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弓を置いて

2023-09-17 13:33:01 | メッセージ
礼拝宣教 創世記9章1~17節 

みなさまお一人おひとりにとって支えになっているという御言葉がおありだと思います。人生の嵐のような試練の中で支え、励まし、前に進んでいく力になったという御言葉、それは一つだけでなく、いくつもあるでしょうが。
私にとっての最も力となっております御言葉を一つあげるとしたら、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)この御言葉が、いつもわたしを支え、守り、導く、力の源になっています。それは「約束のことば」として神さまが心に留めてくださり、その約束をもって生きる私を顧みて下さっておられるとのことです。

本日は創世記9章の「神の祝福と契約」について記されたみ言葉に聞いていきたいと思います。

「祝福」
神はまずノアと彼の息子たちに、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されました。これは、1章28節で神がアダムを祝福されたお言葉と変わっていないように思えます。
ところが、よく見ますと、「地上の生き物をすべて支配せよ」という言葉がありません。
どうして、神さまはこのアダム以後の時代に「地を支配せよ」地を従わせ、治めよ、という祝福を除かれたのでしょうか。
エデンの園においては人間は神がお造りになったすべての生き物、動物とよい関係であったのです。アダムはそれらに名前を付けました。争わずとも多くの食物の実がなり、肉は口にする必要もありませんでした。
ところが、アダムは神との関係性を軽んじ、善悪の木の実を取って食べて神の命じられたことを破って神を避け身を隠す者となります。その時から神との関係の破れは、人と人との関係の破れ、さらに動物や自然界の生き物との破れとなっていきました。人の罪の性質によって動物や自然界の生き物は人間に脅威を覚えるようになったのです。これは今や世界規模で明らかになっている環境破壊、生き物の乱獲や種の絶滅危機といったことが示しているとおりです。
そのような人間の性質をご存じの神さまは、もはやノアの時代に「地を治めよ、支配せよ」とは仰せにならなかったのです。神の権威を人の特権として乱用し、被造世界を破壊させる危険があるからです。今の世界を神はどのような思いで見ておられるのでしょう。
神はそうした人間に、恐れと脅威を感じている動物や生き物、自然界との関係性を回復すべく生きるようにと招き続けておられます。
ところで、本日の個所で神は人間の食糧について、「動いている命あるものも、青草と同じように食べるがよい、それを与える」と許可なさるのです。そうすると、なんだか他の生き物との関係回復と矛盾しているようにも思えますが。食に与ることも又、共存共生あってこその恩恵なのであります。
ここで神は、「ただし、肉は命ある血を含んだまま食べてはならない」とお命じになっておられますが。血を除いて食べるという事、それは、命への敬意を示すことです。自分が食し生きるために赤い血、命が流されているのです。その命の尊さを忘れないようにしなければなりません。
お肉をお店で買う人は今はほとんどででしょう。血をみることなく、きれいに処理、パッケージされた商品、食材としか見なされず、余れば捨てられ生き物たち。もとは命ある存在であったのです。
次の6節ともなりますと、人の血が流されたことへの賠償について命じられています。「人の血を流す者は、人によって自分の血が流される」とあります。これは復讐を肯定しているのではなく、人の命と尊厳を損なうことがないようにと、神は強く戒めておられるのです。なぜなら、「人は神にかたどって造られた」存在だからです。
7節で「産めよ、増えよ」とおっしゃった創造主なるお方の命の祝福を損うような争い多き世界が一日も早く、イザヤの預言書11章に描かれた、「主を知る知識で満たされた平和・シャローム」が実現されていくように、祈り続けてまいりましょう。

「虹の契約」
さて、神はノアとその息子たち、さらに、そこにはまだ存在していない未来の子孫と、すべての生き物と契約を立てられます。
11節で、神は「わたしがあなたたちに契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と、約束なさるのです。
私たちの世の中は「契約」社会とも言えます。物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するにも相手があり、契約を交わします。これらの契約には互いの信頼関係、信用をベースに、その誠実さが求められます。万が一契約した約束事にもし違反するようなことが起これば免責の義務が生じます。
ところが、ここで神が立てられた契約ですが。一般的な契約とは大きく異なっています。人間の側がその心に思うことはおさないときから悪く、罪深いものであるにも拘らず、唯一方的に神ご自身が人間を憐まれてお立てになった契約なのです。
それは「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」という約束です。神はこうして新しい創造の業をお始めになります。
ただ、その後の世界において確かに、すべてが滅びるまでのものでなくても洪水は起こってきました。直近ではリビアにおいて、24時間で1年分の雨が降る大きな洪水が起こり、1万人以上の人が亡くなられ、多くの行方不明の方がいらっしゃるようです。モロッコの地震が起きたばかりですが。近年は顕著な異常気象も相俟って大きな豪雨水害、山火事、地震による災害が起こっていますが。これは神の裁き、天罰によるものだとの考えもあります。
果たしてそうなのか、それは私どもにはわかりません。祈祷会の聖書の学び会では、昨今の様々な災害は地球温暖化や地殻変動を招いた人間の責任が大きいという見方も出ましたが。確かに、「地を従わせ、治めよ」との、本来人に期待されていた役割を、人間が罪のゆえに果たせなかった結果が今問われているとも言えるでしょう。
どちらにしましても、神は先の8章で「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と知っておられるのに、「わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは二度としない」と御心に言われ、本日のこの契約を結ばれるのです。

神はその契約について、13節で次のように仰せになります。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」
そうです、この契約は先に申しましたように神が無条件の愛によってお立てになり、雲の中に「わたしの虹を置く」という顕われをもって示された神の契約なのです。
みなさんは近頃虹を見られましたか?まあ虹といえばロマンチックで、美しく、さわやかなイメージを持ったりもしますが。
ヘブライ語で虹という言葉には「弓」という意味もあります。弓と言えば戦争の道具であります。又、権力を象徴するものであります。神はそのご自身の弓を自ら置かれるのです。それを契約のしるしとなさるのです。どういうことでしょうか。
それは神が人間に対して、御自らの弓を放って滅ぼすことはしないということです。神はご自身の弓を置いて、虹の契約を人間とその子孫、又、すべての生き物と立てられるのです。争いの弓は、和解と平和の象徴といえる美しい虹となりました。

厳しい大洪水が過ぎた後に、美しく輝く虹は、ノアたちの裁きに対する恐れを心から取り除いてくれたことでしょう。虹は天と大地とをつないでいるように見えます。罪深い人間と慈しみ深い神さまを結ぶ平和の架け橋であるように思えます。虹は、人間とすべての被造物を愛し、滅ぼすことを決して願っておられないという、神の無限の愛を表わしているようです。だれもが虹を見てほっとし、安らぎます。
事実、虹は神ご自身が心に契約を思い起こされるため、御自ら雲を湧き上がらせて虹を立て、その都度それを御覧になって、あの時のように滅ぼすことは二度とすまいと確認して下さるのです。どれほどの忍耐とご慈愛でしょうか。それは「永遠の契約」、変わることの約束なのです。、

「キリストによる契約の実」
神さまが「虹を置いて」なされたこの契約は、神の子イエス・キリストにおける新しい契約によって、信じるすべての人に、より確かなカタチをもって現わされました。
人間を弓の力によって滅ぼすことをなさらず、その「弓を置き」、私たち人間の罪を自ら背負い、その罪の裁きを引き受けて下さり、主御自身の命である血を流し、肉を裂かれて私たち人間のためのあがないの救いを成し遂げられたのです。

ヨハネ3章16節「神は、その独り子を賜ったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神は最も尊いみ子キリストを罪に満ちた世界とそこに生きる私たちのためにお遣わして下さり、その血汐をもって、天と地を結ぶ永遠の平和の契約を実現してくださったのです。
そのことを思うとき、唯主への感謝と賛美しかありません。それは私たちが罪に満ちた世にあって、神の御前に自らの信仰と思いを守っていく力、又、あらゆる闇の力や悪に対してキリストに倣い打ち克っていく力なのです。

神がご慈愛をもってかけられた虹の契約。
「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約を心に留める」とのお約束。それは、主イエスの「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」とのお言葉によって保証されているのです。主は私たちのことを忘れることなく心に留めてくださり、どんな時も共にいてくださるのです。
この主の日、御前に与り、救われ、生かされている日々への感謝。神への信頼と愛、そして願いを込めて、賛美をささげ、今日のいのちの言葉をもって、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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