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神の権威の下で

2017-06-11 15:16:48 | メッセージ
主日礼拝式 ローマ12章9節~13章10節 

先ほどは本日のローマの信徒への手紙の箇所が読まれ、わかりやすい子どもメッセージが語られました。
「上に立つ権威に従いなさい」とは、「弱い立場の人の側に立って考える」「間違っていることは間違っているって勇気を出して伝える」。
そのことを十字架におかかりになるまで、身をもって示してくださったイエスさまに従うことを言っているのではないかという、メッセージ、アーメンです。

さて、私たちの日本においてはクリスチャンが1%いるかいないかです。欧米のようなキリスト教が根付いている社会とは異なる、いわば日本は異教社会といえますが。実にこのパウロの時代のローマの国は、クリスチャンからしてみれば異教社会そのものであったのです。
その後、キリスト教がローマの国教となっていくのでありますが。まだこの当時のローマのクリスチャンは、キリストを信じない異教社会にあって生活していたという事です。

そこでローマのクリスチャンたちが、その国において「如何に生きていくべきか」について具体的に述べているのが、今日読まれた12章9節以降の箇所なんですね。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という勧めの言葉以降には、異教社会に生きるクリスチャンの「愛に生きる生き方」について語られています。
ローマではじめにキリストを伝えていってローマ教会の礎を築いたその人たちの中にユダヤ人のプリスカとアクラ夫妻がいました。彼らは紀元49年にクラウディウス帝のユダヤ人追放令で、ローマを追われてしまうのですが。
その背景にはローマで熱狂主義的なユダヤ人たちが暴徒化する騒ぎがあったようです。
この暴動によりしばらくの間ユダヤ人はローマの政府指導者から危険視され、厳しい迫害が始まっていくのです。ローマの皇帝はクリスチャンもユダヤ教の一派とみなし迫害していったのです。
ですから、ローマ教会のクリスチャン達もまた、ローマの権力者に対して強い反感と敵意を抱いていたということであります。

そういう中で、使徒パウロはクリスチャンたちにユダヤ人の暴徒化していく動きとは異なる「キリストにあるもの」としての道を示します。パウロは12章21節にあるように「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と、イエスさまの歩まれた道、その生き方に倣うキリスト者としての道を勧めるのです。

それは今日の13章1節以降にもつながり、そこからは具体的に異教のローマという国において生きるクリスチャンとしての立ち位置、スタンスを提示します。
それが、1節冒頭の「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものです」とのパウロの勧めであります。

このパウロの言葉には驚きを覚えます。なぜならここでの「今ある権威」とは具体的には当時のローマの政府や行政を司るものすべてを指しているからです。
それは自分達クリスチャンを迫害し、排除しようとしている世の権力です。パウロはそれをも神に由来した権威として認めている。
そう聞いていくとき私たちはこれを一体どのように読めばよいのか考え込まないでいられません。
まあ、けれどもパウロはここで「教会と国家」という関係について、何か教会は国家や政府の下にあるのだからその言うことに従いなさいと言っているのではありません。

旧約聖書の時代より、たとえば預言者ダニエルと3人の友人は、異教のビロンの王宮に仕えながらも、王が下した命令に聞き従うことを拒み、偶像にひれ伏しませんでした。彼らは主なる神に祈ってはならないという命令を破り、いつものように日に3度ひざまずき、神の前に祈ることをやめませんでした。
このように神を信じ、畏れ愛する者は、信仰のうえで譲ることのできないことに対しては「否は否、それは違う、それはできない」と意志をもって行動してきたのです。
たとえ相手が権力をもつ王であれ、為政者であれ、同様でした。真理に反するものには従えない。神を信じる信仰者にとって、何でも権力者のいうことに聞き従うことにはならないのです。使徒パウロも、ここで世の権力者たちの命令に何でも聞き従い、どんなことでもいいなりになりなさい、と言っているのではありません。
では、どうしてパウロはローマの教会のクリスチャンたちに向けて、「上に立つ権威に
従いなさい」と勧めたのでしょう。

それは先ほども触れましたように、たとえ世の権力者による抑圧や弾圧が降りかかるようなことがあったとしても、権力者に対して暴動や熱狂による「悪をもって仕返しする」のではなく、クリスチャンとして「信仰を示していく」必要がある。そのことをパウロはここでローマの教会の信徒たちにさとしているように思います。

先の「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がける」。21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」ということですが。
そのように生き、行動していく時、本当の権威とは何か、権威はどこにあるのか、ということが世に明らかにされていく。それがパウロの信念であり、信仰でありました。

3日の土曜日、9月公開の「アメージングジャーニー;神の小屋」という映画の試写会
に行ってまいりました。娘を殺害された父親が犯人を恨んで許せませんでした。そこに「英知」という名を持つ女性の裁き司が現れます。そして裁きの座に彼を立たせ「あなたが裁きなさい」と言うのですが、クリスチャンである彼は結局娘を殺した犯人を裁けないんですね。そのシーンを見ますと、彼は裁きの権威がどこにあるのかを知るがゆえに裁けない。そしてそれを見た私も、ああやはり「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものなんだ」と、今日の13章1節後半のそのお言葉の通りだと、改めて知らされるわけです。

さて、その一方でパウロは、ローマの為政者、権力者も「神の権威の下にある」ことを否定していません。世の権力をもつ国や行政の機能と秩序を肯定しています。それらを絶対悪として否定する熱狂主義的な立場には立っていないということです。
一般的な責務があるのなら、それを果たすことは、キリスト者としてふさわしい事であり、そうすることが世にあって信仰を示すことにつながると考え、行動してしていたといえます。

7節でパウロは「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」と勧めています。

イエスさまも税金について尋ねられた時、「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に」とおっしゃいましたが。このイエスさまのお言葉はまさに主である神にこそ一切の権威、権能を司り、それを自由にお与えになることのできるお方であることが言い表わされているんですね。

今日、この聖書の箇所から「神の権威の下で」という題をつけました。
世のあらゆる種々の権威は、この神の権威の下にあるということを覚えたかったからです。おおよそのクリスチャンは無政府主義者というわけでも反国家主義者というわけでもないでしょう。あるとするなら、世のあらゆる権威の源である神を畏れ敬い、その神の前に如何に生きるかというこの一点であるでしょう。そこにはクリスチャンの然りは然り、否は否という生き方があるのです。まあそのことのゆえに、国のこと、世界の動向、政治のことにも無関心でいられないということがあるわけですね。昨今の社会情勢
も気が気でないということで、見守り、覚えて、祈り続けておられる方もここには多くいらっしゃることでしょう。
そのように、世の種々の権威は神の権威の下にある。では、「神の権威」とは、具体的にどういうものでしょうか。さっき映画の話をいたしましたが、。映画では「英知」という存在として、それが示されていたのでありますが。

私たちクリスチャンは、その神の権威を旧約聖書イザヤ書9章5節に見ることができます。クリスマスのときによく読まれる箇所でありますが。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに
与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父
、平和の君』と唱えられる。」

そうですね。私たちにとって神が与えたもう最高の権威は、このイエス・キリストの肩にあるのです。

イエスさまは十字架につけられる直前、ローマの総督ポンティオ・ピラトに尋問され
「お前がユダヤ人の王なのか」との問い掛けられたとき、「わたしは真理について証しするために来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18章37節以降)とお答えになります。
これはローマ総督のピラトがまず世の権力をもってイエスさまに尋ねるわけですが。
けれど、このイエスさまの「わたしは真理を証しするために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」とおっしゃったこのお言葉には、すごい権威がありますよね。ここに私は地上の権力とは異なる神の権威といったものを、このイエスさまのお言葉に感じるのであります。
また、安息日に麦の穂を摘んで食べた人々を問い詰めたファリサイ派の人たちにイエスさまがお答えになった箇所のマタイ12章9節以降にも、イエスさまは「神殿よりも偉大なものがここにある。もし「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」とおっしゃいました。
神がその権威を「愛と憐れみをもって顕わされた」。それがイエスさまなのですね。
イエス・キリストはまさにこの神の憐れみを身にまとわれて、神の権威をお示しになられたのです。

私たちは、このイエスさまの憐れみによって生かされ救われた者として、今生かされている生活の場において、主の愛に応え、証ししていく者とされてまいりましょう。
今週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります(8節a,10読む)。
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