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この世界に真の平和を!

2021-11-28 12:55:39 | メッセージ

礼拝宣教 イザヤ11・1-10 世界バプテスト祈祷週間・待降節(アドベント)

                                                

主イエスのご降誕を待ち望む、待降節・アドベントを迎えました。今年はクリスマス礼拝(聖書からのメッセージとゲストを迎えての「ピアノ演奏と朗読と祈り」が12月19日、イブの燭火礼拝・キャンドルライトサービスが24日に予定されております。又、本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝となります。

 

今朝はアドベントの始まりと世界祈祷週間を覚えつつ、イザヤ書11章から「この世界に真の平和を」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

救い主、イエス・キリストのご降誕からさかのぼること、紀元前722年。当時イエスラエルは北と南に分断されておりましたが。まず、北イスラエルがアッシリアによって滅び陥落した後、南ユダもそのアッシリアの脅威にさらされることになります。そこで神によって立てられた預言者イザヤはそのユダに向けて、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。主の怒りは彼らの滅びに向けられる」と語ります。その預言どおりアッシリアからの難を逃れたものの、神と人とにおける不義に対して主の言葉を聞きながら悔改めることのなかったユダは、後にバビロニアによって崩壊の途を辿り、都エルサレムも遂に壊滅的な状況となるのであります。

エルサレムの神殿は倒壊し、その周辺の家々は焼き払われ、廃虚と化し、技術や技能を持つ働き手たちの多くはバビロニアに捕囚として連れ去られ、ユダの地はまさに切り倒された大木の切り株のみが残されるような惨たんたる結末を迎えるのであります。

 

ところが、これで終わりではなかったのです。

11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」。

主なる神は彼らが滅ぼし尽くされることを決してよしとはなさいません。彼らの悔い改めといやし、回復と復興の道。さらには、全世界に開かれる祝福に向けた神のご計画は人の目に見えないところで着々と推し進められていたのであります。

 

この「エッサイ」とは、統一イスラエル王国の初代王であるダビデの父親の名です。ダビデはエッサイの7番目の末っ子であったのですが、神の召命によりイスラエルの王となるのです。列王記や詩編には、その栄光とともに力をもった王ダビデの罪深さや弱さも赤裸々に記されていますが。そのゆえに、ダビデは神さまに依りすがらなければ到底立ち得ない者であることを深く思い知らされるのです。彼の切実な主への祈りと訴え、悔い改めと感謝が綴られている詩編は時代を越え、今も私たちに深い共感と生きる指針を与え続けているのであります。

 

まあ、そのようなダビデ王が立てられ、治め、ゆたかな葉を茂らす大木のようになったイスラエルはその子ソロモン王に引き継がれていきますが、それも長くは続かずやがて王国は南北に2分され、先に申しましたように北イスラエルは滅び、遂に南ユダも切り倒される木のように裁きの時を迎えるのであります。

しかし、今日の聖書はその切り株からひとつの芽が萌え出でる、というのです。

このエッサイの木は遂に切り倒されて切り株のみが残りましたけれども、その根っこの部分はしっかり生きていたのです。そうして「その根からひとつの若枝が育つ」のであります。

根っこのところというのは土の下ですから目には見えません。大木でありますならその根はその地表に現れる大木の大きさの何倍何十倍もの根を地中に張りめぐらしています。根は英語でルーツ。それは起源とか根源とか、あるいは由来とか先祖とか、よくルーツをたどるとかという使い方をよくいたしますが。ユダヤの人たちにとってルーツ、根っこは、まさしくアブラハムから脈々と受け継がれてきた神の選びと救いの祝福とその契約であります。

 

木は切り倒されても切り株の根から新芽が萌え、若枝が育っていきます。そのように人の世の力や権力とは異なる神の権能を帯びた若枝が芽吹く。

イザヤは、この切り倒されたエッサイの株から、そのような若枝、すなわち平和の王(メシア)が出現なさることを預言します。そしてこの新しい王がダビデやソロモンといった世の力、権力による王と異なりますのは、「主の霊がその上にとどまる」という点でありました。

それは2節にありますように「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」がとどまる全く新しい王であります。

 

さらに、この新しい王は3節以降で語られるように「目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭でもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし/真実をその身に帯び」と、そのように世界を治めるお方だというのです。

 

これらの「霊」がとどまる新しい王は、3~4節にありますように、世の論理や権力や武力によって裁くのではなく、権利と尊厳を奪われ「弱くされた人」と、搾取され苦しめられている「貧しい人」のために、神の掟と戒めに沿った「正当な裁き」と「公平な弁護」を行うのです。又、それに逆らう者に御言葉の鞭をもって打ち、死に至らしめるともありますように、弱い人、貧しい人を蔑ろにする者に対して、神の義が厳格に行われることが示されます。

 

ところで、これまでの旧約聖書におけるサムソンやギデオンのような士師たちはイスラエル王国が出来るまでの間、さばき司として仕えたとされますが。彼らはイスラエル王国成立のためのいわば軍事的指導者たちでありました。けれども、預言者イザヤは、新しい王がもたらす「平和の訪れ」を語ります。

イザヤ書2章4節~5節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の光の中を歩もう。」

 

この預言の言葉から思い起こされますのは、私たちの国の憲法9条であります。敗戦の中から「二度と戦争はしない」という不戦の誓いとして今日まで先人が守り、保ってきた、その礎によってまがりなりにも戦争に組みせず、平和を享受してきた私たちであります。

この福音の響きを有する「平和憲法」の理念とその価値が今後も失われることのないように、私たちはその平和の尊さを守り、イザヤを通して語られた不戦の平和とそのビジョンを次世代に語り継いでいく責務があるといえるでしょう。

 

6節以降では、その平和の王が治める世界観が描かれています。

「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さな子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものをも害を加えず、滅ぼすことはない。」

 

そのように新しい王、平和の王であられるメシアのもとでは、相容れなかった「人と人」「国と国」「人と自然界」の間に和解と共生の道が築かれていくと語られています。

それは「狼は子羊と共に宿り」「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」ごとく、世にある対立の関係はもはやなくなり、そこには恐れも不安も不要となる。又、弱いもの、小さいものを脅かし、害を与え、牙をむくようなものが、弱いもの、小さいものと共生、共存する世界であります。

それはあたかも天地万物の造り主であられる神さまが創世記1章において、すべてのものを創造し終えた時にそれらを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃった、そのような世界であるようにも思えます。

まさに9節で「大地が主を知る知識で満たされる」とありますように、あらゆる国々のあらゆる民が、平和をもたらす王なる主と、その御心を知る知識に満たされ、素晴らしい神の国が実現されていくというビジョンがここに語られているのであります。

 

10節「その時が来れば/エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。

 

イザヤ自身は地上の生涯においてその出来事を目にする事はありませんでしたけれども、彼はその出来事が将来必ず実現するとの信仰による希望を抱きつつ、その時を神の民として生き抜いたのです。

イザヤの時代から700年あまり、想像しがたい幾多の苦難の時代を経て、遂に神の御独り子イエス・キリストが救い主、平和の君として、まさに切り倒された株のエッサイの根から萌え出でる若芽のごとく世に現れてくださったのであります。それの神の国とその福音は、選びの民としてユダヤ人、又イスラエルの国の隔ての壁を突き破られ、あらゆる民族、すべての国のメシア、「真の平和」の王としてお出でくださったのであります。私たちも今こうして、その旗印を見上げ、その栄光を拝しているということでございます。

最後に、今日のこの「平和の王」と「その御国」についてのイザヤの預言というのは、当時のユダヤの状況と、現実からすればあまりにもかけ離れたものでありました。神への不信と不義、さらに不正、搾取と争いがはびこっていたのです。イザヤはそれでも神から預かった「平和の王」到来のビジョンを、かたくなで聞く耳をもたない人々にも訴え続けていったのです。

 

今、私たちの生きる世界や時代もイザヤの時代のように戦争や紛争、抑圧や搾取が絶えません。確かに、平和の王なる主は来られたのでありますが、「真の平和」の完成の日は未だ途上にあるといえます。それどこか昨今、後退しているようにさえ思える現実があるわけですが。しかし、イザヤはそのような日常の生活、取り巻く社会の中で神のビジョンを掲げ続けていったのであります。

 

聖書の「預言」とは、将来に起こることを予め語るというのではなく、神からの言葉とビジョンを預かるという意味です。ほど遠い現実に嘆き、苦悩しながらも、それをしっかりと握り、掲げ続けていったその先に民の大いなる悔い改めが実現していきました。ビジョンを掲げ続けるところに平和は生み出され、実現していくと信じます。

その一つの顕れとして、本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝をお捧げしています。日本バプテスト連盟からインドネシアに派遣されています野口日宇満・野口佳奈両宣教師、カンボジアに派遣されています嶋田和幸・嶋田薫両宣教師夫妻、シンガポールの国際日本語教会に伊藤世里江先生が現在派遣されています。それらのお働きはかつての日本のアジア諸国に対する戦争を神の前に悔い改めをなし、神の和解の福音の招きによって始められ、こうして続けられています。又、ルワンダに派遣されています佐々木和之国際ミッションボランティアの働きは、福音とその教えを基とした平和構築の学びと活動が中心となっています。

それぞれのお働きとご健康と必要とがすべて備えられ、かの地と私たちの間に、平和の王なる主とその御国が、このクリスマスにあって実現しますように。

「この世界に真の平和を」。私たちも又、今日の主の御言葉を預かりました。この主の約束を望み、信じ、祈りながら、平和の王、主イエス・キリストの和解の福音に生きる者として、今週もそれぞれの場所へ遣わされてまいりましょう。

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