宣教 アモス書5章21節~27節
アモスという人物については、1章1節に「テコアの牧者の一人であった」と紹介されています。彼はエルサレムの北部ガリラヤ地方の農村テコアに生まれ、羊や牛を所有して飼い、又イチジク桑を栽培する富裕な農民であったとされています。彼が動物の群れをおっているところを主は預言者として召し出されました。それは北イスラエル王国のヤラベアム王の時代、大きな地震が起こる2年前に、王と民に対して主の審判を預言するために立てられたのであります。
この北イスラエル王国とヤラベアム王の時世は物質的に繁栄し、軍事力の拡張を繰り返していました。しかしその一方で貧富の差が広がり、繁栄の陰で社会的弱者や貧者は搾取され、不正が行われていました。イスラエルの裕福な人々は、その現状を見過ごして自分たちは恵まれている、祝福されていると、主の祭りに出て捧げものをし、主の集いに出ては賑やかに讃美していたのです。そういうイスラエルの王や人々に対して、アモスは主の言葉を伝えているのです。
本日の聖書の小見出しに、「祭りにまさる正義」とつけられていますが。これは祭りよりも正義が優っている、と聖書は語っているのでしょうか? 確かにそのように読み取れないこともないでしょう。けれども、この5章の本来のテ―マは、祭りか正義かというニ者選択を迫っているのではなく、「お前たちの祭りとは何か」ということが問われているのであります。つまり、本来、「主の祭りとは何か」「礼拝とは何か」という本質が見失われていないかどうかということが、語られているのです。
ここで「礼拝」でなく「祭り」と書かれているというのには、意図的なものがあるように思えます。礼拝は一言で言えば、まず主の御前に出てひれ伏し、主を拝することです。一方祭りは、救いの記念日には違いありませんが、どこか人の側の満足感や高揚感を味わうための要素が強いような印象があります。前の4章などを見ますと、罪を犯しては、いけにえや献金を捧げ、また同じように罪を重ねる。あるいは感謝の献げ物のパンを大きく見せるために、ふくらし粉を入れるようなことをしたり、「今から私は献げ物をするぞ」と大声で触れまわったり、そういうことを好んでなしているイスラエルの人々に対して、主が嘆きの言葉を語られているのです。
24節は「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と、よく知られる御言葉でありますが。それはどういう意味でしょうか?
正義といえば、人間の倫理や道徳、又思想に立ったところから善悪を見極めていくものでありますが。しかしその正義は、先回の宣教にも触れましたように、数の多さ、権力によっていとも容易くねじ曲げられてしまうものであります。政治の力や宗教も、ややともするとそういった過ちを起こすものです。数や力の論理で正義や平和のためといって戦争や経済侵略が繰り返されてきたというのが、残念ながら世界の歴史でありましょう。
ここで聖書の言う正義とは「公義」とも訳される言葉です。それは、主なる神が私に何を求めておられるのか主を尋ね求めて聞いて行く時に、そこで示される主への応答のことであります。それはまずどこまでも、主と私との一対一の交わり、関係の中から起こり、「主を尋ね求める」ことに始まるのです。
本日の21節~23節ですが。ここでは、主とイスラエルの民との関係が、「わたし」と「おまえ(たち)」と非常に近しく語られております。ここで対立しているのは「祭り」対「正義」ではないのですね。祭りか正義かという問題ではなく、主である「わたし」と「おまえ(たち)」の問題であるのです。それは5章4節、6節にあるように「わたしを求めよ、そして生きよ」「主を求めよ、そして生きよ」。そこにあるのです。
聖書は、そのように「あなた」は主である「わたし」と一対一で向き合っているのか、と問いかけます。あなたは主を喜び、誇るのではなく、自我を喜ばし、誇るために祭りを行っているのではないか、ということなのです。
当時の北イスラエルの比較的裕福な人たちについて、少し考えてみたいと思います。
この時代ははじめに申しましたようにある意味、国は繁栄し豊かな時代であったといえますが、その一方で5章10節以降を読みますと、「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。」12節「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」
まあこのように、特別な祭りや礼拝では「目立って捧げものをし、賛美を賑やかにしている」人たちであったのに、しかし日常においてはこのような事を繰り返していたのです。
祭りや礼拝が日常生活と大きく分離していたのです。
私はこの10節の「公平を扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う」とあるそこを読んだ時、主イエスさまが全きお方としてこの地上にお出でになったにも拘わらず、人々から憎まれ、嫌われ、十字架にまでつけられたお姿が思い起こされるのです。まことに人間の罪の深さを、それは示しています。
現代の社会においても、過ちを正して語ろうとする者、事実を語る者が疎んじられ、迫害を受けるような現実がありはしないでしょうか。子どもの世界でさえ「いじめをやめさせようとしたら逆にいじめの標的になった」ということがあるわけです。
さて、モ―セの律法に基づき、行われた祭りや礼拝はそもそもどのようなものであるかと申しますと、それは「かつて、奴隷の状態であった貧しく小さくされたイスラエルの民の訴えを主がお聞きくださり、その隷属から救い出してくださったことに感謝し、捧げものをなして応えていくためのもの」であったのです。
イスラエルの民はその先祖が受けた主の大いなる恵みと憐れみを子子孫孫に伝えるため記念の日として祭りを設けてきたわけです。いかに自分たちが弱く小さな民であったか。しかし主はその弱く小さな者に御目を注ぎ、慈しみをもって導き出して下さった。何の功もない民を。
このことが祭りと礼拝の原点であるのです。それはまた、主の恵みと憐れみを受けた者が、苦しみや痛みの最中にある人を顧みていく出発点でもあります。
アモスの時代の北イスラエルの富裕な人々は、形のうえでは祭りごとと礼拝を捧げていたものの、その本質のところでは主の顧みと御憐みに与っているという霊的な驚きや感動といいましょうか、そういう霊性が枯渇していたのですね。かつての自分たち民族の苦しみ、痛みを思い起こすことすらできなかった魂の状態。その霊性が鈍くなり、ほんとうに渇ききっているということさえ彼らは気づくことができなかったのかも知れません。それでは、隣人同胞の痛みや叫びに耳を傾けることなどできません。それどころか、主に敵対し逆らうような状態に陥っていたのです。皮肉なことに、その後彼らは侵略を受け捕囚となり「主の御言葉を聞くことのできない飢え渇き」を経験することを通して、預言者の言葉を思い起こし、真の悔改めへと導かれることになるのでありますが。
24節の「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」というその御言葉ですけれども。それはまさに、主の大いなる恵みと憐れみを忘れずに、どんな時も「主を求めて生きる」。そのところに主の正義と恵みの源泉があるのです。その主に応えて生きる時、人は正義と恵みの業を祈り、実現して行く力と情熱を戴くことができるという事であります。
2、3ヶ月程前になりますが。夜回りで92歳の男性に出会いました。先日もお会いしましたが。その方は段ボールを集めリヤカーに積んで運び、業者に持って行って売って生計を立てておられますが。路上での寝泊まり、野宿生活を余儀なくされる毎日です。
先日は八尾から20キロメートルはある道のりを6時間かけリヤカーに段ボールをいっぱいに積み日本橋にお帰りになるところで出くわしました。何んと100キログラム以上はあるような段ボールを積んで引いて行かれるとのことです。その前日は雨に降られ途中高架下で一泊されて戻って来たところ、ということでした。
その方がまたとってもよいお顔をされているんですね。92歳とはとても思えないくらいしゃきっとしておられ、まだまだ自分は働けるのでこの仕事を続けたい、ということをおっしゃっていました。「下着や靴下など必要なものがあれば言ってください」とお尋ねすると、「ありがとうございます」と丁重にお辞儀をなさるのですが。何だかこちらの方が恐縮してしまいました。人間らしく生きることは単におかれた状況や立場によってはかられるものではないんだ、それが人間の尊厳というものかも知れませんね。その方を見ていると、つくづくそう思います。
今、世界中に、そして日本中に、生死に係るような厳しい状況におかれた人たちが数知れずおられます。ほんとうにそのような人たちが忘れ去られるような事がないように祈り、とりなしていく働きが求められていることをひしひしと感じます。
本日アモス書から御言葉を聞いた私たちですが。主の恵みと憐みに対し、驚きと感謝を日々新鮮に抱いていることは信仰生活の基盤であります。日々、アメージング・グレース。「驚くばかりの恵みなりき」というその思いこそが、私たちを正義と恵みの業へと押し出してくれるでしょう。たとえ小さく思える働きであったとしても。
「主を求めて生きる」者の日常の中に、主は共に働く恵みの業を実現させてくださるのであります。
今の時代は政治・経済・環境問題と、どこをとっても不安と心配が尽きないような世の中です。「何を信じていいのか分からない。」そのような時代の中で私たちも、又生きています。先週は衆議員が解散しましたが。国会の空白を作る非常に無責任な解散で、大震災と原発事故被災者の方が、自分たちのことが置き去りにされたという嘆きの声をあげておられました。今何とか踏ん張って生きている人たちが、置き去りにされ解散が政争の具にされたとしか言い得ません。まさにその不安や心配を解消してくれるかのような強い力、カリスマ性のある者が支持され、そして神ならざるものが神のように拝まれていく世相が簡単にできあがってしまう危うさをも一方で禁じ得ませんが。
そのような時代にあっても、主イエスの十字架と復活の福音を受け、その御救いと希望を戴いていることを、かたく信じてあゆんでまいりましょう。また、私たちに届けられた福音が、教会の主にある兄弟姉妹、そしてそのご家族、友人や知人、又地域の方々のもとにも届けられ、喜びと希望となっていくことを切に祈り、実を結んでいくようにつとめていきたいものです。福音の豊かさと主の御業に期待と希望をもってまいりましょう。
アモスという人物については、1章1節に「テコアの牧者の一人であった」と紹介されています。彼はエルサレムの北部ガリラヤ地方の農村テコアに生まれ、羊や牛を所有して飼い、又イチジク桑を栽培する富裕な農民であったとされています。彼が動物の群れをおっているところを主は預言者として召し出されました。それは北イスラエル王国のヤラベアム王の時代、大きな地震が起こる2年前に、王と民に対して主の審判を預言するために立てられたのであります。
この北イスラエル王国とヤラベアム王の時世は物質的に繁栄し、軍事力の拡張を繰り返していました。しかしその一方で貧富の差が広がり、繁栄の陰で社会的弱者や貧者は搾取され、不正が行われていました。イスラエルの裕福な人々は、その現状を見過ごして自分たちは恵まれている、祝福されていると、主の祭りに出て捧げものをし、主の集いに出ては賑やかに讃美していたのです。そういうイスラエルの王や人々に対して、アモスは主の言葉を伝えているのです。
本日の聖書の小見出しに、「祭りにまさる正義」とつけられていますが。これは祭りよりも正義が優っている、と聖書は語っているのでしょうか? 確かにそのように読み取れないこともないでしょう。けれども、この5章の本来のテ―マは、祭りか正義かというニ者選択を迫っているのではなく、「お前たちの祭りとは何か」ということが問われているのであります。つまり、本来、「主の祭りとは何か」「礼拝とは何か」という本質が見失われていないかどうかということが、語られているのです。
ここで「礼拝」でなく「祭り」と書かれているというのには、意図的なものがあるように思えます。礼拝は一言で言えば、まず主の御前に出てひれ伏し、主を拝することです。一方祭りは、救いの記念日には違いありませんが、どこか人の側の満足感や高揚感を味わうための要素が強いような印象があります。前の4章などを見ますと、罪を犯しては、いけにえや献金を捧げ、また同じように罪を重ねる。あるいは感謝の献げ物のパンを大きく見せるために、ふくらし粉を入れるようなことをしたり、「今から私は献げ物をするぞ」と大声で触れまわったり、そういうことを好んでなしているイスラエルの人々に対して、主が嘆きの言葉を語られているのです。
24節は「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と、よく知られる御言葉でありますが。それはどういう意味でしょうか?
正義といえば、人間の倫理や道徳、又思想に立ったところから善悪を見極めていくものでありますが。しかしその正義は、先回の宣教にも触れましたように、数の多さ、権力によっていとも容易くねじ曲げられてしまうものであります。政治の力や宗教も、ややともするとそういった過ちを起こすものです。数や力の論理で正義や平和のためといって戦争や経済侵略が繰り返されてきたというのが、残念ながら世界の歴史でありましょう。
ここで聖書の言う正義とは「公義」とも訳される言葉です。それは、主なる神が私に何を求めておられるのか主を尋ね求めて聞いて行く時に、そこで示される主への応答のことであります。それはまずどこまでも、主と私との一対一の交わり、関係の中から起こり、「主を尋ね求める」ことに始まるのです。
本日の21節~23節ですが。ここでは、主とイスラエルの民との関係が、「わたし」と「おまえ(たち)」と非常に近しく語られております。ここで対立しているのは「祭り」対「正義」ではないのですね。祭りか正義かという問題ではなく、主である「わたし」と「おまえ(たち)」の問題であるのです。それは5章4節、6節にあるように「わたしを求めよ、そして生きよ」「主を求めよ、そして生きよ」。そこにあるのです。
聖書は、そのように「あなた」は主である「わたし」と一対一で向き合っているのか、と問いかけます。あなたは主を喜び、誇るのではなく、自我を喜ばし、誇るために祭りを行っているのではないか、ということなのです。
当時の北イスラエルの比較的裕福な人たちについて、少し考えてみたいと思います。
この時代ははじめに申しましたようにある意味、国は繁栄し豊かな時代であったといえますが、その一方で5章10節以降を読みますと、「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。」12節「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」
まあこのように、特別な祭りや礼拝では「目立って捧げものをし、賛美を賑やかにしている」人たちであったのに、しかし日常においてはこのような事を繰り返していたのです。
祭りや礼拝が日常生活と大きく分離していたのです。
私はこの10節の「公平を扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う」とあるそこを読んだ時、主イエスさまが全きお方としてこの地上にお出でになったにも拘わらず、人々から憎まれ、嫌われ、十字架にまでつけられたお姿が思い起こされるのです。まことに人間の罪の深さを、それは示しています。
現代の社会においても、過ちを正して語ろうとする者、事実を語る者が疎んじられ、迫害を受けるような現実がありはしないでしょうか。子どもの世界でさえ「いじめをやめさせようとしたら逆にいじめの標的になった」ということがあるわけです。
さて、モ―セの律法に基づき、行われた祭りや礼拝はそもそもどのようなものであるかと申しますと、それは「かつて、奴隷の状態であった貧しく小さくされたイスラエルの民の訴えを主がお聞きくださり、その隷属から救い出してくださったことに感謝し、捧げものをなして応えていくためのもの」であったのです。
イスラエルの民はその先祖が受けた主の大いなる恵みと憐れみを子子孫孫に伝えるため記念の日として祭りを設けてきたわけです。いかに自分たちが弱く小さな民であったか。しかし主はその弱く小さな者に御目を注ぎ、慈しみをもって導き出して下さった。何の功もない民を。
このことが祭りと礼拝の原点であるのです。それはまた、主の恵みと憐れみを受けた者が、苦しみや痛みの最中にある人を顧みていく出発点でもあります。
アモスの時代の北イスラエルの富裕な人々は、形のうえでは祭りごとと礼拝を捧げていたものの、その本質のところでは主の顧みと御憐みに与っているという霊的な驚きや感動といいましょうか、そういう霊性が枯渇していたのですね。かつての自分たち民族の苦しみ、痛みを思い起こすことすらできなかった魂の状態。その霊性が鈍くなり、ほんとうに渇ききっているということさえ彼らは気づくことができなかったのかも知れません。それでは、隣人同胞の痛みや叫びに耳を傾けることなどできません。それどころか、主に敵対し逆らうような状態に陥っていたのです。皮肉なことに、その後彼らは侵略を受け捕囚となり「主の御言葉を聞くことのできない飢え渇き」を経験することを通して、預言者の言葉を思い起こし、真の悔改めへと導かれることになるのでありますが。
24節の「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」というその御言葉ですけれども。それはまさに、主の大いなる恵みと憐れみを忘れずに、どんな時も「主を求めて生きる」。そのところに主の正義と恵みの源泉があるのです。その主に応えて生きる時、人は正義と恵みの業を祈り、実現して行く力と情熱を戴くことができるという事であります。
2、3ヶ月程前になりますが。夜回りで92歳の男性に出会いました。先日もお会いしましたが。その方は段ボールを集めリヤカーに積んで運び、業者に持って行って売って生計を立てておられますが。路上での寝泊まり、野宿生活を余儀なくされる毎日です。
先日は八尾から20キロメートルはある道のりを6時間かけリヤカーに段ボールをいっぱいに積み日本橋にお帰りになるところで出くわしました。何んと100キログラム以上はあるような段ボールを積んで引いて行かれるとのことです。その前日は雨に降られ途中高架下で一泊されて戻って来たところ、ということでした。
その方がまたとってもよいお顔をされているんですね。92歳とはとても思えないくらいしゃきっとしておられ、まだまだ自分は働けるのでこの仕事を続けたい、ということをおっしゃっていました。「下着や靴下など必要なものがあれば言ってください」とお尋ねすると、「ありがとうございます」と丁重にお辞儀をなさるのですが。何だかこちらの方が恐縮してしまいました。人間らしく生きることは単におかれた状況や立場によってはかられるものではないんだ、それが人間の尊厳というものかも知れませんね。その方を見ていると、つくづくそう思います。
今、世界中に、そして日本中に、生死に係るような厳しい状況におかれた人たちが数知れずおられます。ほんとうにそのような人たちが忘れ去られるような事がないように祈り、とりなしていく働きが求められていることをひしひしと感じます。
本日アモス書から御言葉を聞いた私たちですが。主の恵みと憐みに対し、驚きと感謝を日々新鮮に抱いていることは信仰生活の基盤であります。日々、アメージング・グレース。「驚くばかりの恵みなりき」というその思いこそが、私たちを正義と恵みの業へと押し出してくれるでしょう。たとえ小さく思える働きであったとしても。
「主を求めて生きる」者の日常の中に、主は共に働く恵みの業を実現させてくださるのであります。
今の時代は政治・経済・環境問題と、どこをとっても不安と心配が尽きないような世の中です。「何を信じていいのか分からない。」そのような時代の中で私たちも、又生きています。先週は衆議員が解散しましたが。国会の空白を作る非常に無責任な解散で、大震災と原発事故被災者の方が、自分たちのことが置き去りにされたという嘆きの声をあげておられました。今何とか踏ん張って生きている人たちが、置き去りにされ解散が政争の具にされたとしか言い得ません。まさにその不安や心配を解消してくれるかのような強い力、カリスマ性のある者が支持され、そして神ならざるものが神のように拝まれていく世相が簡単にできあがってしまう危うさをも一方で禁じ得ませんが。
そのような時代にあっても、主イエスの十字架と復活の福音を受け、その御救いと希望を戴いていることを、かたく信じてあゆんでまいりましょう。また、私たちに届けられた福音が、教会の主にある兄弟姉妹、そしてそのご家族、友人や知人、又地域の方々のもとにも届けられ、喜びと希望となっていくことを切に祈り、実を結んでいくようにつとめていきたいものです。福音の豊かさと主の御業に期待と希望をもってまいりましょう。
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