主日礼拝式 ローマ12章1節~8節 聖霊降臨・ペンテコステ
聖霊降臨、ペンテコステを迎えました。
今日はその大いなる恵みを覚えつつ、御言葉のもとそれぞれ主に立返り、ここから新たな週のあゆみを始めてまいりたいと願っています。
本日はローマの信徒への手紙12章1~8節より「キリストに結ばれて」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の11章のところでお話しましたように、ローマの教会の開拓はユダヤ人クリスチによって始まり、教会の基礎ができ、その伝道を通して異邦人であるローマ人やギリシャ人といった人たちがクリスチャンとなっていきました。
そのうちの異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンの人たちより多くなり、力をもつようになり、どこかユダヤ人クリスチャンたちを見下したり、自分たちの優位性を誇ったりすることがあったようです。片やユダヤ人クリスチャンもユダヤの慣習を押し付けようとする者もいました。
パウロはその異邦人クリスチャンに対して、「野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝(ユダヤ人)に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11章17-18節)と忠告しました。
その根とは、ユダヤ人も異邦人も「すべての人を憐れむ」(11章32節)神の愛です。
そこには分け隔てはありません。主イエスによって救われた罪人にすぎず、主の憐れみによって神の民とされます。だれも誇ることはできないのです。
この問題を私たちのことに引きつけて考えてみたいと思います。
たとえば、この人は「奉仕をされる」とか「何々ができる」ということが物差しになって、教会の中で重んじられたり、逆に軽んじられたりすることがあったとしたら、ローマの教会でユダヤ人の人たちを見下したり、自分たちの優位性を誇っていた人たちと何ら変わらないでしょう。
クリスチャンとしての存在の価値は、ただ神の子が流された血による「神の憐れみ」以外の何ものでもないからです。それは完全に神の賜物です。
わたしたちはどのような人も、例外なく、あなたも、わたしも、この神の憐れみの根っこに支えられ、価値ある存在とされているのです。
その事を受けて今日の12章1節で「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とお勧めがなされているのですが。
それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそ礼拝です」という礼拝についての勧めです。しかしこの礼拝というのは何も日曜日の午前10時半から12時と、そういうことを言っているのではありません。ここで問われているのは私たちの捧げる信仰の中身、本質であります。
パウロは1節で自分のからだを神に喜ばれるものとして、「聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」と述べます。
岩波訳では「生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」となっています。これが「なすべき礼拝」、原語的には「理にかなった礼拝」だというのです。
そこにはまず「イエス・キリストご自身が私たちの罪を贖う生きた、聖なる供え物となってくださった」ことがございます。その主イエスを仰ぎ、倣いつつ生きるように私たちは招かれているのです。
具体的には2節にあるように「世に倣ってはなりません。むしろ、日々心を新たにして主の言葉と聖霊のお働きに聞いて自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知るようになりなさい」とのお勧めであります。
まあ、そこには異邦人のクリスチャンたちを取り巻く環境や誘惑があったことが読み取れますが。まあ、私たちもそうですね。だからこそ、聖霊によって心を新たにしていただく必要がございます。
それは人の力ではなし得ません。又一人でなし得るものでもありません。
主に呼び集められた人たち、それをエクレシア;教会というのですが。その主に呼び集められた人たちの間にお働きになる聖霊によってのみ、わたしたちはその招きに応え得る者とされるのです。聖霊を通して大いなる主の恵みに心から感謝と賛美をもって、自分のからだを神に喜ばれるものとして捧げる真の礼拝に与ることが出来るのですね。そこに主のゆたかなお取りはからいと祝福がございます。
さて、そのように1節、岩波訳では「あなたがたのからだを、生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」と勧めるパウロは、3節以降のところではローマの地域教会を人間の体にたとえ、ユダヤ人も異邦人も相互に支え合い助け合う存在であることを説きます。
私たち一人ひとりのクリスチャンはキリストの教会の体の一部であるというのですね。
さらにその大切な一人ひとりは、人間の体がそうであるように「すべての部分が同じ働きをしていない」。そこが重要です。
パウロはコリントの信徒への手紙12章においても、「一つの体、多くの部分」として
教会をキリストの体にたとえていますが。
今日の5節にも「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と同様のことを述べられています。
耳は目になることはありません。しかし耳をとおして体は聞くことができます。又、目を通して体は見ることができるのです。それは言い換えるなら、わたしという存在が他者を生かす者であり、同時に他者の存在が意識しなくても私を生かしているという関係性です。
主イエスあってだれもが尊く、主に呼ばれていることを知り、お互いの存在を認め合いながら、共に先に申しあげたような礼拝者として生きていく。それこそが「キリストの体なる教会の本来あるべき姿」であり、そのような教会を建てあげていくように、わたしたちも招かれているのです。
さて、ローマの教会と同様コリントの教会にも重大な問題が起こっていました。文字通りからだが病んでいるような状況に陥っていたのです。
それは、ある人たちは自分に与えられた賜物や立場といったものを誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人への無理解や無関心によって、その人たちが痛みを覚えるようなことになっていたのです。それは教会にとって病巣(びょうそう)となっていたということですね。
そのことに関してパウロはコリント一12章22節でも「からだの中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と述べています。
弱いというのではなく、弱く「見える」部分と記されていることに注意を払う必要があります。
世の競争社会に生まれ育った私たちはあらゆるところでランクづけされ、優劣をつけられる中で優越感や逆に劣等感にさいなまれ、他者と比較し強いか弱いか評価してしまうところがあります。
しかし弱いか強いかなんて本来他者であれ自分であれ、人が評価するようなこととは違うと思うんです。人はいつどうなるか、その立場も境遇もどう変わるか分かりません。
ましてや立場や境遇で人の尊厳が損なわれるものではありません。
弱いとか強いとかいうものは極めて相対的なものであるのです。単に「弱い」「強い」という世の価値観がその人をもちあげたり、おとしめたりしているに過ぎません。
だからパウロは、弱く見える、そう見えるだけという意味でこの言葉を用いたのですね。
レ―ナマリアさんという方がいます。ご存じの方も多いと思いますが。彼女は生まれつき両手がつけねまで、片足も短く生まれました。
そういう中で、ご本人の周りの方、特にご家族の深い愛情と祈りに育まれ、ご自身の
るがままにその命を輝かせておられます。片方の足でみごとに生活の必要を満たし、家事炊飯針仕事までなさるそうですね。そしてその信仰の感謝と喜びに満ちた希望の歌は、聞く人の心をいやし励ましてくれます。彼女は社会的には身体しょうがい者という立場の弱者とみなされるかも知れません。しかし彼女は信仰によって自分がどれほど尊い者とされているかをご存じです。だからこそ、クリスチャンのみならず世の多くの人に生きる力を分け与えてくれているのですね。
かつて世界中が戦争を繰り返していた国において「しょうがい者」を世にあって必要のない存在:優生思想のもと切り捨て、ないがしろにする暗い時代があったわけですが。それはまさに社会が病んでいる、機能不全に陥っている状況であったといえます。
弱く見えるから切り捨てる。基準が合わないから排除する壁を作る。それは殺伐とした世界を示します。社会全体が病んでいることを現しています。様々な人がいるからこそ本当のゆたかさ、学びや気づきや愛情など、目に見えものだけでは計り知ることのできない経験を得ることが出来るのに。本当に残念なことです。
私たちの体は血液の循環によってそのいのちと健康が日々保たれていますが。私たちの体内には常に一分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。血液は体を感染や悪い菌から守り、血液の白血球や赤血球というものはからだの中で最も小さな部分のように思えますが。その最も小さいように思えるところが実は体を守り、すべての器官を助け、影響を及ぼしているんですね。心臓の弁だってそうですね。肉眼では見落とすぐらい小さな蓋です。
このように考えると、からだの中で最も小さく、弱く見えるようなパーツの一つひとつが保たれてこそ、健やかに過ごせるでしょうし、傷んだところ、弱ったところができたならいたわり、ケアすることで命は保たれるんですね。
先週はローマ11章を読みましたが。神はユダヤ人も異邦人も合われ憐れんでおられるのです。その神の腸が痛まれるほどの愛によってユダヤ人も、又異邦人であっても救いに与り、キリストに結ばれて神の民とされたのです。
わたしたちは今、目に見えるかたちで大阪教会という一つの地域教会において礼拝を捧げて今日の宣教題のように「キリストに結ばれて、一つのからだを形づくっています」。
互いが大切な存在とされていることを、支え合い、祈り合う中で確認しています。
それが主に結ばれた恵みのあかしとなっていくよう心から願うものです。
同様にこの世界中に建てられているすべての教会は、主に呼び集められた群れなのです。
それらの出発点は、今日記念し覚えています「聖霊降臨」、ペンテコステであります。
ご復活の後、天に昇られる際、主イエスは弟子や従って来た者たちに「約束された聖霊が降るまで、エルサレムを離れず待ちなさい」(使徒言行録1章)とおっしゃいました。
一同が主の約束に望みをおいて集まり、心を一つにして祈っていたそのところに聖霊が降った(使徒言行録2章)のですね。
世界で最初の聖霊降臨の記述です。聖霊のお働きは、賜物として一人ひとりを主に用いられる者となし、そこに初代教会が誕生していったのです。
聖霊は2000年を経た今日も主イエスを信じ、救いに与る教会の力、慰め主、導き手であられます。今日のこのペンテコステはその誕生祭としてこのように祝われているのですね。
「主イエスの十字架による贖いと復活、その主イエスを信じる者は救われる」との福音は、エルサレムだけでなく、中近東、そして小アジア、ギリシャやローマにも聖霊の働きとお導きによって伝えられていきました。
そして今や、あらゆるところにまでキリストのからだなる教会が建てあげられ、さらに福音の証しが立てられ続けています。
今日はこのすばらしい恵みを心から覚え、感謝と新たな献身の思いを頂いてここから今週のそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈り(6節~8節)
聖霊降臨、ペンテコステを迎えました。
今日はその大いなる恵みを覚えつつ、御言葉のもとそれぞれ主に立返り、ここから新たな週のあゆみを始めてまいりたいと願っています。
本日はローマの信徒への手紙12章1~8節より「キリストに結ばれて」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の11章のところでお話しましたように、ローマの教会の開拓はユダヤ人クリスチによって始まり、教会の基礎ができ、その伝道を通して異邦人であるローマ人やギリシャ人といった人たちがクリスチャンとなっていきました。
そのうちの異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンの人たちより多くなり、力をもつようになり、どこかユダヤ人クリスチャンたちを見下したり、自分たちの優位性を誇ったりすることがあったようです。片やユダヤ人クリスチャンもユダヤの慣習を押し付けようとする者もいました。
パウロはその異邦人クリスチャンに対して、「野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝(ユダヤ人)に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11章17-18節)と忠告しました。
その根とは、ユダヤ人も異邦人も「すべての人を憐れむ」(11章32節)神の愛です。
そこには分け隔てはありません。主イエスによって救われた罪人にすぎず、主の憐れみによって神の民とされます。だれも誇ることはできないのです。
この問題を私たちのことに引きつけて考えてみたいと思います。
たとえば、この人は「奉仕をされる」とか「何々ができる」ということが物差しになって、教会の中で重んじられたり、逆に軽んじられたりすることがあったとしたら、ローマの教会でユダヤ人の人たちを見下したり、自分たちの優位性を誇っていた人たちと何ら変わらないでしょう。
クリスチャンとしての存在の価値は、ただ神の子が流された血による「神の憐れみ」以外の何ものでもないからです。それは完全に神の賜物です。
わたしたちはどのような人も、例外なく、あなたも、わたしも、この神の憐れみの根っこに支えられ、価値ある存在とされているのです。
その事を受けて今日の12章1節で「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とお勧めがなされているのですが。
それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそ礼拝です」という礼拝についての勧めです。しかしこの礼拝というのは何も日曜日の午前10時半から12時と、そういうことを言っているのではありません。ここで問われているのは私たちの捧げる信仰の中身、本質であります。
パウロは1節で自分のからだを神に喜ばれるものとして、「聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」と述べます。
岩波訳では「生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」となっています。これが「なすべき礼拝」、原語的には「理にかなった礼拝」だというのです。
そこにはまず「イエス・キリストご自身が私たちの罪を贖う生きた、聖なる供え物となってくださった」ことがございます。その主イエスを仰ぎ、倣いつつ生きるように私たちは招かれているのです。
具体的には2節にあるように「世に倣ってはなりません。むしろ、日々心を新たにして主の言葉と聖霊のお働きに聞いて自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知るようになりなさい」とのお勧めであります。
まあ、そこには異邦人のクリスチャンたちを取り巻く環境や誘惑があったことが読み取れますが。まあ、私たちもそうですね。だからこそ、聖霊によって心を新たにしていただく必要がございます。
それは人の力ではなし得ません。又一人でなし得るものでもありません。
主に呼び集められた人たち、それをエクレシア;教会というのですが。その主に呼び集められた人たちの間にお働きになる聖霊によってのみ、わたしたちはその招きに応え得る者とされるのです。聖霊を通して大いなる主の恵みに心から感謝と賛美をもって、自分のからだを神に喜ばれるものとして捧げる真の礼拝に与ることが出来るのですね。そこに主のゆたかなお取りはからいと祝福がございます。
さて、そのように1節、岩波訳では「あなたがたのからだを、生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」と勧めるパウロは、3節以降のところではローマの地域教会を人間の体にたとえ、ユダヤ人も異邦人も相互に支え合い助け合う存在であることを説きます。
私たち一人ひとりのクリスチャンはキリストの教会の体の一部であるというのですね。
さらにその大切な一人ひとりは、人間の体がそうであるように「すべての部分が同じ働きをしていない」。そこが重要です。
パウロはコリントの信徒への手紙12章においても、「一つの体、多くの部分」として
教会をキリストの体にたとえていますが。
今日の5節にも「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と同様のことを述べられています。
耳は目になることはありません。しかし耳をとおして体は聞くことができます。又、目を通して体は見ることができるのです。それは言い換えるなら、わたしという存在が他者を生かす者であり、同時に他者の存在が意識しなくても私を生かしているという関係性です。
主イエスあってだれもが尊く、主に呼ばれていることを知り、お互いの存在を認め合いながら、共に先に申しあげたような礼拝者として生きていく。それこそが「キリストの体なる教会の本来あるべき姿」であり、そのような教会を建てあげていくように、わたしたちも招かれているのです。
さて、ローマの教会と同様コリントの教会にも重大な問題が起こっていました。文字通りからだが病んでいるような状況に陥っていたのです。
それは、ある人たちは自分に与えられた賜物や立場といったものを誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人への無理解や無関心によって、その人たちが痛みを覚えるようなことになっていたのです。それは教会にとって病巣(びょうそう)となっていたということですね。
そのことに関してパウロはコリント一12章22節でも「からだの中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と述べています。
弱いというのではなく、弱く「見える」部分と記されていることに注意を払う必要があります。
世の競争社会に生まれ育った私たちはあらゆるところでランクづけされ、優劣をつけられる中で優越感や逆に劣等感にさいなまれ、他者と比較し強いか弱いか評価してしまうところがあります。
しかし弱いか強いかなんて本来他者であれ自分であれ、人が評価するようなこととは違うと思うんです。人はいつどうなるか、その立場も境遇もどう変わるか分かりません。
ましてや立場や境遇で人の尊厳が損なわれるものではありません。
弱いとか強いとかいうものは極めて相対的なものであるのです。単に「弱い」「強い」という世の価値観がその人をもちあげたり、おとしめたりしているに過ぎません。
だからパウロは、弱く見える、そう見えるだけという意味でこの言葉を用いたのですね。
レ―ナマリアさんという方がいます。ご存じの方も多いと思いますが。彼女は生まれつき両手がつけねまで、片足も短く生まれました。
そういう中で、ご本人の周りの方、特にご家族の深い愛情と祈りに育まれ、ご自身の
るがままにその命を輝かせておられます。片方の足でみごとに生活の必要を満たし、家事炊飯針仕事までなさるそうですね。そしてその信仰の感謝と喜びに満ちた希望の歌は、聞く人の心をいやし励ましてくれます。彼女は社会的には身体しょうがい者という立場の弱者とみなされるかも知れません。しかし彼女は信仰によって自分がどれほど尊い者とされているかをご存じです。だからこそ、クリスチャンのみならず世の多くの人に生きる力を分け与えてくれているのですね。
かつて世界中が戦争を繰り返していた国において「しょうがい者」を世にあって必要のない存在:優生思想のもと切り捨て、ないがしろにする暗い時代があったわけですが。それはまさに社会が病んでいる、機能不全に陥っている状況であったといえます。
弱く見えるから切り捨てる。基準が合わないから排除する壁を作る。それは殺伐とした世界を示します。社会全体が病んでいることを現しています。様々な人がいるからこそ本当のゆたかさ、学びや気づきや愛情など、目に見えものだけでは計り知ることのできない経験を得ることが出来るのに。本当に残念なことです。
私たちの体は血液の循環によってそのいのちと健康が日々保たれていますが。私たちの体内には常に一分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。血液は体を感染や悪い菌から守り、血液の白血球や赤血球というものはからだの中で最も小さな部分のように思えますが。その最も小さいように思えるところが実は体を守り、すべての器官を助け、影響を及ぼしているんですね。心臓の弁だってそうですね。肉眼では見落とすぐらい小さな蓋です。
このように考えると、からだの中で最も小さく、弱く見えるようなパーツの一つひとつが保たれてこそ、健やかに過ごせるでしょうし、傷んだところ、弱ったところができたならいたわり、ケアすることで命は保たれるんですね。
先週はローマ11章を読みましたが。神はユダヤ人も異邦人も合われ憐れんでおられるのです。その神の腸が痛まれるほどの愛によってユダヤ人も、又異邦人であっても救いに与り、キリストに結ばれて神の民とされたのです。
わたしたちは今、目に見えるかたちで大阪教会という一つの地域教会において礼拝を捧げて今日の宣教題のように「キリストに結ばれて、一つのからだを形づくっています」。
互いが大切な存在とされていることを、支え合い、祈り合う中で確認しています。
それが主に結ばれた恵みのあかしとなっていくよう心から願うものです。
同様にこの世界中に建てられているすべての教会は、主に呼び集められた群れなのです。
それらの出発点は、今日記念し覚えています「聖霊降臨」、ペンテコステであります。
ご復活の後、天に昇られる際、主イエスは弟子や従って来た者たちに「約束された聖霊が降るまで、エルサレムを離れず待ちなさい」(使徒言行録1章)とおっしゃいました。
一同が主の約束に望みをおいて集まり、心を一つにして祈っていたそのところに聖霊が降った(使徒言行録2章)のですね。
世界で最初の聖霊降臨の記述です。聖霊のお働きは、賜物として一人ひとりを主に用いられる者となし、そこに初代教会が誕生していったのです。
聖霊は2000年を経た今日も主イエスを信じ、救いに与る教会の力、慰め主、導き手であられます。今日のこのペンテコステはその誕生祭としてこのように祝われているのですね。
「主イエスの十字架による贖いと復活、その主イエスを信じる者は救われる」との福音は、エルサレムだけでなく、中近東、そして小アジア、ギリシャやローマにも聖霊の働きとお導きによって伝えられていきました。
そして今や、あらゆるところにまでキリストのからだなる教会が建てあげられ、さらに福音の証しが立てられ続けています。
今日はこのすばらしい恵みを心から覚え、感謝と新たな献身の思いを頂いてここから今週のそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈り(6節~8節)