日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

カインの罪が示すもの

2023-08-13 13:33:12 | メッセージ
礼拝宣教   創世記4章1-16節 平和

今週15日は敗戦78年目を迎えます。戦争によって尊い命が奪われ、又奪っていった惨禍と過ちが二度と繰り返されませんように祈ります。キリストは「平和を実現する人びとは幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。人と人、国々も又、和解を経て真の平和が実現されるには、この世界とすべてをお造りになられた創造主、いのちの源なる方への畏敬がなければならない。そうでなければ、偽りの平和、力に依存し、寄りかかり軽薄でぜい弱な関係性しか望めません。主を畏れ敬い、悔い改めをもって真の平和を祈り、希求する日本、全世界となりますよう共に主に願い求めてまいりましょう。

今日は創世記4章の「カインとアベル」の記事からみ言葉を聞いていきたいと思います。
先週はアダムとエバが主のお言葉に反して罪を知る者となったため、彼らはエデンの園から出て行かなければならなくなります。しかし、主なる神の慈愛、憐みのもと、ここから人類の文明や歴史は始まっていくのです。
まず、この4章においてエバは最初の子、カインを産みます。そしてさらに第二子のアベルを産みます。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となり、ある日それぞれ主なる神のもとに献げ物を持って来るのです。
カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ます。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」というのです。

その理由について何も記されていませんので、定かではありませんが。
ただここに、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもって来た」とありますから、アベルが羊の群れの中から、どれが神に喜ばれるものとして最善だろうかと考えた上で、身つきのよい初子の羊を選び持っていったことは伝わってきます。主がその小羊をご覧になられた時、アベルとその真心をお察しになり、喜ばれたように思えます。

一方のカインは、主が自分の献げ物に目を留められなかったことに対して、「激しく怒って顔を伏せ」ました。カインの心は炎のように燃え上がります。それは主に対する憤怒の炎でした。

そこで、主はカインに言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインは顔を上げられません。
そうですね。良心に責められることがないのなら顔を上げていられるはずです。「正しい」というのは神の前にやましいことがないということです。「正しくない」というのは神に責めを負うべき思いがあるということです。
土を耕す労苦から神への不満が募っていたのか、それはわかりませんが。確かなのは、カインが真心から主に献げていたなら主への感謝があったでしょう。カインはそれを忘れ、主に対して激しく怒りを燃やしたのです。
またそこには、弟アベルに対する強烈な嫉妬心が生じました。カインの心の内に、自分は長子であるのにあいつよりおれの方が上なのにという思いあがった感情が働いたとも考えられます。カインも、「良かったな」とアベルを祝福してあげることができれば、ほんとうに幸いであったのでしょうが、そうはいきませんでした。そういった思いは私たちの内にもあるのではないでしょうか。

主はカインに、「正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と告げられます。主はカインの心をすべてお見通しになられた上で、激情に駆られ暴走しないようにいさめられるのです。それは又、妬みや憎しみといった負の感情から解放され、立ち返って生きる機会をお与えになっておられるのです。
しかし、カインはその主の忠告を聞き入れることなく、「弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と、取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまうのです。聖書で最初の殺害が兄弟殺しであったということです。

旧約聖書の中で知られる兄弟の関係性について記した記事は、いくつかあります。例えばヤコブとエサウの物語。ヤコブはエサウから祝福を騙し取りエサウは怒りと妬みでヤコブを殺そうとします。又サムエル記にはアムノンとアブサロムという兄弟がおり、ここでは弟アブサロムが兄アムノンに復讐し殺害します。
新約聖書にも、兄弟と神との間にある問題を取り扱った放蕩息子の話があります。兄はカインのような形で弟を殺害していませんが、彼は殺人者と同じ状態でした。弟が家に帰って来た時、兄は妬みに燃え家に入ろうとはしませんでした。この兄に罪が待ち受けていたのです。兄は弟との関係だけでなく、見えざるところで実は父との関係が損なわれていたのです。まあこのように聖書の記事から見えてきますことは、神との関係性、そして人との関係性。その祝福であるはずの関係性が、妬みや恨み、不平や不満、その感情の暴走によって破壊的結果をもたらしたということです。
カインによるアベルへの恐ろしい暴力と排除は殺人にまで至ります。この人間のもつ嫉みや恨みが暴力や排除となって実に主イエスを十字架にかけ、殺したというおぞまし罪を思うのでありますが。
ここで主はカインに対して、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と問われます。主はカインに、「兄弟」としての関係性を問いかけられたのでした。それに対してカインは、「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、その兄弟の関係性を否定し、排除したのです。それは神との関係性を拒むものでもあったのです。

主なる神はカインの犯した罪に対するさばきの宣告をします。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
神はすべてをご存じであられ、犠牲となった者の血の叫びをお聴きになられるのです。カインは神が厳格な裁きの座についておられることを知ります。彼は恐れおののきながら自分の犯した過ちの大きさに気づき、次のように言います。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
カインは確かに自らの過ちに気づきますが、罪を認め、悔い改めたというのではありません。
ただ、自分の犯した行為の結果について恐怖と不安をおぼえ、動転しているのです。そうして彼は、「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となる事への恐れを口にするのです。
これに対して主は意外な事を仰せになります。「いや、それゆえカインを殺す者はだれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
カインがこの後地上をさまよう者となる、という宣告については撤回なさいません。主なる神は全き方であり、ご自身の聖なることをごまかすことなどありえません。神の義は不変であります。厳然として今日も変わることはありません。
しかしそうでありながら主は、その深く寛大な愛と慈しみゆたかなお方であられます。それは、詩編に「神は悪人の上にも日を昇らせるお方」と謳われているように、その憐みによって「ああ、わたしの罪は重すぎて負いきれません」と叫ぶほかなかったカインのいのちを保護なさるのです。
日本では未だに死刑制度がありますが。心底悔い改めても刑が執行されることがあるわけですが。弟殺しの大罪を犯したこのカインのいのちですらも、人手にかかることをお許しにならないほど、主であられる神の慈愛は深いのです。

主なる神はカインに出会う者がだれも彼を打ち殺すことのないように、カインに「しるし」を付けられます。そのしるしとはどんなものであったのでしょうか?
そのことについては何も書かれいませんが。確かなことは、彼に出会う者が、だれも彼を打ち殺すようにすることがないためのしるしであったという事です。聖書には主は「復讐はわたしがすることである。復讐するは我にあり」と、記されている箇所がありますが。真のさばきは、人にではなく神にあるのです。

カインは主の付けられたそのしるしを確認する時、自分の罪を深く思い起こしたことでしょう。そしてそのしるしによって今を生かされ、守られている主の憐みをおぼえ、さすらいの地にあって慰めと力を得ることができたでしょう。
それはまた、この出来事を伝え聞き、そのしるしを目にする人が、神の厳格なさばきとともに、慈愛と救いを深く思い起こすしるしとなったのではないでしょうか。
この神の義と愛は今やキリストによって明らかにされました。私どもにとりまして、自らの罪と主のみ救いを身におびるしるしとは、それは、まぎれもなく主イエスの十字架であります。

私ども人間はみなカインのような性質があります。人との関係の中で優劣を付けてはかり、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむ。そんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を、又、人を傷つけ、主のみ前に顔を上げることができなくなってしまうような者であります。
でありながら、キリストの十字架のしるしを見上げる時、神の救いが迫って来るのです。神の義と救いの十字架から流れる贖いの血汐により、真心からの悔い改めを呼び覚まされ、お前に立ち得る者とされるのであります。

4章の最後ところに、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と記されています。この時代とは、カインとアベルに代わって与えられたセトの子、エノシュの時代ですが。時を同じくして、カインの子孫たちに家畜を飼うもの、すなわちそれは「ささげもの」に。琴や笛、それは「賛美」に。青銅や鉄の道具、それは「聖具」として、それぞれ主の御名を呼び求める礼拝が暗示されているように、そうした人々が興されて起こっていったということであります。
主の前にうつむいて顔を伏せていたカインにしるしが付けられた後、うつむいた顔を上げて、「主の御名を呼び求める」人たちがまことに賛美されるべきお方を仰ぎ見ていく新しい希望の歩みが細々ではありますが、始まっていくのです。
私たちも又、すべて、主の御名を呼び求める者に、御顔を向けて下さる、その主なる神の救い、キリストの十字架のしるしに生かされてる感謝と喜びにあって、共に礼拝を捧げてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする