いが不可欠です。不完全な私たちに主イエスにある救いと神の国の交わりを導き与えて下さるのは聖霊のお働きであります。

 

まぁ、今年はイースター礼拝からコロナ感染症の蔓延によって礼拝が2ヶ月間休止となり6月から念願の礼拝が再開されるようになりました。このところにおいでになるのが困難になった方々も多い中、礼拝席も半分に減らし、礼拝プログラムを一部割愛し時間を短縮してのこの主日礼拝と祈り会ですが、そのともし火を消すことなくここまで守られてきたことは大変感謝なことです。そのような中、まか不思議と申しますか。9月にIさんの転入会、今日はMさんの入会表明、さらにKさんが入会の決心へ導かれ、さらにOさん、Cさんという求道者を主はおこされるのですね。主である神さまには、世の状況によってお出来にならないことなどなく、むしろ人の不可能と思える時、自分の力では無理だと思える時にこそ、その力を発揮され、その主の栄光を仰ぐことになるのです。これぞ信仰ですね。このコロナ禍で大変なことがあり、今後も何が起るかはわかりませんが、この時を通して実は神さまは私たちに向けて、「真の拠り所」「真に求めるべきお方」が誰であるかをお示しになられているのではないでしょうか。

イエスさまは次のようにおっしゃいました。マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」今、このコロナ禍において神さまは世のすべての人を「真理のことば」へとお招きになっておられるのではないでしょうか。

さて、10月から礼拝で読んできましたコヘレトの言葉も今日で最後となりました。

今日は12章9節-14節より「真理のことば」と題して、ともに御言葉に聞いていきたいと思いますが。まず9-10節を見ますと、「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした」とあります。

以前にも申しましたように、コヘレトというヘブライ語は、「集める者」という意味があり、「真理の言葉」を集めて記録をするとともに、聞くものを集会へと招集して「民を教え、知識を与える」という役割を担っていたようであります。そうしてみますと、コヘレトの働きは「いつも、真理を求め続ける」、いわば求道者であり、それを分かち合う共同体の一員であったといえるかも知れません。

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節でこう書きとめました。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となったわけでもありません、何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスから捕えられているからです。」そのようにしてパウロは福音を確認しながら、諸教会はじめいたる所で御言葉を宣べ伝え続けました。

まぁ、コヘレトのメッセージには「人間の人生、この地上での生涯はみな終わりがある。だから、限りあるその時、その時を労苦とともに、その報酬として悔いのないように楽しみ、与えられた恵みを享受して生きるように」との奨め、生き方の指南が語られています。しかし創造主を知らない人生は実に空である、と語るのです。

先々週12章を読んだように、それだから「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい」ということであります。その時には、「いつも、青春の日々」という題をつけて、お話しましたが。若くして主と出会い、御言葉に生きることは確かに幸いでありますけれども。聖書にあるように、たとえ私たちの外なる人は衰えたとしても、主のみもとにあるなら、私たちの内なる人は日々新しくされるのです。30年近く牧師をさせていたく中で、ご高齢になってからも主イエスにある希望と平安のうちに身を寄せ、その内側からにじみ出る魂の輝きを放っておられるクリスチャンの兄弟姉妹がおられ、どれだけ私自身力づけられ、励ましを頂いてきたことでしょうか。

さて、コヘレトは11節で次のように申します。

「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」

この突き棒や釘とは何のことかと思われるかもしれません。それはこのすぐ後に「牧者」とありますように、その昔、家畜を牧するための棒(杖)を用いました。大きな家畜の場合は、その棒の先に釘をつけたようです。あの詩編23編に描かれる「羊飼いの鞭と杖」を思い起こさせます。その1-4節を読んでみたいと思います。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりを伴い/魂を生き返らせてくださる。主の御名はふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」口語訳聖書では「主は、わたしの牧者」となっています。コヘレトが「ただひとりの牧者」というのは、単なる牧者、羊飼いのことではなく、唯おひとりの創造主である神さま御自身のことなのです。

羊のように目の前のこと、生きることに精いっぱいの私たちが迷い出たり、滅びの道に向かわないために、時に釘のついた突き棒でもって、正しい道に引き戻してくださる牧者なる神さまのお姿がここに表されています。ただおひとりの主である大牧者が「突き棒や釘」でもって羊である私たちを、それは私たちにとってはある意味「痛い」と感じるような御言葉を通して、迷いと危険の道から守ってくださるということであります。その「突き棒や釘」とは、真理の言葉、私たちにとりましては天地万物の造り主なる神の言、聖書の御言葉なのです。

ヘブライ人への手紙4章12節以降には次のように記されています。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからである。」これほどまでに「神のことば」は威力あるものなのです。それはしかし痛みを伴うだけに私たちがそれを如何に聴き、受け取るかが重要なのです。聖書のことば、耳障りのよいことは感謝、喜んで聴くことができても、自分にとって痛い、出来れば逃げたい、スルーしたいという時も起ってまいります。自分を守ろう守ろうとするとき、御言葉は決して心のうちに響いてこないでしょう。大事なことは、羊は羊飼いを信頼するからこそ、その声に聞き、突き棒に正されます。同様に主に信頼する者は御言葉に従って生きる時、平安が訪れるのです。

コヘレトは言います。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」

多くの人がその身に鎧をつけ、一人で生きているように強がり、自分の人生は自分のものだ、自分で決めると、神とその御言葉から離れて生活します。しかし人の世のはかなさと空虚だけでなく、自らのうちに大きな心の穴、空虚に気づいたとき、飼い主のいない羊のようにどう生きていったらよいか、不安が押し寄せてくるのです。コロナ禍にある今も、そういった気づき時代なのかもしれません。そこで、人は唯、打ち砕かれた魂こそが、真に信頼に価する確かな存在、「ただひとりの牧者」なる主を見出し、その御声、真理のことばに聞き従うことができるのです。頑なな思いをすべて神の前に開き、ゆだね切る。神を畏れるとはそういうことです。

コヘレトは1章2節においてこう言いました。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」しかし、今日の最後のところでこう言います。「『神を畏れ、その戒めを守れ。』」これこそ人間のすべて。」

神を知らず、神を拒み、神に背を向け、その愛を信じない。なんと空しくすべてはかないことでしょう。それこそが聖書は罪であると言い、その罪のゆえに人は滅びに向かうと教えます。神のひとり子、主イエス・キリストはその滅びの法則からすべての人をあがない、救うため、人となり十字架で身代わりの死を遂げられました。主は聖霊をお送りくださり、今も私たちを生かし、守り、導いて下さるお方なのです。

目に見える世界の情勢や世に起る不条理や理不尽な出来事を見れば、神はどこにいるのか。信仰者であっても、神はどうしてこの状況を見過ごしになられるのかと、思うようなこともあるでしょう。しかし、天地万物を造り、いのちの源であられる主なる神さまは唯ひとりの牧者として世のいっさいを司っておられます。来るべき主の日、裁きの日に至るまで人のすべてを見極めておられるのです。それは主を信じる者には希望であります。この厳粛な時に備え、主を畏れ、御言葉に聞き従って生きる者とされてまいりましょう。

「神を畏れ、その戒めを守れ。それこそ人間のすべて。」主イエス・キリストの救いのいのち。その義と愛による光の証人として、、今週もこの私たちが生かされている世に遣わされてまいりましょう。

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