礼拝宣教 マタイ6章7~13節 世界祈祷週間・アドベント
本日から来年の4月迄礼拝ではしばらくマタイによる福音書を読んでいきます。今日は世界祈祷週間ということもあり、イエスさまが教えられた「主の祈り」から聞いていきたいと思います。
聖書の言葉が命のパン、霊の糧なら、「祈り」は私たちにとりまして呼吸のように大切な信仰生活の一部です。朝の始まり、一日の終わり、目覚め、食事の感謝、さらに個人的な祈り、又兄弟姉妹、家族や友人、知人のことをおぼえて、主に執り成す祈り、といとまがありません。
イエスさまは今日の箇所でこう仰せになります。7-8節で「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」まあ、くどくどとした祈りと聞きますと、あんまり長い時間いろいろなことを祈るのは良くないのかなとお考えになる方もおられるかもしれませんが。そういうわけではありません。
イエスさまはお忙しい合間にあっても祈りを欠かさず、山に登られては祈りのときをもたれていました。又、いよいよ十字架の道へと向かわれる前夜、世を徹して父の神に祈られました。使徒パウロも絶えず祈り続けるようにと勧めています。本当に「神よ、どうか耳を傾けてください。どうか、助けてください」という時には祈り続けないではおれません。
では、どういう祈りがくどくどというのかと申しますと、一言でいえば「神との信頼関係を欠いた祈り」ではないかと思うんですね。
イエスさまはここで祈りについて大事なことを言われています。「あなたがたが願う前から、父の神はあなたがたが必要なものをすべてご存じなのだ。」父なる神さまに対して「信頼」と「期待」をもって祈るようにと、イエスさまは教えておられるのです。対する異邦人の祈りは、自分はこれだけのことをした、だからお聞きください、思い通り願い通りになりますようにという祈りです。それは信頼ではなく取引ですね。キリスト者、クリスチャンは自分が神の前に如何に罪深い者、至らない者であることを認め、主イエスの赦しと救いを受けたのです。そして父なる神との和解、交わりの回復が与えられ、「父よ」「子よ」という畏れ多いことでありますが、親しい交わり、信頼の関係に与っているのです。そこに、いわゆるキリスト教の「祈りの本質」があるかと思うのです。
イエスさまはこの父なる神への信頼において「だから、こう祈りなさい」とおっしゃったのです。ある人は日毎に、また、毎週の礼拝の中では毎回みなで心を合せて祈っていますこの「主の祈り」であります。それは又、主の日において世界中の教会で共に祈られている祈りでもございます。
先に申しましたように、わたしたちの必要をご存じである父なる神との親しい交わりの関係を築いていく前半の祈り、それが「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りです。このように祈ることから私たちの心は天に開かれ、父なる神との信頼の関係が深められていくのです。
さらに、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」との「日毎の糧」「罪・負い目の赦し」「悪いものからの守りと救い」という「私たちの祈り」が続きます。この「わたし」ではなく「私たち」とイエスさまがおっしゃったところに、大切なメッセージが込められていると思うのです。
日用の糧は、すべての人にとって生きるため必要なものです。けれど世界中で飢えて亡くなる人が絶えません。この日毎の糧が今必要な方々のもとに届くように祈ります。又、人はパンのみで生きるのではない、との御言葉の糧が必要であります。今日は世界各地における福音宣教と和解の福音の大切なお働きをされている方々を共に覚え、祈る礼拝を捧げていますが。まさに、この祈りは神の国の幸いを分かち合うものといえるでしょう。
先日Iさんから、お母さまが行かれているMバプテスト教会の方々が作られたお手製のクリスマスカードをお預かりし、女性会のご理解を得て礼拝後に販売されることになりました。通常天城山荘での連盟総会、女性大会の場でアピールし販売がなされ収益のすべてを世界祈祷献金として捧げられていたようで、今年はコロナ禍で連盟総会も女性大会も中止となり、アピールの場がなくなったということを壱岐さんから伺いました。この事も又、協力伝道の尊いお働きを分かち合える機会になるんですね。
話を「主の祈り」の「「わたしたの負い目をおゆるしください」といういう祈りに移りますが。人間はみな誰もが「罪」ある者です。その問題から、意識、無意識に拘わらず人を傷つけていたり、躓かせていたりと、様々な事どもが起こってきます。その罪の「負い目」を私たちはそれぞれに抱えて生きています。もし、そういった負い目に対するゆるしがなければ、それはほんとうに苦しいものです。その負い目から解かれるために必要な努めや悔い改めは必要です。しかしその「負い目」からの根本的な解放は、父なる神さまの赦しのうちにのみあるのです。
ダビデ王は詩編51編において、自分の罪深さに気づいた時、「神よ、わたしはあなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と言って悔い改めました。そして彼は「神よ、あなたの求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれは悔いる心を、あなたは侮られません」と、神に深い信頼をもってゆるしを嘆願したことが記されています。
世に生きている限り、わたしたちは生身の人間です。悪の誘惑にもさらされ、神の愛から引き離そうとする力は常に働きます。もちろん悪の誘惑から離れていくようにすることは必要です。しかし、もし悪の誘惑に陥りそうになったとき、そこから救い出すことがおできになるお方にすべてを願い求めなければなりません。父なる神に向き直り、向き合い、その信頼の関係が築いていくためにこの祈りが私たちに与えられているのです。
さて、ここまで「主の祈り」を読んでまいりましたが、ここで肝心なことを申します。
実に私たちすべての人の造り主である父なる神は御独り子、イエス・キリストを世に遣わし、十字架を通して私たちの罪のためのあがないを成し遂げて下さったのです。その「神の愛と救い」のゆえに、私たちは信頼をもってこの「主の祈り」を祈ることができるということですね。「わたしたちに必要なもの」を主はすでに知っていて下さいます。だから、わたしたちもまた、父なる神さまに期待をもってこの「主の祈り」を祈ることができるのです。なんと感謝なことでしょうか。
先週の水曜日の午前中の祈祷会に出席されたM宣教師が、こういうことをお話してくださいました。「イスラエル、ユダヤでは神の御名を呼ぶことは、畏れ多いこととされていました。私は物心つく頃に父と離別した。そういう中、イエスさまは、この主の祈りの中で「天におられるわたしたちの父よ」と言って祈っていい、その畏れ多い神さまを『父よ』(アラム語・アッバ)と、幼い子どもが、父ちゃんとほんとうに全幅の信頼で呼びかけるように、父なる神さまに祈っていいと、イエスさまは」おっしゃった。そこに真の父の存在を私は知ることができた」と。実にわたしも同様の経験をしていますので、心の内でアーメンと言いましたが。この天の神さまはモーセに、「わたしは有って在る者」と自己紹介されましたけれども。それは、どこにいても、どんなことがあっても、わたしはあなたと共にいる存在だ」ということですね。
本日よりアドベントに入りましたが。まさに、クリスマスはその父なる神さまが御独り子のイエス・キリストをわたしたちの救い主として遣わしてくださったことを祝い、喜びを共にする記念の日です。わたしたちが「どこにいても」「どんなことがあっても」、共にいてくださる。これが主イエス・キリストがインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれるゆえんであります。何という恵み、救いでしょうか。
世界祈祷週間とはまさに、この喜びを世界中の人たちと一緒に分かち合っていくための働きであるといえるでしょう。主イエスの宣教と和解の福音をそれぞれの地に遣わされておられる方々のお働きと健康が守られ祝されるよう祈ってまいりましょう。又、今、世界の人々がコロナ禍によって苦しんでいます。心が痛み傷ついています。日本もそうです。先行きが見えない中で、苦しみあえいでいる人がおられます。しかし主はすべてをご存じであられ、その必要が満たされるようにとだれよりも願い、祈りのうちにお働き下さるお方なのです。
今日、わたしたちもこの「主の祈り」を、全世界の造り主であられる主の御もとにあって、今週もここからそれぞれの馳せ場へと遣わされるべく祈りつとめてまいりましょう。