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復活のキリストと共に

2023-09-03 14:13:35 | メッセージ
召天者記念礼拝宣教  Ⅰコリント15・1-8,12-24 

3年にも及ぶコロナ危機が続き、葬儀の形態も家族にのみで、一日葬で行われるところも増え、そのかたちも変わってきました。私事で恐縮ですが、私の母もコロナ下に亡くなりました。病院に救急搬送されてからは一切面会ができず、最期さえ看取ることがゆるされませんでした。
コロナはまだ終息していませんが、社会では五類となりマスクは個人の判断となり、ようやくこうして気兼ねなくご遺族の皆さまにご案内することができましたが。まだコロナは無くなったわけではありませんので、各々において適切に対応していきましょう。

本日は先に主のみもとに召された故人を偲びつつ、復活の主を記念する礼拝をお献げしています。
私たちの主なる神さまは、天地万物をお造りになられ、すべてを治め、生きとし生ける命を司っておられます。
先ほど、召天会員・会友者の名簿にそっておひとりお一人のお名前が読みあげられました。主なる神さまによってこの地上に生を受け、イエス・キリストと出会い、主と共に歩まれ、十字架のあがないによる救いの約束のもと、天の神のもとに帰って行かれました。

今日この召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族のなかには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。今日ここに、故人の信仰を尊重してくださり、この場に集って頂けたことに感謝と敬意を表したいと思います。

私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。
その時、悩んだのは家が仏教であるということでした。長男であった私がクリスチャンになると親のことも含め家の仏壇のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。
そのことについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話いただいた牧師は、ご自分の体験を通じてこのように私にアドヴァイスをしてくださったことが思い出されます。
「きみの信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分にできる。例えば私の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ。」
私はその言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが解けました。そうして高校1年のときに主イエスを救い主と信じ受け入れて、バプテスマを受けたのです。「自分の信仰、神さまとの関係を大事にするという信念はしっかりと保ち、故人の信仰は尊重する。」とっても大切なことを教えて頂いたと思っております。

「キリストの復活」
今日は先に読まれました聖書、Ⅰコリント15章の「キリストの復活」と「死者の復活」についての、み言葉に聞いていきたいと思います。
15章1-8節までは、復活されたキリストが、そのお姿を表されたことが、記されています。
その中で最も大切なこととして伝えられているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとり三日目に復活したこと」であります。
私たちの罪を贖うために十字架によって死なれたキリストは、よみに下り、三日後に死よりよみがえられたのです。
今日の5節以降には、「復活されたキリストが、ケファ(シモン・ペトロ)に現れ、その後12人(弟子)に、次いで500人以上もの兄弟に同時に現れました」とあります。
7節には、「次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたし(パウロ)にも現れました」とあります。

かつてパウロは、生前のキリストについて何も知りませんでした。ただキリスト教は邪教だということで、キリスト教会とその信者を激しく迫害していたのです。その頃キリストの内に働かれていた聖霊が降臨し、主イエスは救い主、キリストと信じる人たちが爆発的に増えていきました。そうした中、パウロは復活のキリストと出会う体験をするのであります。彼はそこで主のみ声を聞き、茫然自失となるのです。キリスト教会とそキリスト者を迫害していたのは、実は神を迫害していたことだった。神を冒涜していたのは自分であったと思い知るのです。
その自分の罪の恐ろしさを知ったパウロはキリストの救いを受けとり、キリストの福音を伝える使命が与えられたのです。
私たちのなかで、復活のキリストにお出会いしたという方はおられるでしょうか。なかにはおられるかも知れませんが。しかし単にキリストを見るということと、お出会いするということは違います。
「聖書」をとおして、キリストのお言葉とその生き方に触れる時、又、祈りの中で呼び求める時、キリストが自分の罪のために死んでくださったことを身に染みて感じれることもあります。肉眼で見なくとも確かにキリストは今も生きておられる、この聖霊のお働きをとおして私たちはそのこと知り、体験することができます。復活のキリストは今も信じる者と共に生きておられます。

「死者の復活」
今日のもう一つのお話は、「死者の復活」についてであります。
それは先の「キリストの復活」が基盤になっているのです。
12節以降にこうあります。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
これは当時のコリントの教会において、死者の復活について否定する考えがあったということです。しかし聖書は人の死が終わりでないことを旧約聖書の時代からずっと伝え続けています。
今日の15章35節以降のところには、「復活の体」、「霊の体が復活する」という驚くべきことが大いなる希望として記されています。「死者は復活して朽ちないものとされ、朽ちない霊の体を着る」と約束されているのです。

パウロはここで、「死者の復活」を信じないのであれば、あなたがたの信仰はむなしく、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったことになる。
「この世の生活、でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と、その不信仰を嘆きます。

そこで私たちが再確認しておかなければならないのは、20節の「キリストが死者の中から復活し、眠りについた者の初穂となられた」とうことです。
この「初穂」とは、果物や穀物のうちで、その年の最初に実ったものを指します。初穂は収穫の始まりであり、そこから次々と実りの収穫がなされていくのです。
死から復活されたキリストは、復活の命の初穂となられ、キリストにある者の「霊のからだ」が復活するのです。

22節以降にはこう記されています。
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべて人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
アダムは罪により神との関係性を損なって死をもたらしましたが、キリストは神との和解による死と滅びからの解放がもたらされたのです。

さらに23節で、「復活」には順序があるということです。
始めは、初穂であるキリストの復活です。この出来事は起こりました。次の段階では、キリストが再び来られる来臨のときです。そのときがキリストを信じていた人たちの復活です。その折には、先に天に召された信仰者から復活して変えられます。ついで、地上におかれている信仰者も復活のからだに変えられます。そして、世の終りが来る、とあります。
私たちはいつ地上の歩みを終えることになるのかわかりません。だからこそ、キリストの救いの喜びと感謝を日々新たに、復活に与る希望、死が死で終わるものでなく、キリストにあって朽ちない命に与るという希望をもって一日一日を大切に歩んでまいりたいと願います。
今日のいのちの御言葉の約束の確かさに信頼し、主の御前に生きてゆきましょう。
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