宣教 ダニエル6章1~24節
先週は帰省させて戴きましたが、その間も「いつものとおり」大阪教会の礼拝と祈祷会が主のお導きの下、奉仕者又会衆の兄弟姉妹方によって守られましたことに感謝申しあげます。
さて、8月から礼拝でダニエル書をお読みしていますが、今日でその最終回となります。本日は6章から「神への信頼の祈り」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
この「獅子の洞窟に投げ込まれるダニエル」の物語を、私は小学生のとき教会学校の礼拝で初めて聞いた憶えがあります。今日は今、この物語が私たちに何を伝えようとしているのか、耳を傾けていきたいと願っています。
メディア人のダレイオス王は、ダニエルを大臣の一人に任命します。そして彼に王国全体を治めさせようとますが、それは「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた」からだと記されています。ダニエルは大変秀でた人物であったようです。若い頃からエリート教育を受けており、又人格的にも誠実で王の信頼に値する優秀な人でした。
けれども王がダニエルに国を治めさせようとしたのは、何よりダニエルに「優れた霊が宿っていた」からであり、それだから「他の大臣や総督のすべてに傑出していた」というのです。ダニエル自身が優れていたとか能力があったというのではなく、神の霊がダニエルに注がれていたというのです。
私たちにとっても学ぶことや資格や技術を身につけることは人生を豊かにしてくれるでしょう。しかし聖書に「主を畏れ敬うことこそ知恵のはじまり」とありますように、真の生ける神を知り、主に従って生きる人、聖霊に満たされて生きる人に、神からの祝福と平安は絶えることはありません。主はダニエルに主の香りを放たれ、その香りはまた王にも届けられていき、ダニエルは王からの信頼を得たのです。
さて、そのようにダニエルでありましが。それは他の大臣や総督たちには、捕囚出身である異国籍のダニエルが自分たちより上に立つことは許せないことであったのです。そこで彼らはダニエルを陥れる口実を探すのですが、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠惰もなく、訴えて失脚させる口実を見つけることができなかったのです。
そこで彼らは「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関して何らかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話合い、共謀して王様の心に付け入るようなある禁止事項の制定をして戴くよう、訴えるのです。その禁止事項というのは、「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」というものでした。王がそれに承諾して署名すれば、それはメディアとペルシャの法律として、たとえ王さまであっても変更不可能なものとなるのであります。
しかしダレイオス王は自分の地位と権威が保たれるよいアイデアだと高ぶり、やすやすとその禁止令に署名をしてしまい、禁令は発布されるのです。この時点で王自身、まさか目にかけていたダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれることになるなどとは思ってもみなかったことでしょう。
この禁令はダニエルのもとにも届き、ダニエルも当然それを知っていました。しかし彼は、「家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」というのです。
ダニエルは、主なる神に祈るのならば、獅子の洞窟に投げ込まれるということを知っていながら、「いつものとおり祈り、神を神として礼拝する」というその日課を、ふだん通り守り、行ったのであります。
このダニエルの姿から、実に様々なことを教えられるわけです。
彼はここでエルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき祈ったとあります。
エルサレムには神殿があり、そこはすべてのユダヤ人同胞の故郷でありました。それはまた、たとえ物理的にエルサレムから離れていたとしてもその魂は神とその恵みから決して離れることなく祈りを通してつながっていることを示しています。神とその恵みを慕い求める者にとって祈りは、神殿や教会といった特別な場所だけに留まりません。私たちがどこに居ても、どのような状況で何をしていても、主は共におられ、すべてを知っていて下さるお方なのです。その生ける神さまと繋がっていきることが祈りなのであります。
また、ダニエルは日に三度祈りました。これは何か特別な祈りではなく、日常のいつもどおりの祈りであったのです。ダニエルの祈りから、たゆまず祈る事について教えられます。私たちは「たえず祈りなさい」という御言葉の実践が難しいと考えますが。「たえず祈りなさい」とは、24時間ただ祈りなさいという意味ではありません。それは、いつでも、どのようなときにも神に信頼をもって祈っていくということです。
「日頃はなかなか祈らないなあ。何か問題が起きたら、その解決のためには祈るけれども。」まあ困った時に祈るそれも祈りでありますが。反対に、ほんとうに苦しくて、祈らなければならないときに祈らず、さらに礼拝すること自体をやめてしまう人もいます。実は、つらい時ほど祈るべきであるのに、つらくて祈れないといって祈らないのです。
聖霊はたとえ私たちの祈りが言葉にならないようなうめきで祈る状態であっても、御霊ご自身が一緒にうめきながら、私たちを執り成してくださると聖書はいいます。主への信仰をもってたゆまず祈り続けてまいりましょう。
さて、ダレイオス王は、ダニエルが禁止令を破って獅子の洞窟に投げ込まれることになったのを知り、「たいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した」とあります。
王は家臣たちが禁止令を提案したとき、彼らの言葉の背後にあるダニエルへの殺意に気づきませんでした。王は自分があたかも神のように拝まれることを喜び、とんでもない法令を発布してしまいました。そのことによって最も信頼し国を治めさせたいとまで思っていたダニエルが殺されることになったのです。高ぶりは判断力を鈍らせます。どのような世の権力者も地位ある者、又指導者たちも神にはなれません。ダレイオス王は自分の高ぶりによってダニエルが死の危機にさらされたことを知ってどれほど悔い、憂えた事でしょう。
しかし王が法令に署名した以上、王ですら法令の変更は不可能であったため、自らダニエルを獅子の洞窟に入れる命令をくだす他なかったのであります。そのダニエルに対して王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と言って最期の別れを告げました。王はダニエルの神について知っていたわけではなかったでしょう。しかしダニエルが神と共に生きる人、神の霊が宿っている人であることを知ったのです。私たちもキリスト者としてそのような者となりたいものでありますが。
さて、「王は王宮に帰ったが、食を断ち、眠れずに過ごした」とあります。どのようなことを王は想い長い夜を過ごしたのでしょうね。
そして夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った、とあります。もちろんダニエルの生死を確認するために獅子の洞窟に急いだのでしょうが。王が洞窟に近づくと、不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」。すると何と洞窟の中からダニエルの声がします。「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」
「王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じ、引き出されると、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」と記されています。「神を信頼していたから。」
本日は「神への信頼の祈り」という題をつけさせて頂きました。
私たちのささげる祈りのすべては、神の御心にかなうものではないかも知れません。私たちの祈りには、形式的な言葉を繰り返すだけの祈りが多いかも知れません。疑いながら祈る祈りや自分の欲だけの祈り、神の国と神の義を考えない祈りをささげることも多いでしょう。私たちの祈りは神の御前にあって不完全で、欠けだらけであります。にもかかわらず祈り続ける私たち、祈るほかない私たちを、それでも主なる神さまはどこまでも見守り、導こうとなさっておられるのです。詩編でしたか、このような御言葉がございます。「神に従う人は苦難が多いが、主はそのすべてから救い出してくださる。」
ダニエルは命が脅かされる中にあっても、日毎に三度の祈りと賛美を欠かしませんでした。人は苦しみに遭うとき、自然と祈りに導かれます。それは神を信じる人も信じない人も同じです。神を信じない人も、漠然としてはいても自分が神と考える存在に祈ったりするものです。しかし主なる神を信じる人の祈りは、真に信頼し得る神さまの存在を知っているので、その生ける神さまに祈るのです。そしてその祈り方も違ってくるのです。
ダニエルの祈りはその典型であります。たとい獅子の洞窟に入れられても、主なる神さまとの平安と命の交わりを保つ祈りを手放さず、絶やさなかったのです。生ける神を信じる私たちもまた、この大きな神さまからの祈りの賜物を戴いているのです。神への信頼の祈りをもって、益々主の栄光を顕わしていきましょう。
先週は帰省させて戴きましたが、その間も「いつものとおり」大阪教会の礼拝と祈祷会が主のお導きの下、奉仕者又会衆の兄弟姉妹方によって守られましたことに感謝申しあげます。
さて、8月から礼拝でダニエル書をお読みしていますが、今日でその最終回となります。本日は6章から「神への信頼の祈り」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
この「獅子の洞窟に投げ込まれるダニエル」の物語を、私は小学生のとき教会学校の礼拝で初めて聞いた憶えがあります。今日は今、この物語が私たちに何を伝えようとしているのか、耳を傾けていきたいと願っています。
メディア人のダレイオス王は、ダニエルを大臣の一人に任命します。そして彼に王国全体を治めさせようとますが、それは「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた」からだと記されています。ダニエルは大変秀でた人物であったようです。若い頃からエリート教育を受けており、又人格的にも誠実で王の信頼に値する優秀な人でした。
けれども王がダニエルに国を治めさせようとしたのは、何よりダニエルに「優れた霊が宿っていた」からであり、それだから「他の大臣や総督のすべてに傑出していた」というのです。ダニエル自身が優れていたとか能力があったというのではなく、神の霊がダニエルに注がれていたというのです。
私たちにとっても学ぶことや資格や技術を身につけることは人生を豊かにしてくれるでしょう。しかし聖書に「主を畏れ敬うことこそ知恵のはじまり」とありますように、真の生ける神を知り、主に従って生きる人、聖霊に満たされて生きる人に、神からの祝福と平安は絶えることはありません。主はダニエルに主の香りを放たれ、その香りはまた王にも届けられていき、ダニエルは王からの信頼を得たのです。
さて、そのようにダニエルでありましが。それは他の大臣や総督たちには、捕囚出身である異国籍のダニエルが自分たちより上に立つことは許せないことであったのです。そこで彼らはダニエルを陥れる口実を探すのですが、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠惰もなく、訴えて失脚させる口実を見つけることができなかったのです。
そこで彼らは「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関して何らかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話合い、共謀して王様の心に付け入るようなある禁止事項の制定をして戴くよう、訴えるのです。その禁止事項というのは、「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」というものでした。王がそれに承諾して署名すれば、それはメディアとペルシャの法律として、たとえ王さまであっても変更不可能なものとなるのであります。
しかしダレイオス王は自分の地位と権威が保たれるよいアイデアだと高ぶり、やすやすとその禁止令に署名をしてしまい、禁令は発布されるのです。この時点で王自身、まさか目にかけていたダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれることになるなどとは思ってもみなかったことでしょう。
この禁令はダニエルのもとにも届き、ダニエルも当然それを知っていました。しかし彼は、「家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」というのです。
ダニエルは、主なる神に祈るのならば、獅子の洞窟に投げ込まれるということを知っていながら、「いつものとおり祈り、神を神として礼拝する」というその日課を、ふだん通り守り、行ったのであります。
このダニエルの姿から、実に様々なことを教えられるわけです。
彼はここでエルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき祈ったとあります。
エルサレムには神殿があり、そこはすべてのユダヤ人同胞の故郷でありました。それはまた、たとえ物理的にエルサレムから離れていたとしてもその魂は神とその恵みから決して離れることなく祈りを通してつながっていることを示しています。神とその恵みを慕い求める者にとって祈りは、神殿や教会といった特別な場所だけに留まりません。私たちがどこに居ても、どのような状況で何をしていても、主は共におられ、すべてを知っていて下さるお方なのです。その生ける神さまと繋がっていきることが祈りなのであります。
また、ダニエルは日に三度祈りました。これは何か特別な祈りではなく、日常のいつもどおりの祈りであったのです。ダニエルの祈りから、たゆまず祈る事について教えられます。私たちは「たえず祈りなさい」という御言葉の実践が難しいと考えますが。「たえず祈りなさい」とは、24時間ただ祈りなさいという意味ではありません。それは、いつでも、どのようなときにも神に信頼をもって祈っていくということです。
「日頃はなかなか祈らないなあ。何か問題が起きたら、その解決のためには祈るけれども。」まあ困った時に祈るそれも祈りでありますが。反対に、ほんとうに苦しくて、祈らなければならないときに祈らず、さらに礼拝すること自体をやめてしまう人もいます。実は、つらい時ほど祈るべきであるのに、つらくて祈れないといって祈らないのです。
聖霊はたとえ私たちの祈りが言葉にならないようなうめきで祈る状態であっても、御霊ご自身が一緒にうめきながら、私たちを執り成してくださると聖書はいいます。主への信仰をもってたゆまず祈り続けてまいりましょう。
さて、ダレイオス王は、ダニエルが禁止令を破って獅子の洞窟に投げ込まれることになったのを知り、「たいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した」とあります。
王は家臣たちが禁止令を提案したとき、彼らの言葉の背後にあるダニエルへの殺意に気づきませんでした。王は自分があたかも神のように拝まれることを喜び、とんでもない法令を発布してしまいました。そのことによって最も信頼し国を治めさせたいとまで思っていたダニエルが殺されることになったのです。高ぶりは判断力を鈍らせます。どのような世の権力者も地位ある者、又指導者たちも神にはなれません。ダレイオス王は自分の高ぶりによってダニエルが死の危機にさらされたことを知ってどれほど悔い、憂えた事でしょう。
しかし王が法令に署名した以上、王ですら法令の変更は不可能であったため、自らダニエルを獅子の洞窟に入れる命令をくだす他なかったのであります。そのダニエルに対して王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と言って最期の別れを告げました。王はダニエルの神について知っていたわけではなかったでしょう。しかしダニエルが神と共に生きる人、神の霊が宿っている人であることを知ったのです。私たちもキリスト者としてそのような者となりたいものでありますが。
さて、「王は王宮に帰ったが、食を断ち、眠れずに過ごした」とあります。どのようなことを王は想い長い夜を過ごしたのでしょうね。
そして夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った、とあります。もちろんダニエルの生死を確認するために獅子の洞窟に急いだのでしょうが。王が洞窟に近づくと、不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」。すると何と洞窟の中からダニエルの声がします。「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」
「王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じ、引き出されると、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」と記されています。「神を信頼していたから。」
本日は「神への信頼の祈り」という題をつけさせて頂きました。
私たちのささげる祈りのすべては、神の御心にかなうものではないかも知れません。私たちの祈りには、形式的な言葉を繰り返すだけの祈りが多いかも知れません。疑いながら祈る祈りや自分の欲だけの祈り、神の国と神の義を考えない祈りをささげることも多いでしょう。私たちの祈りは神の御前にあって不完全で、欠けだらけであります。にもかかわらず祈り続ける私たち、祈るほかない私たちを、それでも主なる神さまはどこまでも見守り、導こうとなさっておられるのです。詩編でしたか、このような御言葉がございます。「神に従う人は苦難が多いが、主はそのすべてから救い出してくださる。」
ダニエルは命が脅かされる中にあっても、日毎に三度の祈りと賛美を欠かしませんでした。人は苦しみに遭うとき、自然と祈りに導かれます。それは神を信じる人も信じない人も同じです。神を信じない人も、漠然としてはいても自分が神と考える存在に祈ったりするものです。しかし主なる神を信じる人の祈りは、真に信頼し得る神さまの存在を知っているので、その生ける神さまに祈るのです。そしてその祈り方も違ってくるのです。
ダニエルの祈りはその典型であります。たとい獅子の洞窟に入れられても、主なる神さまとの平安と命の交わりを保つ祈りを手放さず、絶やさなかったのです。生ける神を信じる私たちもまた、この大きな神さまからの祈りの賜物を戴いているのです。神への信頼の祈りをもって、益々主の栄光を顕わしていきましょう。
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