日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスの権威

2021-01-24 12:29:18 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ8・1-17  

七日の旅路を守られましたこと、又、こうして導かれて礼拝を捧げることができます恵みを感謝します。

コロナ禍で例年の越冬夜回りは無いのかと思っていたところ、ルーテルディアコニアセンター「喜望の家」の秋山さんから「今年もやっています」とお電話があり毎週金曜日の夜回りに参加させて頂いています。先日は運動不足もありリアカーを引いて釜ヶ崎周辺を廻ったのですが、大阪社会医療センターの周りには40名くらいの方がおられ、その大半がひっそりと寝ておられました。今年はコロナ禍で8時以降は閉まっているお店が殆ど、去年と比べると人通りがとにかく少なくて寂しい感じがしました。コロナ禍で、いろいろな所に行っては一夜を過ごしている方がたがきっとおられるのだろうと思いました。とにかく路上生活をされている方の命が守られるようにと切に願います。

 

本日はマタイ8章1-17節より「主イエスの権威」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この個所には、イエスさまが「重い皮膚病の人」「中風の病で苦しんでいた百人隊長の僕」「高熱のシモンのしゅうとめ」を、次々とおいやしになられたエピソードが記されています。

 

最初の「重い皮膚病を患った人」ですが。この当時のユダヤ人の社会において、重い皮膚病は特に人々から忌み嫌われていた病の一つでした。詳しくはレビ記13章に記されていますが。

これは汚れた病気とみなされ、この病気にかかった人は家族からも引き離されて隔離され、町の外に住まなければなりませんでした。私たちの国においても、この病に罹った人に対する予防法という法律を作り、非人道的な差別や偏見、隔離政策を行ってきたことに、国としての謝罪がなされましたが、その当事者の痛みと苦悩は消えるものではありません

今日の箇所のこの人も、社会の片隅に追いやられながら、自分からも人に会ったり、交流することも気兼ねし、控えるほかない孤独な日々を過ごしていたことでしょう。

ところが2節を読みますと、その「人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」というのです。

この人はどこかで、イエスさまのなさることが「権威ある者」としての教えであることを聞いていたのでしょう。確かに宣教を開始された直後の4章23節以降には次のように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

イエスさまは律法を教師として教えたのではなく、天の国の福音を伝えたのです。そして分け隔てなく民衆のあらゆる病気や患いをいやされたのです。

 

この人も又、何とか一度このイエスさまにお会いしたいと、毎日切なる願いをもって祈り続けていたのではないでしょうか。そしてその日、遂に大勢の群衆の先にイエスさまがおられるのが見えたのです。

その人の思いは、世間の厳しい視線にさらされるよりもずっと強くイエスさまに近寄っていきました。けれど、決してぶしつけな遠慮のなさではなく、「ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と、神への信頼を言い表わします。

それは先週もお話ししましたが、自分の願いはかなえられるべきだということではなく、神の御心こそが実現しますようにという、神への信頼とそこに望みをかけていく信仰の言葉を口にするのです

 

すると、イエスさまは、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。(直訳:私は望む)清くなれ」と言われます。

何と、思い皮膚病のその人がいやされることを主イエスは望まれたというのです。

この人に触れることで自分に病が及ぶかもしれません。しかしイエスさまは、お構いなしに、自らの手を差し伸べて彼に触れ、「わたしは望む。清くなれ」と言われたんですね。居た堪れない状況におかれていたこの人の痛みや苦しさを御自身のこととして感じとられたイエスさまその本物の隣人愛なくして誰がリスクを負ってまでその人に触れることができるでしょうか。本物の神の愛をイエスさまのお姿に見るものであります。この神の愛に触れた時、この人はたちまち重い皮膚病が清くなった、というのですね。

 

さらに、14節以降にも「イエスさまはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱で寝込んでいるのを御覧になり、その手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスさまをもてなした」とありますが。そこでも、当時の慣習からすれば他人が病人に触れればけがれを負うといわれた社会で、イエスさまは苦しそうに寝込んでいるペトロのしゅうとめをご覧になって、気の毒にお思いになられたのでしょうか、手を触れるとペトロのしゅうとめはいやされるのです。病気やケガの処置を施すことを「手当」と言いますが。隣人の痛みや苦しみを目の当たりにして手を当てずにはいられない、この救いの主、イエスさまのお姿に私たちはどれほどかいやされ喜ぶ毎日ではないでしょうか。

イエスさまにいやして頂いたペトロのしゅうとめは、その喜びをもてなしにして

イエスさまに表したんですね。私もまた感謝と共に、至らないながらもこの主イエスの愛に少しでも応え倣う者とされたいと願うものであります。

 

次に「百人隊長の僕のいやし」のエピソードに目を向けてみましょう。

この百人隊長も又、イエスさまのお言葉が教師や指導者たちとは異なる真理の言葉であり、「権威ある者」としての教えであるということをどこかで聞き、心に留めていたのでしょう。

又、分け隔てなく神のいつくしみによっていやしをお与え下さることを知っていたのでしょう。当時のユダヤ社会はローマの支配下におかれていました。このローマの百人隊長はユダヤ人から見ればうとましい存在でしたでしょうし、神を知らない異邦人であったわけです。しかしその日、イエスさまがカファルナウムに入られたことを知った彼は、自分の立場もさて置いてイエスさまに願い出ます。

「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。

私はこの百人隊長はなんて情が厚い人だろうと思います。部下が中風で寝込んでひどく苦しんでいることがいたたまれない、見るのに忍びない。まるで自分のことのように心痛めていたからこそ、人にどう見られようと自分の立場を置いてまでイエスさまに懇願するんですね。イエスさまはそんな百人隊長の心情にきっと共鳴して下さったのではないでしょうか。

「わたしが行って、いやしてあげよう」と即答なさいます。ところが百人隊長は、いや、それにはおよびませんとばかりに、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言うのですね。

普通に考えてイエスさまに来て頂くほうがありがたく思えますし、確実にいやしていただけると考えるのではないでしょうか。しかし百人隊長は軍人としての職業柄人一倍「権威」とその「言葉の力」を知っていました。

 

百人隊長は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。

先に申しましたように百人隊長はイエスさまの言葉と行いは、神からの権威によるものだと確信していたのです。権威ある者の「言葉」の重みを知る彼は、ただひと言、命じられることを求めました。イエスさまが神の権威で発せられた言葉は効力をもってそのとおりになると、信じていたからです。    

 

百人隊長のその姿に関心なさったイエスさまは、従っていた人々に言います。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

このお言葉は、イエスさまが前の7章21節でおっしゃったこととつながっているように読めます。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

何か立派に見える働きや大きな業績をなすことが天の国にふさわしい者になる条件ではないんですね。「天の神の御心を行うこと」が尊いのであって、それは主の御言葉を聞いて、そのように行い生きる者となることが大切なのです。

始めに重い皮膚病の人が「主よ、御心ならば」と言ったように。又、百人隊長が「お言葉でしたら、いやされます」と言ったように、神の権威に信頼しつつ、主の御言葉に日々生きる。そうして天の国に入るにふさわしいものと立てあげられていくのですね。

詩編107編2-3節には次のように記されています。「主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い、国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。」さらに同じ107編20-21節には次のように記されています。「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」

この詩編の言葉は、まさに全世界の救い主、イエス・キリストによって実現されるのです。それは先に選ばれたユダヤ人だけでなく、異邦人、世界の国々の人の子らの

ためにも天地万物の造り主なる神は、そのいつくしみ深きご慈愛によって、いのちの御言葉でありますイエス・キリストをお遣わくださったのです。

今日の8章16節以降に次のように記されています。

「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

本日は主イエスの権威という題で、御言葉に聞いていきました。         その権威とは世の権力や強制力ではなく、神さまの深い憐みと愛から生じるものであります。イエスさまのお言葉は神の権威による真理の言葉であります。

今コロナ禍においても、いろんな言葉が発せられ多くの人が惑わされていますけれども。イエスさまの言葉に権威があったのは、人の苦しみや痛みを自らのものとして感受しつつ、寄り添い、連帯していかれる意志を伴っていたからです。私たちも、このイエスさまの権威と招きに聴き従いつつ、御言葉に生きる者とされてまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神の救いの完成者 | トップ | 主イエスに遣わされて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿