日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祝福に至る道

2019-09-29 13:14:53 | メッセージ

礼拝宣教 ルツ記4章1-17節 

 

先週の3章は、ルツがナオミの親族の一人として、家を絶やさないようにする責任を持つボアズに、求婚するという箇所を読みました。それはナオミが計画を立て、ルツに指示したものでした。ナオミは、亡き夫エリメレクが代々神さまからの祝福として受けてきた嗣業の土地、又、神の民としての名が絶やされることがないようにと、それは神への信仰から出たことでした。

又、異邦人であったルツはナオミについてベツレヘムに来る時このように言いました。

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」。

ルツがナオミの指示通りに、ボアズに求婚したのも、ナオミの信じる神さまの御心として従い得たのです。

しかし、ボアズは感情や思いにながされるのではなく、自分よりも「家を絶やさぬ責任と権利をもつ親戚」がいる。まずその人に確認する必要があるということで、早速今日の4章で、その親戚の人と交渉するのです。

 

ボアズは町の門にいました。そこは通常、人々が集まって商売の取引をしたり、裁判が行われる場所でした。

ボアズはそこで折よく、家をたやさぬ最有力の親戚と出くわし、呼び止めます。そして、このような義務の履行と譲渡に際する交渉には、証人が必要であったため、町の長老十人を選び、その人たちを集めて、証人となってもらうのです。  
ボアズはその親戚にこう話を切り出します。

「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています・・・・もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから」。

 

それに対して最有力な親戚はボアズに、「わたしがその責任を果たします」と答えます。

彼はナオミから亡き夫エリメレクの土地を買い取ろうと思いました。最も近い親戚として、神が与えられた代々の土地を守っていくことは神の律法に適ったことでした。

ところが、ボアズはそれに続けてこう言うのです。

「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」。

エリメレクの畑を優先的に買い取る権利には、ルツとの結婚の義務も生じる、ということをボアズは示したのです。

これを聞いたその親戚は、「それは自分には負いかねる。そういう義務が伴うなら、わたしはその権利を放棄したい。あながたそれを負ってくれないか」と言い出しました。

 

まあ、土地を買い取り、管理していくことだけでもたいそうなことです。そこに結婚の話まで急に出てきたわけですから、この人があわてふためいたのも無理ない話かも知れません。

しかもルツは異教の地モアブの女です。この人は8節で「「それではわたしの嗣業を損なうことになります」と言っています。それは、ルツと結婚すると、自分の家に、そして子孫に、異邦人の血が混じることになる、彼はそれを忌み嫌い、避けたかったんですね。ユダヤ人は、血統や血筋ということに強くこだわりを持っていました。それは神を信じない者、神ならざるものを神とする異邦人によって、生ける神への信仰が損なわれないように戒められてきたからです。

異邦人であるルツと結婚すること。またその子どもも異邦人の血を引いた者であり、神の選びの民としての純粋性が損なわれてしまう。せっかく代々から受けてきた嗣業の地も異邦人の子孫にわたってしまう。そういう強い危機感を彼はもったのではないでしょうか。

さて、一方、その彼の「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。どうぞあなたがその人をお引き取りください」との言葉を聞いたボアズですが。

彼は土地をうけ負っていくこと、又異邦人のルツを引き受けていくことによって起るであろう様々な問題、リスク、いわば犠牲をも全て引き受けていくのであります。

それも、彼は神の律法、教えに則って、その手続きをきちんと踏んでいくのです。

彼がルツに対して恋愛感情をもって迎えたかどうかは書かれていませんが。いずれにしてもこのボアズにはものすごい決断のいることであり、大きな責任が伴うことでしょう。それにしてもボアズは冷静で理性的といえます。

このボアズの姿は、彼が自分の人生を主なる神の導きに委ねている、ということを表しています。

そもそも彼が異邦人のルツに厚意を示し、安心して落ち穂を拾うことができるようにしたのも、ルツが「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、そう言って

ナオミとモアブの地からベツレヘムへ共に帰り、ナオミを支えて働く、愛によって仕える信仰の姿をボアズが見たからです。又、全てを失った絶望の中にあるナオミの傍らに、その支え手としてルツを置いて下さった神の慈しみを見たからです。

そのナオミの家と自分とは親戚で、自分にもルツと結婚してその責任を負う権利と義務があることに、ボアズは主の導きを感じたのではないでしょうか。

 

しかし自分よりも先ずその権利と義務を負うべき人がいる。その人がその責任を負ってルツと結婚しようと言うなら、それが主なる神のみ心だからそれを受け入れよう、もしもその人がその権利を放棄するなら、その時には、自分がそうすることが主のみ心である、と信じたのですね。

ボアズはそのようにたえず主なる神のみ心を確かめ、その導きに従って歩もうとしているのです。

これから先の将来のことについても同じです。異邦人のルツと結婚することによってベツレヘムの町の共同体からどう見られるか。ルツや子どもたちはのけ者扱いにされたり、いじめられたりしないか。ゆくゆく家や土地の問題もややこしいことになりはしないか。そんな心配までも、ボアズは全てを主なる神のみ心と導きに委ねるのです。

そうして、ボアズは長老と町の人々に向って、「あなたがたは、今日、このことの証人になったのです」と宣言します。

その一つは、「ボアズがエリメレクとその子キルヨンとマフロンの遺産をことごとく寡婦となったナオミの手から買い取った」ということ。それはナオミの経済的困難を扶助するということです。

二つ目は、「ボアズが亡きマフロンの妻であったモアブの婦人ルツを引き取って妻とする。故人の名をその嗣業に地に再び建てるために、又、その名が一族や郷里から絶えてしまわないために」。

ボアズがそのように宣言した時、門のところにいたすべての民と長老たちはまず、異邦人のルツを最上ともいえる表現で祝福します。そしてボアズを祝福し、そのボアズとルツの家庭が恵まれますように」と言うのですね。

それは当時のイスラエルの社会では考えられないようなことです。ルツはその生き方、信仰と愛の行動で町の人たちの信頼を勝ち取ったんですね。ボアズも又、そのルツを引き受けていく姿が、町の人たちに高く評価されたのだと思います。もっといえば、彼らによって異邦人、外国人に対する偏見から町の人たちも解放されたと言えるでしょう。

こうして彼らは結婚し、そして「が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」とあります。

町の女たちはナオミに、「をたたえよ、はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となる」と、神を賛美します。

夫にも二人の息子にも先立たれ失意のうちに帰って来たナオミ。そのナオミを顧み、祝福してくださる神さま、その慈しみがベツレヘムの女たちは賛美しているのです。

こうして「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた」とあります。

そこには、うつろな者、虚しい者と、つぶやき嘆いていたかつてのナオミの姿はありません。まさに、神さまは、この子をとおしてナオミの魂を生き返らせて下さるのです。

イザヤ書61章3節(口語訳)に「灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて賛美の衣まとわせて下さる」。アーメン。まさに主は素晴しい!

今日の4章には「責任を果たす」「責任を負う」、ヘブライ語で「ゴエル」という言葉が何度も繰り返されています。それは又、「代価を払う」、「贖う」を意味します。

最有力なゴエルの親戚は、「そこまで負うことは、わたしにはできかねます」と言いました。彼はゴエル、代価を払う者、贖い主になることを拒否したのです。

しかし、ボアズは自分が被るかもしれない不利益もろとも引き受け、その責任:ゴエルを果たします。

そこに、私たちの贖い主である主イエス・キリストのお姿が重なってきます

新約聖書Ⅰテモテ1章6節に「この方はすべての人の贖いとして御自分を献げられました」とありますように、世の力と罪の中に滅びるほかないわたし、寄る辺なきわたしを、その存在をあるがまま引き受けて下さったのです。今もそうです。

本来ならわたしが負うべき一切の責任、罪の代償までも、ゴエルを果たし、それも身代わりとなって果たしてくださった。人々にあざけられ、鞭打たれ、苦しめられても、最後まで父の神の御心に委ねきって、私たちのゴエル、贖い主となってくださった。

父の神さまは、このわたしたちの贖い主イエスさまを、わたしたちの救いの初穂として復活させてくださったのです。

わたしたち人間はみな全能者であられる神さまに生かされています。真のゴエル:贖い主イエス・キリストによってこの神さまの愛に目覚めて生きるところにこそ、本当の祝福があります。

神が与えて下さったその子が、ナオミの魂を生き返らせる者となったように、神さまが私たちのためにお与え下さった主イエス・キリストによって、今日も私たちの魂は生かされている。その喜びを賛美しつつ、今週もこの礼拝から、贖い主であられる主を見上げながら、あゆんでまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 互いを思いやって生きる | トップ | SOUND CLOSER vol15  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿