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互いを思いやって生きる

2019-09-22 19:32:36 | メッセージ

主日礼拝宣教 ルツ記3章1-18節

 

先週よりルツ記を読んでいますが、初めての方もいらっしゃるかと思いますのであらすじを申しますと。イスラエルの民であるナオミは夫と二人の子どもと共に飢饉のために異邦の地モアブに移り住みます。しかし夫を亡くし、女手一つで育てた二人の息子も、それぞれ、それぞれの妻を残して世を去ってしまうのです。失意のうちに故郷のベツレヘムに帰ろうとするナオミに、嫁のルツは「あなたを見捨てて帰れなどと強いないでください。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、そう言って離れようとせず、ナオミと共なるベツレヘムでの生活が始まります。

二人が生きていくため、ルツは人の畑の収穫の際、落ちた麦の穂を拾いに出かけます。

そうしたある日、ルツはボアズという神の戒めといつくしみを知るとても親切な地主と出会い、そこで落ち穂を毎日安心して集めることができるようになるんですね。ここまでが先週の2章の話です。

本日は次の3章よりみ言葉を聞いていきます。

3章1-2節で、ナオミは「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしの親戚です」とルツに言います。

これまでナオミは、自分のために日々汗水流して落ち穂拾いに労する嫁ルツの真心、思いやりの心に感謝してきました。

しかし、もうすぐ収穫の時期が終わります。今はそれで食べていくことはできても、先の生活を保証してくれるものは何もありません。

ナオミはルツのために、彼女が苦労することなく「幸せになる落ち着き先」を探し、その情報を集めていたのです。

そうした中で至ったナオミの結論が、「ルツはボアズと結婚させるのがよい」ということでした。

ボアズは神を畏れ敬う人であり、誠実で偏見をもたず、とても親切な人物でした。又、ルツがおかれた状況とその思いを知って温かい言葉と厚意を示してくれたのです。

しかも彼はナオミの夫エリメレクの家と土地を絶やさないようにする責任ある人物の一人でもあったのです。ユダヤの民にとって神からの嗣業の地を大切に守っていくことは神に果たすべき義務ともいえることでした。

そのように、ナオミはこの二人を一緒にさせるのが最もよいことだ、と考えたのです。

一時しのぎの落ち穂拾いから脱却して、神の前に果たすべきことを果たし、ルツに平安の生活が得られるためにナオミはルツをボアズのもとへ嫁がせる計画を練るのですね。

 

この3章を読むと表だった登場人物はルツとボアズであります。しかしその背後で祈りながら情報を集め、計画を練り、立て、貧しさの中でルツに着せる晴れ着や香油を調達するということどもを実行したしたのはナオミなのです。ここには実に行動的で積極的なナオミの姿が見えてきます。

 

このナオミがベツレヘムに帰って来た時はどうだったのでしょうか。先週お話ししましたように、1章20節以下のところで彼女は「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と、ひたすら嘆いていたんですね。

ナオミは異国の地で夫と二人の息子を失い、つまり全てを失って帰って来たのです。主なる神が自分をひどい目に遭わせ、全てを奪った。そういう神への恨みつらみを彼女は語っていたのです。

その絶望の淵にいた彼女が、この3章ではこんなにも大胆且つ、前向きで計画的な行動を起こしています。

彼女をそのように変えたのはいったい何だったのでしょうか。それは、根底においては骨の髄まで染みこんだ神への思い、信仰であり、又、彼女の傍らにいて、彼女を思いやる嫁ルツの存在です。

全てを失い、「うつろだ」と、何も残されていないとナオミは思っていました。しかしその彼女の傍らに、ルツがいた。

それは、嫁だから仕方なくいたのではありません。ルツはナオミを慕い、自分の意志でナオミについてきました。先にも言いましたが、彼女はナオミに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言ってついて来たのです。その思いは、主なる神さまが彼女に与えたというほかありません。言うならば、全てを失った絶望の淵にいたナオミの傍らに、主なる神さまが、ルツをおいて下さったのです。そのルツの存在がナオミを支え励まし、彼女は再び顔を上げることができるようになったのではないでしょうか。
そうしてナオミは、ルツが幸せになる落ち着き先を探し見出す中で、神の慈愛・ヘセドの愛をおぼえ、絶望の淵から救われていくのですね。

 

彼女が自分の殻に閉じこもり、神に不平不満を募らせ、背を向け続ける限り彼女の心は決していやされることはなかったでしょう。

彼女にはその暗い絶望の淵から抜け出す助け手が必要でした。それは、ナオミにとってはルツという存在を、まさに主なる神さまが傍らにおいて下さったことで、ナオミの心が解きほぐされ、開かれていったのです。

そうして、ルツの幸せを願い、その行く末を思い大胆な計画と行動を起こすナオミ。

もしナオミが、自分の老後の心配ばかりを考え、愚痴や不満で凝り固まったままでいたなら、いつまでも絶望と苦しみから抜け出すことはできなかったでしょう。     けれども彼女は気づいていったのです。神さまの慈しみと愛があるということに。それはルツを通して示されました。

私たちにも悩みや苦しみがあります。まあ悩み苦しみの心でいっぱいいっぱいの時もあるでしょう。かつてのナオミのように神が私をひどい目に遭わせ、悩ませ、不幸に落としたと、嘆く、そんなことがあるかも知れません。

そういう時も、神さまは私たちに信仰の友、助け手として、主にある兄弟姉妹を必ずおいてくださっているのですね。

私のために背後で祈り支えてくださっている存在がいる。それはどんなに大きな慰め、励ましでしょう。又、それを実感する時、苦しみの中にありながらも、他者のために祈り、働いていく思いが与えられる。そういう中で自分の苦しみや悩みを乗り越えていく力が与えられていった。

ここにいらっしゃる方の中にも、すでにそのような経験をして来られた方がいらっしゃるのではないでしょうか。ルツとナオミの物語は今も主の教会、主にある共同体の中に生きているのです。

 

次に3章の箇所よりルツから聞いていきます。

ナオミは「あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」とルツに言います。

それはルツの方からボアズに求婚するということです。

それを聞いたルツは驚くような素直さで、「言われるとおりにいたします」と言い、ボアズのところに行くのです。ボアズが気づいて「お前は誰だ」と言われると、ルツは「わたしはあなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と願い出るのです。

 

現代の私たちからすれば何と、封建的で個人の人権はどうなっているんだと思われるかも知れません。

まあ当時の社会の中で、ルツはエリメレクの家の嫁でありました。彼女が夫の死後、ナオミと共にイスラエルの地に来たということは、嫁として生きる道を選んだということです。

そしてイスラエルには、子どもがいなくて夫に先立たれた嫁は夫の兄弟もしくは近い親族によって子をもうけ、家を絶やさないようにする。そうして代々からの土地を守っていく「レビラ-ト婚」という規定がありました。実はそうした社会にあって、このイスラエルの律法規定は寡婦のいのちと生活を守るというセーフティネットでもあったのです。

 

さて、第一の候補は夫の兄弟ですが、もう死んでしまっていません。次は一番近い親族が候補となります。しかし幸いなことに、ルツを思いやってくれたボアズはエリメレクの親族の一人でした。

イスラエルの律法規定で、ボアズはルツの結婚の相手となり得る人の一人だったのです。そのボアズがルツを心にかけ、自分の畑でずっと落ち穂を拾えるようにしてくれたことを知ったナオミは、それが実現可能かどうか調べた上で、この二人を結婚させようと計画したのです。

しかしそこには問題もありました。一つは、ボアズとルツの年の差です。おそらく親子ほどの年の差があったのだろうと思います。ボアズはルツを心にかけていたとはいえ、ルツとの結婚は考えていなかったようです。

二つ目は、ボアズよりもっと近い親族がいたことです。その人がルツの結婚相手の第一候補者ということになります。この二つの問題が解決できなければボアズとルツは結婚することはできません。まあそのためにナオミは思い切った行動に打って出たわけです。そうしてルツもそのナオミの指示どおりに従って行動したのです。

しかしまあ、ルツとボアズが結婚するのがよい、というのはナオミの考えであって、ルツの意志はどうだったのかには全く触れられていません。読みようによっては、姑が嫁の再婚相手を勝手に決めて、親子ほども年の差のある男との話をどんどん進めていった、とも取れます。

しかしその、ルツが身を委ねているのはナオミでも、又ボアズではありません。
彼女はモアブの地を出るにあたり、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」との言葉に信念をもって生きていこうと決意したのです。

イスラエルの掟を無視して他の男と結び付くこともできたのかもしれません。その場合には、ルツはもはやナオミの嫁という立場を捨てることになります。ナオミのもとを離れて一人の自由な女として生きて行くという道もあったのです。

しかしルツは、ナオミの嫁として生きることを選び取っててきたのです。それは又、再婚においてもイスラエルの掟に従い、夫の親族の誰かと結婚し、家を絶やさないようにする義務を自ら負おうと並々ならぬ決意をしていたんですね。

ルツは、1章にあったとおり、自分が選び取った生き方に忠実に歩もうとしているのです。だからナオミの大胆な計画に対しても、イスラエルの律法の教えに適ったものとして、ナオミに「言われるとおりにいたします」と答えたのですね。

このルツの姿をさらに深く見つめるならば、主なる神さまのみ心に従い、その導きに自分の行く末を委ねる信仰がそこにあった、ということです。

先週読みました2章12節でボアズはこう言いました。

「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」。

ルツはイスラエルの神、主の御翼のもとに逃れ、その主のみ心に身を委ねたのです。

その彼女に、来週の4章の最終章で、主が豊かな恵みを与え、祝福を与えて下さることとなっていくのであります。

さて、最後はボアズから聞いていきます。

ルツからの求婚を受けてボアズはこう言いました。

「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい」。

こういってルツを休ませ、夜明けのまだ薄暗いうちにルツに「六杯の大麦」を姑のために持たせて帰らせたのです。

「主は生きておられる」。そういったボアズは情欲に流されません。ボアズの主は生きておられる、つまり「神の御心がどこにあるのか」と主に対して、又ルツに対しても誠実に向き合おうとするのです。

神と姑ナオミに対するルツの「真心」を知ったこのボアズも、主なる神のみ心とルツに対して「真心」をもて応えようとするんですね。

そうしてボアズは「きっと、あなたが言うとおりにします」と約束し、彼はそのことを、神の定めに従ってなそうとします。

彼は「自分よりも近い親族がいる、もしその人がルツを妻にすると言うなら、それを受け入れ、自分は身を引く」と言うのです。ボアズは主なる神のみ心に従い、その導きに身をゆだねるのです。
そしてそれはナオミもまた同じです。彼女がルツの幸せのために立てた計画は、主なる神の掟に基づいているものなのであり「真心」です。

彼女はルツのために、主のみ心に適うあり方で積極的に行動し、結果を主のみ心にゆだねます。

ルツから一部始終を聞き、贈り物を見たナオミは、「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」。主が必ず善いようにして下さると、信頼をもって主にゆだねたのです。

絶望の淵、「うつろな者」「失われた者」「虚しい者」と自分のことを話していたナオミが、これほどまでにしたたかで、たくましいほどに回復していったことに愕かされますが。これも神さまの慈愛に満ちた配剤とお導きでありましょう。

 

3章に出て来るこの三人は誰もが、まず主なる神のみ心に聞き、そして従い、その導きに信頼してゆだねます。

同時に、互いの存在を思いやって、自分にできる誠意を尽して生きているのです。

そのことのゆえに、それぞれが神さまからのすばらしい恵み、祝福を与えられていくのですね。

ルツには幸せな落ち着き先が、ボアズにはすばらしい妻が、ナオミには新しい家族が、それが来週の4章ですが。そのような主のもとにある未来へとつながっていくのです。

ナオミやルツ、そしてボアズもおそらくそうであったように、人生にはどん底といえるような時、喪失感に襲われ、「神さまなぜですか」という時があるでしょう。

そういう状況の中でも「主は生きておられます」と互いの存在を思いやり、祈り合い、励まし合って歩み続けていくその時、主は必ずや助けと救いの道を備え、導いてくださるお方であると信じます。

私たちも又、主なる神さまのみ心に日々聞き、そして信頼して従い、その導きにゆだねつつ、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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