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愛がなければ

2010-03-21 08:00:11 | お知らせ
宣 教 Ⅰコリント12:31-13:7
     
前回「キリストのからだ」という題で、キリストの教会における「ひとつの体と多くの部分」の関係について話をいたしました。今回はその体に多くの部分がしっかりとつながり、健全な関係を保つには、最高の賜物である「愛」が不可欠であるというパウロの話を心に刻んでいきたいと思います。 1~3節でパウロは様々な賜物や行いを引き合いに出しながら、「しかし、それらに愛がなければ」と3度も繰り返し、愛に根差した行動の重要性を強調しています。

あのマザーテレサさんはかつて「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」と言われました。
4節~7節で「愛」のもつ特性が15項目述べられていますが。その愛のところに「自分の名前」を入れて読んでみると自分のことがよく分かりますね。それら愛の特性は、どちらかといえば目立たず地味なのか、時代遅れと言われるような言葉です。私の世代は子どもの頃、忍耐、根性、星ヒューマなんて言われていましたが。今の時代からするとダサいとか言って一笑いされてしまうかも知れません。この特性について目にとまりますのは、愛は忍耐すること(寛容)で始まり、「すべてに耐えること」で終っている点であります。先週のからだを構成する部分のたとえで、肝臓の働きについて申し上げましたけど、どこか重なるように思えます。すなわち、愛とは、自分にとって怒りや憤りを覚えること、或いは面倒くさいようなこと、嫌なこと、苦しいことまでも相手のために引き受け、耐え忍んでいくことなのです。コリントの教会の複雑な人間関係を解いていく鍵はこの愛のもつ「寛容」と「慈悲」、そして「忍耐」にあると言うのです。
それらに次に続いて、ねたまない、高ぶらない、礼を失せず、恨みをいだかないなどの項目が列挙されていますが、これらは実際にコリントの教会の分裂を引き起こした人々の悪徳であったのでしょう。愛の特性とは正反対の「心の狭さ、冷淡、ねたみ、高ぶり、自慢、不作法、自己中心、いらだち、恨み、不義、短気、不信、あきらめ」などが人々の間で膨らんでいたのですね。

ところで、人間同士の愛をいうとき、男女が愛する愛(エロス)、友を愛する愛(フィリア)などあります。今日の個所に出てくる愛という言葉はアガペーの愛、それは神の愛やキリスト者が他者に自らを与える愛を示しています。そうです、ここに列挙されたような愛は、そう私の内側から出てくるものではない、この愛はアガペーの愛であり、つまり向こう側から、神さまから与えられ、キリストによって実現可能な愛であります。
アガペーの愛の特徴は、相手からどんな事をされても、どんな侮辱を受けても、傷つけられても、苦しめられても、キリストの赦しを覚えつつ、憎しみや恨みの感情と闘い、解放を受け、キリストの願いを受けて、その人のために祈り執りなすというような、「十字架の主から与えられる愛」だということです。

人の愛情というものは自然に起こって来るもの、心の中にある情から生じるものであります。しかし、アガペーの愛は敵すら愛することを可能にする愛であります。そこには感情とは異なる、愛するという意志が伴います。愛さないではおれないから愛すのではなく、神の愛のゆえに、愛そうという意志をもって愛する、それがアガペーなのです。

私たちにとってそれは、十字架のキリストに由来する愛であり、その尊いキリストの愛と恵みを戴かなければ、そういう愛について知るよしもありません。私たちは限界をもちながらもキリストに愛され、赦され、生かされている者として、他者を自分のように大事にすることが可能なのです。イエスさまは「自分によくしてくれるものを愛したからといって、何の徳になろうか」と言われました。愛せないようなものを主の愛アガペーの愛を受けて愛し執りなしていくところに、キリスト者としての生き方があります。私たちも十字架の主に従うものとなりたいと願います。
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