宣 教 Ⅰコリント11:17-26
私どもは主の晩餐によって、キリストの裂かれたみ体を象徴するパンを裂き、それを共に戴くことで、キリストのいのちに共に与り、キリストのみ体につながっているということを確認します。このパンはもともと種入れぬ状態で焼いた一つのパンを互いに裂いて戴いた。又、キリストの流された血潮を象徴するぶどう酒を共に戴き、罪びとである人間の罪をあがなって神との関係を回復・新しい契約を結んでくださったことを確認します。
これももともとぶどう酒が注がれた「一つの杯」を回しながら互いに飲むというものでした。現在でもこういうふうにして主の晩餐、又聖さん式を行っている教派もありますが、
今は衛生面の問題などから予め裂かれた、あるいは切られたパンが、又ぶどう酒(汁)も予め個別の杯に注がれたものが用意されているものをそれぞれが取って戴くというのが大半ではないでしょうか。まあ主の晩餐によって、同信の友と「キリストのいのちに与っている」ことを味わうという意味からすれば、一つのパンを互いに裂いて与る、一つの杯を共に与るという方がほんとうなのでありましょう。けれども、このように私たちは主の晩餐においてキリストにあって一つ、又信じる一人ひとりとつながっているということを感じることができます。
私たちは、教会で主の交わり、主にある交わりということをいいます。この交わりをギリシャ語で「コイノニア」と呼びますが。それはただ心地のよい、当たり障りのよい交わりをいうのではなく、「与る」ないしは「共有」するというもっと開かれ、積極的な意味があります。それはキリストの十字架にその原点というものを見ることができます。
罪と何の関係もないキリストが、罪のゆえに滅ぶしかない者の咎を背負ってくださったことに由来します。キリストにとってはいわば他人さま、赤の他人のような罪びとであるにもかかわらず、その罪人と交わり、関わりをもたれた。どんなに重たく、自らつぶれてしまうようなことであったと想像します。私たちの罪、咎を自らのこととして抱え込み、その弱さと痛みをコイノニア・共有する姿。そこに十字架のキリストがおられるのです。教会は十字架のみ業を遂げられたこのキリストのコイノニア、共有の場として存在しているのであります。
キリスト教会、聖書の言う「交わり」は、すべてこの共有するというところから来ているのです。主の晩餐において、私たちが一つのパンから共に戴き、又一つの杯を共に与るとは、実際はそういう重みのあることなのです。
話は変わりますが、先日止揚学園を訪問した折、職員の方がお風呂場を案内してくださいました。マキで炊けるお風呂だそうで、マキで炊くと滑らかなお湯になるとか。コックをひねってお湯が出るのとは違って手間がかかるのに、本当に心と体がしあわせを感じる方法をとってあるんですね。
それと、お風呂場に手すりがないのです。もちろんリフトもない。何でと初め思いましたが。経済面をケチっているということではなく、入所者と職員が一緒にお風呂に入るためには手すりはかえって無用だということでした。しかし抱えたり、支えて入るのはやはり大変なことでしょう。けれど入所者の方にとっては荷物のようにリフトで運ばれるより、手すりをつたって一人で入るより、やっぱり心地よいんじゃないでしょうか。
それともう一つ、入所者の方がお風呂に入る場合、職員の方も同じように裸になって一緒に入るということでした。それをずっと初めから続けておられるということです。実習の学生さんたちが「ええ、一緒に入るんですか」と驚かれることもあるそうですが。そういう時、「お風呂というほんとうにくつろぎの時間に、着物をつけて私たちが入ってもくつろげないでしょう」と答えているそうですね。そういう話を聞きながら、止揚学園の「ともに生きる」、又「願いや思いを一緒に担う」ということをほんとうに実践されている姿勢を改めて教えられ、心が温かくされました。支えられる側という関係を越えた、喜びと笑顔が園に満ち溢れています。
私たちは主から「新しいいのち」に与っています。そのいのちは、ただ受けるためでなく、主のご用のため、それすなわち他者を生かし、共に生きていくために戴いたいのちであるということを心にとめていきたいものです。
「いのちに与っている」。それは、キリストご自身があるがままの私をまるごと引き受け、贖いの業を成し遂げてくださったそのいのちと死に与っているということです。
感謝と喜びをもってこの主の死と十字架の福音を語り伝え、主にならい従いゆくものとされていきましょう。
私どもは主の晩餐によって、キリストの裂かれたみ体を象徴するパンを裂き、それを共に戴くことで、キリストのいのちに共に与り、キリストのみ体につながっているということを確認します。このパンはもともと種入れぬ状態で焼いた一つのパンを互いに裂いて戴いた。又、キリストの流された血潮を象徴するぶどう酒を共に戴き、罪びとである人間の罪をあがなって神との関係を回復・新しい契約を結んでくださったことを確認します。
これももともとぶどう酒が注がれた「一つの杯」を回しながら互いに飲むというものでした。現在でもこういうふうにして主の晩餐、又聖さん式を行っている教派もありますが、
今は衛生面の問題などから予め裂かれた、あるいは切られたパンが、又ぶどう酒(汁)も予め個別の杯に注がれたものが用意されているものをそれぞれが取って戴くというのが大半ではないでしょうか。まあ主の晩餐によって、同信の友と「キリストのいのちに与っている」ことを味わうという意味からすれば、一つのパンを互いに裂いて与る、一つの杯を共に与るという方がほんとうなのでありましょう。けれども、このように私たちは主の晩餐においてキリストにあって一つ、又信じる一人ひとりとつながっているということを感じることができます。
私たちは、教会で主の交わり、主にある交わりということをいいます。この交わりをギリシャ語で「コイノニア」と呼びますが。それはただ心地のよい、当たり障りのよい交わりをいうのではなく、「与る」ないしは「共有」するというもっと開かれ、積極的な意味があります。それはキリストの十字架にその原点というものを見ることができます。
罪と何の関係もないキリストが、罪のゆえに滅ぶしかない者の咎を背負ってくださったことに由来します。キリストにとってはいわば他人さま、赤の他人のような罪びとであるにもかかわらず、その罪人と交わり、関わりをもたれた。どんなに重たく、自らつぶれてしまうようなことであったと想像します。私たちの罪、咎を自らのこととして抱え込み、その弱さと痛みをコイノニア・共有する姿。そこに十字架のキリストがおられるのです。教会は十字架のみ業を遂げられたこのキリストのコイノニア、共有の場として存在しているのであります。
キリスト教会、聖書の言う「交わり」は、すべてこの共有するというところから来ているのです。主の晩餐において、私たちが一つのパンから共に戴き、又一つの杯を共に与るとは、実際はそういう重みのあることなのです。
話は変わりますが、先日止揚学園を訪問した折、職員の方がお風呂場を案内してくださいました。マキで炊けるお風呂だそうで、マキで炊くと滑らかなお湯になるとか。コックをひねってお湯が出るのとは違って手間がかかるのに、本当に心と体がしあわせを感じる方法をとってあるんですね。
それと、お風呂場に手すりがないのです。もちろんリフトもない。何でと初め思いましたが。経済面をケチっているということではなく、入所者と職員が一緒にお風呂に入るためには手すりはかえって無用だということでした。しかし抱えたり、支えて入るのはやはり大変なことでしょう。けれど入所者の方にとっては荷物のようにリフトで運ばれるより、手すりをつたって一人で入るより、やっぱり心地よいんじゃないでしょうか。
それともう一つ、入所者の方がお風呂に入る場合、職員の方も同じように裸になって一緒に入るということでした。それをずっと初めから続けておられるということです。実習の学生さんたちが「ええ、一緒に入るんですか」と驚かれることもあるそうですが。そういう時、「お風呂というほんとうにくつろぎの時間に、着物をつけて私たちが入ってもくつろげないでしょう」と答えているそうですね。そういう話を聞きながら、止揚学園の「ともに生きる」、又「願いや思いを一緒に担う」ということをほんとうに実践されている姿勢を改めて教えられ、心が温かくされました。支えられる側という関係を越えた、喜びと笑顔が園に満ち溢れています。
私たちは主から「新しいいのち」に与っています。そのいのちは、ただ受けるためでなく、主のご用のため、それすなわち他者を生かし、共に生きていくために戴いたいのちであるということを心にとめていきたいものです。
「いのちに与っている」。それは、キリストご自身があるがままの私をまるごと引き受け、贖いの業を成し遂げてくださったそのいのちと死に与っているということです。
感謝と喜びをもってこの主の死と十字架の福音を語り伝え、主にならい従いゆくものとされていきましょう。