日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

わたしがあなたと共にいる

2022-05-01 16:58:07 | メッセージ

礼拝宣教 使徒言行録18章1節~11節

 

本日は先週の使徒パウロのアテネでの伝道から舞台を移して、コリントでの伝道の記事より御言葉を聞いていきます。

ギリシャでは学問や哲学、さらに多くの神々、偶像が祀られた地でありました。人びとは目新しい話や学術的な話を好んで、パウロが伝える福音はなかなか受け入れられません。さらにパウロを悩ませ衰弱させたのは、同胞のユダヤ人たちからの反抗や迫害でした。そのためパウロは身心とも弱り果て、恐れに取りつかれ、ひどく不安であったのです。そういう中、本日のコリントの地においては、そんなパウロの支え手となった主にある同労者が幾人も登場いたします。

 

2節「ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。」

ここに最初に登場するのはアキラとプリスキラ夫妻です。彼らはローマに住んでいたのですが、「ローマに住む全ユダヤ人はローマから退去せよ」とのローマ皇帝による勅令が出されて、彼らは政治的難民となり、イタリアからコリントに移り住みます。

その頃ローマには、すでにイエスをメシアと信じる人たちがおりました。おそらく五旬節のペンテコステの出来事に遭遇したローマ圏のユダヤ人たちが、その主イエスの福音を伝えたのでないかと言われていますが。

その彼らとパウロとがこの地で出会うことになるのです。しかもパウロはアキラが同じテント造りの仕事をしていたのを知り、彼らの家に居候して一緒に仕事をするのです。これも不思議なことでした。そうやってパウロは生計を立てながら週に一度安息日にはユダヤ会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めることができたというのです。ちなみに、ここには「福音を伝えた」とは記されず、「説得に努めた」と記されているのですが。そのことは、如何にユダヤ人たちに福音を伝えることが困難であったのかが読み取れます。

 

律法や戒律や昔からの言い伝えに凝り固まっていたユダヤ人たち。彼らはそれらの教えを曲げてはならないと警戒したのです。一方で人が造り出した細かい規定や決り事に囚われていたのです。又、哲学等の学問で凝り固まっていたギリシャ人たち。それは神抜きに学術や科学を信奉する現代と同様に映ります。その人々には主イエスの十字架と復活の福音がなかなか届きません。

特に熱心なユダヤ教徒たちの中には、パウロに強い反感や敵愾心をもつ者もいたのです。かつてパウロ自身も神の救いの御業をさとり得ず、石のように頑な心でキリスト教会とその信徒たちを激しく迫害したのです。しかし彼は復活の主と出会いによってその心が打ち砕かれ、主に180度方向転換して、主イエスの福音を伝える者に造り変えられたのです。

だからパウロは以前の自分のように激しく迫害してくる者がいても、怖じ恐れることなく安息日にはユダヤ会堂に向かい、ユダヤ人たちに主の福音を伝えます。それはかつての自分のように熱心に神の言葉に触れ、その教えを厳格に守っていながらも決して救われ得ないユダヤの同胞が、幾人かでも真の救い主、イエス・キリストの福音に出会い、救いに与るためでした。そのためにパウロには命の危機、身の危険を感じることも多かったのです。

後に彼はアクラとプリスキラのローマの教会の信徒たちに向けて手紙を書いているのですが、その最後の挨拶のところにはこうしたためられています。

「アキラとプリスキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(ローマ16章3-4節)

福音伝道が過酷なコリントの地において、アキラとプリスキラ夫妻との出会いがパウロにとって物心とも大きな支えとなり、同時に彼らの存在をとおしてローマの教会の信徒たちとコリントの教会が結ばれていくことになるのです。

ここ大阪教会でもいくつもの出会いが起こされ、信仰による励まし合いと相互の支援が生まれてきたことは感謝なことです。それらすべてを備え導かれる主を賛美します。

 

さらに5節には、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシア(救い主)はイエスであることを力強く証しした」とあります。

このシラスとテモテとの再会は、パウロの伝道スピリットを再燃させ、その使命への確信を得る機会となりました。又、パウロが御言葉を語ることに専念できたのは、シラスとテモテらによってローマの教会から経済的支援が届けられたということも大きかったのです。ただ、パウロ自身は働くことを完全にやめたのではなく、自らの必要のための仕事は続けました。そうしてパウロは、コリントの同胞ユダヤ人たちに福音を伝えることに専念し、御言葉を語ることができたのです。

しかし、コリントの一部のユダヤ教徒たちはパウロに反抗し、口汚くののしったというのです。

すると、パウロは服の塵を振り払って、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」と宣言します。

同胞である愛するユダヤ人に向けて、「主に立ち帰って生きよ」と強く訴え続けたそのパウロの熱い思いは、逆に強い反抗や口汚いののしりとして跳ね返ってきたのです。その心境はいかばかりであったでしょう。

 

そうして、7節「パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った」とあります。

このティティオ・ユストという人物がどういう人で、パウロとどのようにつながったのかは不明でありますが、彼はローマ人であったようです。パウロはこの神を畏れ敬う人の家で福音を伝え始める事になります。彼の家はユダヤ会堂と隣り合っていたというのです。ユストは神を畏れ敬う人でしたので、自分の家でパウロが集会をもつことに対して協力を惜しみませんでした。これも又、神のお導きとご計画としか言いようありません。

パウロが福音伝道の拠点にしたその家が、ユダヤ会堂の隣りにあったというのも又、決して偶然ではないでしょう。なぜなら、その家に隣接するユダヤの会堂司のクリスポとその一家が、主の福音を聞いてメシア、救い主がイエスであることを信じるようになったからです。

クリスポはユダヤの会堂司でしたから、あのパウロに反抗し、ののしったユダヤ教徒たちとも近い立場にあったわけです。ところが、主なる神のなさることは不思議としか言い得ません。人の思いを遥かに超えています。

パウロは先に反抗しののしるユダヤ人たちに服の塵を振り払って、今後は、異邦人の方へ行くと言い、袂を分かつわけですが。主なる神はユダヤの人びと決してあきらめてはおられなかったのです。主の恵みと慈しみは人の思いを超え、ユダヤの会堂司一家をあげて主を信じるようになり、ユダヤ人への福音伝道の機会をも拓かれていくのです。(8節)

さらに又、コリントの多くの人々も、パウロが伝える福音を聞いて信じてバプテスマを受けたとありますように、素晴らしい神の救いの出来事が起こっていくのです。

ところがそのことで、一部のユダヤ教徒たちの妬みと憎悪がパウロにさらに激しく向かうことになるのです。パウロ自身も日夜じわじわと、その恐れと不安に苛まれるようになっていたのであります。彼は一時このコリントから離れようかとまで思い詰めていたのかも知れません。

 

そんなある夜のことです。主は幻の中でパウロに向けて語られます。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

 

この主の御声はパウロの大きな励ましとなり、力を与えます。

「わたしがあなたと共にいる。」

実はパウロは主が共におられるのだということをすでに経験していたのです。

彼が極度に衰弱しきっていた折、アクラとプリスキラ夫妻との出会いがおこされたこと。さらには、行き詰まりの中で、同労者のシラスとテモテとの再会の機会が与えられたこと。そして、ユダヤ会堂で激しい反抗に遭い、ののしられた後で、神を畏れ敬う異邦人のユストとの出会いがおこされたこと。そしてさらに、異邦人の方に行くといって向った地で、ユダヤ人の会堂司クリスポ一家の救いがおこされたこと。又、コリントの多くの人々も主の福音を信じて、バプテスマを受けるという出来事がおこされされたこと。

それらすべては、まさに主なる神がパウロと共にいて働いておられるという生きた証しなのです。アテネと同様に福音伝道が難しいと予想されたこのコリントにおいても、実に多くの人たちが、福音を聞いて主を信じる救いの出来事が起こっていきました。そのことも、このコリントの町には真の主である神を求め、神のもとに立ち帰って生きる「主の民が大勢いる」、確かにいたのです

この天王寺はどうでしょう。今住んでおられる町はどうでしょう。この大阪、この日本はどうでしょうか。福音に耳を傾ける人は少ないように思えます。ましてや救いの出来事など今後そう起こるものでないように思えますけれども。

主はなんとおっしゃっているでしょうか。「この町には、わたしの民が大勢いる」と、おっしゃっています。主は、御自分の民とし、救いに与る人たちすべてをご存じなのです。

 

パウロはこの主のお言葉によって、その後「1年6カ月コリントの町にとどまって人々に神の言葉を教えた」ということでした。このとどまってという言葉は、「腰を据えて」という意味です。パウロは難題も多くあったコリントにそこまで長く滞在することになるとは想定していなかったかも知れません。けれども彼はこの町に腰を据え、主が確かに共に生きてお働きくださる福音を日々体験し、証ししていったのです。

福音がどう人にどう聞かれ、人にどう受けとられるかは確かに気になります。だれが、何人救われるかまで、人は推し測ってしまいがちですが。しかしそれは人の業によるものではなく、神の領域なのです。大切なのは、時が良くても悪くても、主がわたしたちと共におられ、共に生きてお働きくださるこの事に信頼をおいて、主の御言葉に私が、私たちが生き続けることにあります。

パウロはローマの信徒へ向けて次のように書いています。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

先週はYさんの救いと今日に至るまでのお証しを伺い、大変励まされましたが。救いの恵みと喜びの福音は共に分かち合われていくことで、さらにゆたかなものとされていきます。

パウロはアテネを去ってコリントに行ったときのことを、後にコリントの信徒への手紙の中で次のようにしたためています。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」

ところが、このパウロの言葉を原文に沿って訳しますと、「そちらに行ったとき、わたし衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」というのが正しいと、神学生の時、新約学の授業で教えて頂いたのですが。

そのようにパウロの言葉を読むと、パウロが衰弱し、疲れ、恐れに取りつかれ、ひどく不安であったように、コリントの信徒たちも又、厳しい迫害の中で同様に疲れを覚えていたのではないかと、いうことでありました。

 

大阪教会は2年以上前にコロナ下となり、一時礼拝を休まざる得ない状況となりました。その時は社会全体、そしておそらくすべての教会も信徒も恐れにとりつかれるほど不安であったと思います。昨年の秋に何度目でしたか緊急事態宣言が出された時、私たちの教会はある決断しました。「私たちは、二、三人であっても教会で礼拝を捧げたいと切に願われる方に対して、もう教会は閉じずに教会を開け続けておこう。」

もちろん、体調やお仕事の関係上、様々なご事情のある方にはどうか無理はされないようにともお伝えいたしました。そうして教会を開き続けて今日まで主は守り、導いてくださったのです。

主はそういう中で様々な方がたとの出会いとともに、主のお働きと、主が共におられる確かさを今日まで見させていただいています。

「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる」と、主を今日も賛美します。今週も復活された主が今も生きて私たちと共におれるその証人して至福の道、確かな人生を歩んでまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする