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あなたの神を賛美せよ

2021-11-21 16:11:26 | メッセージ

礼拝宣教 詩編147編1~20節

 

先週日曜日の午後は、田辺バプテスト教会の草刈りワークに参加させていただきました。田辺教会の方々はじめ、このワークに参加された平野教会の方がたともお会いし、正味2時間ぐらいの作業でしたが、草を刈り、小枝を切ったその心地よい自然の匂いにほんまに癒されました。又お茶の時間には参加者の自己紹介なども行われ、良き出会いと交流の時にもなりました。長いコロナ危機が続き、教会間でこうした主にある交わりがなかなか持てなかった私には2年前まであたりまえのようにあった主にあるつながりの喜びと拡がりを改めていただくことができ、心身ともにリフレッシュされました。田辺教会のある方が私に「大阪教会でも草刈や木の選定等が必要な時には、出かけていきますので、声をかけてください」と仰ってくださった言葉がうれしかったです。

又、9月に行われました関西地方連合信徒大会の報告等が綴られた「連合ニュース」が出来ました。まだ、御覧になられていない方には配布しております。必要な方は受付にも置いておりますので、ぜひお読みください。長きに亘るコロナ危機で諸教会の抱える課題は様々でありますけれども、1つの教会で行き詰まることなく、キリストの体として建てあげられていくために、協力し合える教会のつながりがあるということは幸いです。今後そうした教会間の出会いと協力がさらに活かされ、福音が分かち合われ、証しとされていくようにと願うものです。

 

さて、本日は詩編147編から「あなたの神を賛美せよ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。詩編の中には、あなたたちは「賛美せよ(ハレル)、神(ヤハウェ)を」と謳われている賛歌が多く収められていますが、それらは「ハレルヤ詩編」と呼ばれています。

本日の147編も「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる「ハレルヤ詩編」の一つであります。詩編の最後におさめられた146編から150編の5つの「ハレルヤ詩編」は、あのヘンデルの「メサイア」のハレルヤコーラスのように「神を賛美せよ」、ハレルヤ、ハレルヤとほめうたう、天と地の大群衆の壮大な光景が浮かんでくるような思いがいたします。

 

本日の1節で、詩人は「ハレルヤ」と、神への賛美、神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、いかに美しい(うるわしい)ことかと謳います。

それは「わたしたちの神が」、2、3節にあるように、「崩壊したエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださり、打ち砕かれ心の人々を癒し/その傷を包んでくださる」お方であるからです。

人の罪が招いたエルサレムの滅亡後、追いやられ、飼い主のいない羊のようにさまようほかなかったイスラエルの人々を囚われの身から解放し、エルサレムへ帰還させてくださった。主は憐みと慈しみをもって心の砕かれた人々を癒し、その傷を包まれます。そうしてイスラエルの人々は主である神さまに立ち返って生きる喜びで満たされ、「賛美します、神よ、ハレルヤ」と高らかにほめうたうのです。

わたしたちも同様ですね。先ほども、救いの神とその栄光を高らか賛美しました。神の慈しみをほめうたいました。地上のどんな歌よりも魂に喜びがあふれる主である神への賛美は、ほんとうに美しく快いものであります。

 

その主なる神さまは、万物を創造し、司って4,5節「星に数を定め、それぞれに呼び名をお与えになる。わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない」と謳われています。一昨日金曜の夕方6時頃でしたが、皆既月食がありました。御覧になられた方いらっしゃいますか。天体の運行も英知によって完成され、この地球をいのちにあふれる星となさった壮大な創造主である神の御業。

 

さらに8節でも「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせる」と、自然界における神の恵みのゆたかさをほめうたいます。

詩人は、天体や自然、森羅万象のすべてを生み出し、治めておられる神がお造りになった世界はかくもすばらしい。しかし、人は神から離れその御声を聞くことをやめたところから、この世界は大きく損なわれていきます。弱い立場にある者は顧みられず、権力を持つものや財や富を持つ者から搾取と抑圧を受けるような社会にあって、6節「主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される」と主を畏れる詩人は謳うのです。います。その声は小さいようにありましても、主は決して聞き逃したりなさいません。「主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」

 

クリスマスの時期に読まれます「マリアの賛歌」には「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/私を幸いな者というでしょう。力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。その御名は聖であり/その慈しみは代々限りなく/主を畏れる者に及びます。主は御手をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし/権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ/飢えた人を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い/慈しみを忘れず/その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの先祖に語られたとおり/アブラハムの子孫に対してとこしえに。」(ルカ1章46-55新共同訳改訂版)と、そのようにマリアは主を賛美しました。

それはおかれた社会で、その生活の中から出た神を畏れる貧しい人の祈りでした。それは又、実現されるべき神の国の訪れに向けた預言でもありました。今を生きる私たちも、すべてを統治し、司っておられる主に訴え祈り続ける者でありたいと願うものです。

 

詩編147編9節には(これも新共同訳改訂版でお読みしますと)、「獣にも、叫び求める烏の雛にも/食べ物をお与えになる」と謳われていますが。ここでは、人に疎んじられる烏、しかも産まれたばかりのなすすべのない無力な「雛」が象徴的なかたちで描写されていますように、主はご自分に向かって叫び求める力のない者たちに、代価なしに食べ物を与え、養ってくださるお方であるということが賛美されているのです。

 

10―11節では「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」と謳います。馬の勇ましさとは軍事力の誇示を表しています。人の足の速さは戦争に備えた勇敢な歩兵、これも力の誇示です。強さや猛々しさを誇示する様は、裏を返せば不安や恐れの表れでもあります。自らを守ろうとして「権力」「財力」「体力」「実力」など、力とつくものを鎧のように身にまとって尊大に振舞いますが、それはやがては廃れていくものでしかありません。

それとは全く反対に、主なる神さまが人間に望んでおられるのは、主を畏れる人、自らのなすすべもない無力さを知り、心砕かれて神の慈しみを乞い求める人、祈らずにはおれない人、そのような人を望まれるということです、

今世界には、又私たちの社会には、痛み苦しむ人、飢え渇く人、紛争によって国を逃れるしかないような人があふれています。軍馬や歩兵の勇ましさによる繁栄や戦の勝利よりも、人としての尊厳といのちが回復されますように、と切に訴え求める祈りが神の御前に満ちているのではないでしょうか。

 

そこで詩人は12-14節で、イスラエルの同胞に向けて次のように謳います。

「エルサレムよ。主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む(あなたの)子らを祝福してくださる。あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。」

本日はこの個所から「あなたの神を賛美せよ」という宣教題をつけさせて頂きました。

詩人はこの短い節の中で、全天全地を創造され、森羅万象を司っておられる大いなる主である神さまが非常に近しい「あなたの神である」ということを6回にも亘り、宣言し、賛美するように促しているのです。

10月から本日迄、8週に亘り詩編を読んできました。そこで気づかされた一つは、この賛美されるお方が、あなたにとって如何なるお方であるかということを問いかけであります。そして、どのような時にも、わたしの主、わたしの神としてより頼んでいく者のところに、主である神さまは確かに共におられる。その確信、喜びと希望が「ハレルヤ」という「神への賛美」へとつながっていくのであります。

最後に詩人は、神の民としての幸いを賛美します。

19-20節「主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない、ハレルヤ。」

「掟と裁き」と聞くと、何かマイナスのイメージがありますけれども、決して人を縛り、不自由にすることではありません。「掟」は十戒をはじめ神が語られた律法とその精神です。これは主イエスがおっしゃった「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことに集約されている、真に人を生かすためのいのちの御言葉なのです。

「裁き」とは、単に白か黒かを判定し、黒なら断罪されるということではありません。それは、神の慈しみによる助けと救いが実現されているか否かということが明らかにされる、ということなのです。

 

ここで詩人は、主がご自分の民のために語られる生きた御言葉を、その全き「掟と裁き」の麗しさを、感謝をもってほめたたえます。

そうです、それは意味の分からない呪文や呪いではありません、単に道徳的な規律やルールでもありません。人を真に生かす掟。そして主ご自身が、痛まれるほどの慈しみによる裁きを明らかにされ、御言葉によって教え、さとし、守り、導いてくださったのです。

私たちの主、イエス・キリストの御名と御救いを今日も賛美します。

来週は救い主のご降誕を待ち望むアドベント(待降節)、バプテスト世界祈祷週間を迎えます。

私たちもまた、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人とされている幸い、そして神の祝福を受け継ぐヤコブの子孫に接ぎ木された幸いを、「ハレルヤ」と心の底から喜び、共に心を合わせ、主に心からの賛美を捧げてまいりましょう。

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