礼拝宣教 使徒言行録20章17-38節
本日は使徒言行録20章より御言葉を聞いていきます。
使徒パウロは聖霊に促されてエルサレムに向かう決意をいたしますが。今日の個所ではエフェソの教会の長老たちに伝え、告別のメッセージを語ります。
「パウロはミレトスから60キロも離れたエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ」集まってもらいますが。それは前の19章に記されているように、以前エフェソでの働きのさなかに起こった騒動にあるように、ミレトスの港から船に乗り「できれば五旬節にはエルサレムに着いていたい」と願っていたからです。
パウロにとってこのエフェソでの福音伝道の活動は3年あまりであったようですが。 その間様々な苦難や試練もありました。
彼はその地での福音伝道を次のように総括します。
19-21節、「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つ事は一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです。」
エフェソでの活動における幾多の困難の中で、パウロは己の無力さに涙しつつも、忍耐をもって福音の証をエフェソにおいて地道に続けていきました。やがて主なる神に立ち返り、主イエスを信じて救われる人が現れ、いくつもの家の教会が起こされていきます。これらの出来事は聖霊降臨以降、聖霊のお働きによる大きな実り、恵みの収穫でありました。そのように次々と主イエスを信じる人が起こされていたのです。
パウロはまだまだエフェソにとどまって福音伝道することができたのではないでしょうか。それも彼の選択肢として十分考えられたわけです。
けれども彼は22節で、「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます」と、エフェソの長老たちに別れを告げます。
実はこの「聖霊に促されて」は、良い訳とはいえず、原文に沿った岩波訳は「霊に縛られて」と訳されています。促されるのと縛られるのとは違います。「行った方がいいよ、行きなさい」ではなく、もう自分の思いや考えとは違う力が働いて、手に縄をかけられるようにパウロは霊に縛られてエルサレムに行く決意をするのです。それは聖霊に捕えられてと言っていいでしょう。自ら進んでエルサレムに行こうというより、行かないわけにはいかない。そのような聖霊の強い迫りをパウロは受けるのです。
パウロはかの地で、23節、「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と言っているように、エルサレムに行けば大変な艱難が待っていることは分かっていました。かつての自分と同じような迫害者が大勢待ち受けているのです。
しかし彼は毅然として次のように決意を言い表します。
24節、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
このパウロの決意は、人間的な信念によるものではなく、もはや「霊に縛られ」、ほかの選択の余地がないという決意です。
そこには、パウロ自身が復活の主イエスと出会う聖霊の体験があったからです。
パウロはユダヤ教徒のエリートであったとき、その知識と神への熱心さを誇り、キリストの教会とクリスチャンたちを異端者だと激しく迫害し、そのことさえ自らの誇りとしていました。
そんな血気盛んなパウロでしたが。迫害のためにダマスコに向う途上で、「天から、サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける主(神)の御声を聞くのです。
パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との答えがありました。彼は3日間この大きな衝撃のために目が見えなくなってしまい、食事も摂れなくなってしまいます。
これまで神のためにと熱心にキリスト教会とクリスチャンを迫害していたのは、実は自分が熱心に仕え、従って来た主に対する迫害であったことを知ったからです。
その後、主はその弟子アナニアをパウロのもとに遣わし、アナニアはパウロのために執り成しの祈りをささげると、パウロは主の救いと聖霊に満たされます。そうしてパウロは自分の深い罪を悔い改め、主に立ち帰る回心を経験します。すると、たちまち目からウロコのようなものが落ち、そのふさがれたていたパウロの目は元どおり見えるようになり、バプテスマを受けて、食事をし、元気を取り戻すのですね。
パウロが「今、わたしは霊に縛られてエルサレムに行きます」と語ったのは、聖霊のお導きであるとろもに、救いようのない自分が、唯、主イエス・キリストの神の愛、聖霊に捕えられ、キリストの僕としてお仕えし続ける外ない自分の身上を言い表わしているのです。
パウロは24節で、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするとの任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と語ります。
「主イエスからいただいた神の恵みの福音」、それはまさに御子イエス・キリストが、罪のゆえに滅ぶ外ない自分の罪の裁きをその身に負って十字架につかれ、贖いの死をもって滅び行く者に、救いと神との和解の道を切り拓いて下さったその福音であります。
その復活の主との出会い、圧倒的な神のゆるしと愛、聖霊の満たしを受けたパウロは、その生涯をまさに主の福音に捕らえられたキリストの僕となり、その福音を生き、伝える者となったのです。
エフェソの教会の信徒たちのこれからを案じながらも、命をかけてエルサレムに向かおうとするパウロは28節で、教会の長老たちに次のように語ります。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」
これは教会の指導者たちに語られていることですけれども、キリストの信徒である私たち一人ひとりに語りかけられていると考えてよいでしょう。バプテストの教会は全信徒が祭司であり、牧師も信徒の一人です。
そこでパウロはまず、「あなた自身に気を配ってください」と勧めます。
これはどういうことでしょうか。
パウロ自身はその福音伝道の偉大な働きから、大使徒といわれるような存在であります。しかし彼は日々「自分を全く取るに足らない者と思」っていたというのです。
そのことから、パウロは人に福音を伝え、教える前に、自分自身が神の御前にあってどうなのかということを、絶えず問題にしていたことがわかります。伝道とは、まず自分自身を神の前で問題にしていくことから始まるのです。パウロが囚われの身となった獄中からフィリピの信徒たちに向けた手紙に彼は次のように書いています。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:12-13)
あの人はどうだ。この人はああだという人の問題ではなく、まず自分自身が主に救われ続けるほかない者であること。又、御言葉に糺(ただ)され続けるほかない者であることをわきまえ知り、謙遜にされる。そこで神の恵みの御業にほんとうに気づかされるのです。ヘンな言い方ですが、伝道する相手はまず自分自身であるということを、生涯救われた求道者として自覚し続けていなければ、それは単に言葉や知識だけでは人に伝わらないということです。逆に、どんな時も神の愛に生かされるなら、何か特別なことはしなくても、その存在をとおして感謝と平安、喜びは伝わっていくものです。
主イエスご自身、終末の時代に向かう時代の心がけとして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(マルコ13:9)と、お語りになりました。
パウロも同じように、、まず「自分自身に気をつけ、互いのことにも思いを向け合いなさい。群れ全体に対しても気を配るように」と勧めているのです。
パウロは32節で、「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と語ります。
パウロは全身全霊で働きました。しかし、それを業績として誇ったりしません。それはすべて神とその恵みの言葉の働きによることを知っているからです。だから神におゆだねすることが出来たのです。謙遜であるというのはこういうことだと思います。
さて、そうしてパウロは最後にエフェソの信徒たちに次のように語ります。
「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
ここには、パウロのキリスト者としての具体的な生き方が語られています。
神の恵みの福音を伝えるというのは、単に語り伝えるというのではなく、「キリストに倣い」、今をどう生きるか。そのところから、神の恵みの福音が分かち合われていくのです。キリストはだれもが、そしてこの私が救われるためにご自身を与え尽くしてくださいました。そのことへの感謝と喜び。そこに聖霊がお働きになられ、神の国の出来事が起こされていくのです。それが活きた伝道です。
今日の聖書の箇所は、福音が伝わる生き方について豊かな示唆を私たちに与えてくれます。今まで福音を人に伝える事なんか私には出来ないと思って来られた方もいらっしゃったのではないでしょうか。けれどそれは何も特別なことではありません。
まず、日々神の御前に自分をおくとき、的外れなあり方や態度が明らかにされて、糺されていくでしょう。その気づきこそが大事なのです。そこから主に立ち帰って生きる軌道修正ができるからです。本当に大切なことは内側にあるのです。そういう事に気づかず、見過ごしになって外の世界ばかりについつい目が向きがちなのが私たち人間です。
たゆまず主なる神との関係性を築き続け、御子イエス・キリストに倣って生きる。そこから主が私たちそれぞれに託される福音の業と証しが生まれていくのです。
今週も、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちの希望が、私たちそれぞれの遣わされるそのところで証しされてますように。キリストに倣って。