日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスに遣わされて

2021-01-31 11:39:18 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ9章35節-10章15節

私は22歳の時この大阪教会から推薦を戴いて、専攻科を含め西南学院大神学部で4年間の学びと交わりの時が与えられました。その在学中に久留米キリスト教会、シオン山バプテスト教会、さらに糟屋バプテスト教会篠栗伝道所(現・篠栗教会)と、3つのそれぞれに規模も環境も異なり、それぞれに歴史をもつ教会で信仰生活をもちました。神学部の推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すべきかどうか悩んでいた時、当時大阪教会の中島牧師は、「その行くところその行くところでの教会生活が始まったのなら、たとえ1年でもその行くところの教会にきちんと籍を移していく方がよい」とおっしゃって私を後押ししてくださいました。祈りのうちに、1年であってもその行く教会の一員となり、一緒に歩んでいくことが望ましいという思いに導かれ、行く先々の教会に籍をおくことにいたしました。まあ、一般的に転勤や引っ越し、又特段の事情が無い限り他の教会に籍を移すということはないかと思いますが。神学生時代に許されたこの経験は一つひとつの教会がおかれている地域性、環境、諸課題と主体的に向き合い関わる。又、教会の方々との主の家族としての交わりのゆたかさと、み言葉の重みや深さを学ばせて頂く機会となりました。初めて牧師として遣わされたのが糟屋教会篠栗伝道所でありましたが。その地で14年間牧師として働かせていただいた後、不思議な主のお導きにより、私を神学部に推薦頂いてから18年目を経て、この大阪教会の牧師として働かせて頂くこととなり、現在に至っております。

さて、聖書のこの箇所ですが。

5章から7章までは山上の説教と言われるイエスさまの教えが記され、それに続く8章 から9章までは先週もお読みしましたが、イエスさまによる様々ないやしのみ業が記されていました。そのイエスさまのお働き全体は本日の9章35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」に、要約されています。

そのお働へとイエスさまを強く突き動かしたのは、36節の「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たことによります。

聖書ではしばしば神の民や民衆を羊にたとえています。目の前の草を食べることに一生懸命で危険にもなかなか気づけず、道に迷いやすく、群をはぐれると一匹では生きてゆけない羊。羊には羊飼い、それも自分を守り導いてくれる良い羊飼いが必要なのです。人間にとって良き羊飼いは神ご自身に他なりません。ダビデは詩篇23編で「主は私の羊飼い」と語り、「私には何も欠けることがない、羊飼いなる主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、私のたましいを生き返らせてくださる」と歌いました。

物質的生活ばかりでなく、内なる魂を生き生きとしたいのちの喜びに満たして下さる。この方が共におられるので「死の陰の谷を歩くことがあっても私は恐れない」。

この詩編23編のように神の御救いを受けた民は、神の牧場(まきば)に憩うような幸いにあずかるはずでした。しかしイエスさまが行く先々で目の当たりされたのは、弱り果て、打ちひしがれた人々の姿です。

イエスさまの目に映った「弱り果て」とは、「皮をはがれた」という意味の言葉です。野の獣に襲われて引き裂かれたか、あるいは岩や木の枝に体を引っ掛けたか、皮をはがれた状態で弱り果てている羊のような人、又、「打ちひしがれている」とは「投げやられている」という意味の言葉です。共同体からも、救済のセーフティーネットからも置き去りにされ、投げ出された人。そういう姿を群衆の中にご覧になったイエスさまは「深く憐れまれた」というのです。

「深く憐む」のギリシャ語:スプランクニゾマイは「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉からできていて、よく言われる「断腸の思い」とか表現されていますが。けれどギリシャ人たちは決して自分たちのギリシャやローマ世界の神を表わす際にその言葉を使うことはありませんでした。なぜならば、人が苦しんでいるからといって心を痛めてしまうような神はもうその時点で「神」とは呼べないからです。現代の社会もそうではないでしょうか。全能ならなぜ心痛むのか。それが一般的な考え方ではないでしょうか。

しかし主イエスさまは、はらわたが痛むほどに人を憐れみ抜かれるのです。だから御自分を私たち人間の罪の身代わりとなって差し出されたのです。このようなお方だからこそ、私たちは主イエスさまのもとに恐れなく、助けや赦し、恵みや憐れみを求めて近づくことができるのですね。

その深い憐みの主イエスさまは弟子たちに次のようにおっしゃいます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。

弱り果て、打ちひしがれた人は数えきれないほど大勢います。それに比べて働き手が圧倒的に少ないのです。一体どうやってこの多くの群衆に対処することができるのか、とイエスさまはお考えになられたのではないでしょうか。

ちょっと話は変わりますが。先日、バプテスト連盟を通して私たちもサポートを続けています、ルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんがリモートを通して報告会をなさいましたので、私も視聴いたしましたが。ルワンダの同族間に起った大量虐殺(ジェノサイド)と、そこでまさに皮をはがされたように、「弱り果て」、国際社会からも「投げやりにされ、打ちひしがれている」ルワンダの人たちの現状を目の当たりにした佐々木さんは、『和解のためのプロジェクト』を立ち上げられたのであります。そういう中で、二度と同じようなことが繰り返されないためには、次世代の人たちに平和を構築する意志とその実践を伝え、育むことが大切であるということで、ルワンダの大学で平和学を教えておられるのですね。かの地で平和を造り出す人が大勢育っていきますことを祈ります。

聖書に戻りますが。

イエスさまは、弱り果て打ちひしがれている群衆を前に、弟子たちもイエスさまのお働きに加わるように、と招いて行かれます。これまではイエスさまが語り、イエスさまお一人が働いて来られました。しかしここからは弟子たちもイエスさまと共に神の国のために働く者となるように、とお招きになられるのです。

ところで、ここをよく読みますとイエスさまは弟子たちに何と言われているでしょうか。必要が大きいので、あなたがたも来て一緒に手伝いなさい、と言われたでしょうか。あなたがたの手足を貸しなさい、と言われたでしょうか。

そうではありません。イエスさまが言われたことは、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」ということでした。

それは、この神の国の収穫を得るという働きが主御自身のお働き、神さまのお働きであるということを示します。まずその収穫の主、あるじである神に収穫のための働き人を送って下さい、と願い祈ることが必要なのです。

私たち主イエスに連なるものはみな何らかのご計画によってそれぞれが、その時々に宣教者、役員、各会長、などなど、祈られ選ばれ立てられていきます。又、生活の場や職業を通してのあかしの働き人を主は必要とされています。そのような人が起こされ、実りがもたらされるよう共に祈り続けてまいりましょう。

さて、この祈りを経た後、呼び寄せられた12人にイエスさまは「汚れた霊に対する権能をお授け」になられます。

それは何か12人に特段の立場や才能があったから選ばれたのではなく、唯神のご計画によって主イエスが任命され、神がお入り用とされたので、働きのため神が権能お授けになったのです。先週のイエスさまのいやしの記事でも申しましたが。神は救いの愛を顕わされるために権能をお与えになり、その主イエスによって人は全人的にいやされ、きよめられるのです。この12人はその神の愛がもたらされるための、いわば通り良きとして神に用いられる働き人でなければならないのです。そういう点でこの12人を選ばれたのです。

最初に記されているシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤ出身の漁師たちです。これから神がご自分の国を打ち立てようとする時、田舎の学歴のない漁師たちを選ぶとは一体誰が考えつくでしょう。ピリポとトマスは他の福音書から若干その人となりを知ることができますが、バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイについて私たちはほとんど知りません。目立たない人たちです。彼らもそれぞれ一般の民衆の中の一人でした。熱心党のシモンは、ユダヤの愛国主義者でローマ帝国への抵抗活動をしていた革命党に属す人です。そして最後にイエスさまを裏切るイスカリオテのユダが含まれています。

ところで、このマタイの福音書を記したとされるマタイの名もここにありますが、わざわざ「徴税人」という肩書きが付いています。徴税人はローマへの税金をユダヤの同胞から徴収するわけですから、ユダヤ人から罪人として嫌われていました。その本来隠したくなるようなことをあえて記しているのです。マタイは取るに足りない罪深い者であったことを自ら言い表わすことで、イエスさまが自分を選び、用いて下さる恵みを、讃え、あかししたのです。それぞれの人生から主に呼び集められた一人ひとり。私たちも又、神の救いのご計画によって召され、主にあるつながりの中で互いにとりなし、励まし合いつつ、神の国と神の義の顕れのため用いられているのです。

さて、イエスさまは彼らをお遣わしになるにあたって「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。又、「平和があるように」と挨拶しなさい、とおっしゃいます。

その場合、まずイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい、と言われます。旧約聖書の神の契約に生きてきた人たち。しかし、その祝福が世の力によって大きく損なわれ、弱り果て打ちひしがれているそのような人のところにまず行きなさい、とおっしゃるんですね。イエスさまは憐みのゆえに、神の前に失われた羊を取り戻されなければならなかったのです。その人たちが本来受け取るべき神の祝福と平安に与ることを、主は強く望まれるのです。全世界に福音が宣べ伝えられている今、すべての人がこの主の愛に招かれているのです。

主は弟子たちをお遣わしなりました。彼らは特別な学問も知識も持ちませんでしたが、神が、その権能もってお働き下さることによって「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いからの解放と信仰の復興、霊的回復が生じていったのです。

この「平和があるように」というヘブライ語では「シャローム」との挨拶の言葉は、単に争いのない状態を言うのではなく、天地創造の神のもとにある平安を表わしています。

私たちも主イエスに見出され、そのみ救いに与った者として、この「平和の挨拶」を交し合える社会、この世界になりますよう祈りとりなす日々でありたいと切に願うものです。又、イエスさまは「ただで与えなさい」と言われます。私たちが受けた救いといやしの恵みは、神の御独り子が私たちの罪の身代わりとなって贖いの死を遂げて下さったことによります。それは文字通り「ただ」で頂いた計り知ることのできない「神の尊い贈り物であるご愛と救いの命」であります。その「福音」、何にも替えがたいよき知らせをみな共に分かち合って、神が備えたもう必要によって生きる。こんなゆたかな人生は他にありません。

この新しい週も、主の福音に生きつつ、神の平和、シャロームを分かち合う歩みへと遣わされてまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 主イエスの権威 | トップ | 恐れることはない »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿